二等辺な三角関係 第8回
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 清涼感のある真っ白なシーツ。衛生的な消毒薬の匂い。
 薄いブルーのカーテンに仕切られた一台のベット。
 その上で、先輩は穏やかに寝息を立てています。
 先輩の目元にはどす黒いクマ。あの人の縛り。
 先程まで常駐していた保険医の話によりますと、肉体的なものだけでなく、
 精神的な疲れもあったのではないかとのことです。
 やはり、専門家はその手の勘も鋭いのでしょう。
 まさに先輩はあの人によって心身ともに衰弱させられていったのですから。
 睡眠不足はあくまで引き金に過ぎません。
 根本の問題は別のところにあるんです。

 ベットのバネを軋ませながら、眠っている先輩の隣に腰を下ろします。
 現在保険医はいません。
 ここ保健室の三つ隣にある給湯室で統括部の青木先生とくつろいでいます。
 お二人はどちらも三十過ぎで、気楽な同年代とやらの男女ペアです。
 それでお昼前は何時も、給油室にある専用のポットで入れた紅茶でお茶会をしているんです。
 ご丁寧に居場所を印した小型のホワイトボードが入り口の扉にかけてありますから、
 急患や怪我人が来ても気付きますしね。
 先輩の症状も十分な睡眠を取れば改善されるそうですし、本場の英国人のごとく
 大事なティータイムをなくしたくはないんでしょう。
 その他の色恋沙汰について私は感知していませんが。

 さて、

 だから、この部屋にいるのは私と先輩の二人だけです。
 しかも、先輩は意識がありません。
 ですから、私は思ったままに動けます。
 よって、私はそっと先輩の横に添い寝します。

 シーツを捲り上げ、靴を脱ぎ、足から体を滑り込ませます。
 私は小柄ではありませんので、先輩に触れないように横になるのはなかなか難しいです。
 ベットから落ちないように、フレームに手足をかけ、重心を固定します。
 待ちきれずに胸を躍らせながらすっと横を向きました。
 先輩の寝顔がすぐ側にあります。シーツ越しに胸部が規則正しく上下しています。
 やや釣り上がった眼も、苦笑してばかりの唇も、この瞬間だけは幼く、愛らしく変わる。
 私が願って止まない理想の先輩がここにいるように思えます。
 私を必要としてくれる先輩が。
 ……じんわりと唾液が溜まってきています。唾を飲み込む喉が生々しい音を立てます。
 好きな人の無防備な姿はこれほど愛しさをそそられるものなんでしょうか?
 私はただ先輩に惹きつけられていきます。
 色素が薄い唇に、滅多に見れない先輩の微笑を作るそれに、抗いようのない魔力を感じます。
 あの人がいくら先輩に甘えようと、決して冒されることのなかった場所。
 卑怯者と罵られようが、今こうして奪っておかなければ先輩は……。
 私は伸ばした右手で先輩の顎を上げようと、私との距離をなくそうと――

 突如、視界の先輩が消えてしまいました。

 左肩に衝撃。木刀で殴られたかのような鈍い痛みが広がります。
 右手をフレームから離したせいで、一気に力のかかった左手が滑ってしまったようです。
 私はベットから転がるように落ちていました。
 床との激突時に呼吸が一瞬止まったのが効いたのか、私は我に返ります。

 ……何を……、……しようとしていたのでしょうか。

 ――決まってます。キスです。

 クスリと、地べたに寝そべっている現状と合わせて自嘲してしまいます。

 策士策に溺れる。
 前々から軽度の禁断症状は出ていましたが、まさか我知らず先輩に手を出そうとは……。
 論理の飛躍どころではなく、意識さえも超越してます。
 ……ここ最近は特に危険です。決定的に先輩とのふれあいが不足しています。
 やはり、卒業アルバム実行委員からくすねてきた先輩の生写真だけで、
 先輩のいない空洞を埋めるのには無理がありました。
 ……いや、校内水泳大会の水着姿とかかなりくらくらさせられたですけどね……。
 幅広の肩とか小麦色をした腰のラインとか柔らかそうなふくらはぎとか……。
 その効能の分だけ、実物の先輩に触りたくて仕方なくなるという重度の後遺症がありまして、
 最終的にマイナスになってしまったので失敗だったんですが。

 でも……これから先気付いたら先輩を押し倒していたとかないですよね?
 もし受け入れてくれるのならばそのまま全身全霊を先輩に捧げますが、
 拒絶された場合私は自分がどうなってしまうのか想像もつきません。
 拒絶されるってことは二度と必要とされないってことと同義です。
 そんなことになったら……多分、恐らく……間違いなく、……私は壊れてしまうのでしょうね。
 それくらい私は先輩と切り離せなくなっています。
 だからこんなまだるっこしい策を取っているんです。
 先輩が私から離れていかないように……。
 静観する計画を覆して、傲慢不遜のお飾り役員、あの吐き気がするほど嫌悪感のある利己主義者を
 煽ってまで、先輩を追い詰めたんです。
 わざわざ教室まで先輩に会いに行ってあの人への挑発に及んだんです。

 ……だって、……だってしょうがないじゃないですかっ!

 ……先輩が私を放っておくから。
 喜び勇んで帰ったあの日からもう一週間になるのに先輩はまだ粘ってて……。
 あの人を見捨てようとしなくて……。
 それなのに私との約束は忘れてるし、私に相談どころかそれらしい態度すら見せてくれない。
 あんまりじゃないですかぁ……。
 私が今週をどれだけ惨めな気持ちで過ごしたかわかりますか?
 先輩に忘れられ、それこそ見捨てられたような気持ちであのガラスから
 絶望的な光景を眺め続けるしかなかった、そんな苦痛を知っていますか?
 先輩があの人の頭を撫でる度に、先輩があの人に抱き付かれる度に、
 むなしくそれを倣って自分の頭に手をかざしたり腕を体に巻きつけた、
 そんな愚かしさを理解してくれますか?
 間接的とはいえ、先輩に策を講じるしかなかったそんな弱さを認めてくれますか?
 あの人を私に置き換えた妄想をして体を火照らせた、そんないやらしさを許してくれますか?
 ……疼くんです。じくじくと。それはもう身じろぎしたくなるくらい。
 呼吸のリズムが短く、早くなって、そんな荒々しい獣のような息継ぎをみっともないやら
 情けないやらと思いながらも、だんだんそのことしか考えられなくなって……。
 ……全身の感度が些細な快楽も逃すまいと限界まで鋭敏になっているんです。
 指でその緩んだラインをなぞるだけだって、切ない切ない刺激となって溢れた愛液は
 氾濫どころか洪水にまで至ってしまうでしょう。
 昨日なんか熱を持った下半身を鎮めようと足を動かしたら、下着で軽く擦れてしまって……。
 ――喘ぎ声は歯を食い縛って出しませんでした。
 ですがその後数分は完全に腰が砕けて動けなくなってしまいました。
 くてっと扉に背中を預けながら、余程自分で慰めたい衝動に駆られたのですが……。
 先輩のため、先輩にそれをしてもらうためだけに私は……。

 ねっとりと湿り、ぬちゃぬちゃとした感触。ギリギリ嗅ぎ取れるくらいに微かに漂う隠微な香り。
 今現在だって私は理性と愛欲の瀬戸際に立ってます。
 私には、先輩と手を繋いだり、撫でてもらったり、抱きついたり、
 言うまでもなくキスした記憶なんてありません。
 ですから、先輩との密着はさっき肩を貸したのが初めてだったんです。
 妄想のフラッシュバックが実体験を伴って、いよいよ効果が桁違いに跳ね上がってます。
 脳内麻薬の分泌が抑えられず、心地よい欲望に身を委ねたくなります。
 ――キスしたら最後、私は暴走してしまいかねません。
 そんなことになれば先輩に嫌われてしまいます。
 先輩に淫乱だなんて思われたら死にます。
 即、表の道路に飛び出して走行中のトラックにタックルします。
 先輩に嫌われる私なんて死ねばいいんです。
 そう、先輩を不快にさせる人間なんてみんな死ねばいいんですよ。

 あなたもそう思いませんか? ――竹沢先輩。

 理性が先輩の拒絶とセットになっている愛欲に競り勝ったことで、大分落ち着いてきました。
 落ち着けば自分が抱いていた不安の正体も見えてきます。
 予想以上の先輩の竹沢先輩への入れ込み、なかなか私に頼ろうとしない先輩、
 それでも沈黙を守ろうとした自分、焦り、渇望、動揺、我慢、不満、エトセトラエトセトラ。
 ――要するに、私は幸平先輩を竹沢先輩に奪われるのが恐かったんです。
 杞憂も杞憂。あり得るはずがないんですけどね、そんなこと。
 だって先輩は同情であの哀れな小娘(年上ですけど精神がバグを起こして幼児化したような
 あの人にはお似合いです)に付き合っていてあげただけなんですから。
 あの人がしたことと言えば泣いて、喚いて、甘えて、駄々こねたくらいです。
 微塵も先輩の役に立ってなんかいません。ただ迷惑をかけていただけです。
 そんなんで先輩に好かれようだなんて図々しいにもほどがありますよ。

 ――だけどそれももうすぐ終わりです。

 跳ね起きて、制服の汚れを払いました。
 先輩からのSOS信号、うわ言でですが先輩は確かに私の名前を呼んでくれました。
 そこに縋るような想いが篭められているのを感じ取れました。
 後一押し、いえ押すまでもないかもしれません。
 きっと先輩は起き次第私に全てを打ち明けてくれます。私に全てを委ねてくれます。
 それで幕引きです。ふざけた喜劇の終幕です。
 私は傷付き、苦しみの渦中にある先輩を女神のごとき慈愛を持って迎え入れ、励まし、支え、
 あの寄生虫から引き剥がせばいいんです。
 弱っている時の気遣いがどれほど心に染み入るか、推し量るまでもなく
 そのまま先輩は私にべったりになるでしょう。
 ついでに邪魔者も遠慮なく排除できて一石二鳥です。
 そう、まるで私に寄りかかるように先輩は――寄りかかる?
 ……違いますね。それじゃあ先輩が私に依存するみたいじゃないですか。
 私と先輩は健全かつ社会的かつ清く正しいパートナーとしての形を求めているんです。
 そんなどこぞのハリガネムシと同じことを先輩がして嬉しいわけがありません。

 依存は愛じゃありません。私はただ愛されようとしているだけなんです。

 ですからね、幸平先輩……?
 先払いで手を握るくらいは、許してくれますよね……?

 「こ〜ちゃんっ! こ〜ちゃんっ! こ〜ちゃんっ!どこっ!?」

 けれど私のささやかな望みはあっさりと踏み潰され、鬱陶しい舌足らずな口調、
 眼ざわりこの上ない元凶が喚きながら乱入してきました。

 ――私は神様に嫌われているみたいです。
 自分では我慢のできるイイ子だと思っているんですが一体何がいけないのか。
 予想していたこととはいえ、少々早過ぎます。
 せっかく先輩と好きなだけべたべたするチャンスだったのに……。

 勢いよく開けられたらしい扉は、レールを滑って壁にぶつかり派手に振動しました。
 ここまで間が悪いことはそうはないに違いありません。
 音に驚いた先輩の眼がパチリと開き、左右に慌ただしく首を振って状況の確認をしています。
 ……先輩が起きるまで手を握り続けるつもりだったのが……、残念でなりません。
 「……んっ? 何だ……、あれ? 麻衣実ちゃんどうしたの?」
 「私は先輩の付き添いです。ここは保健室、先輩は寝不足で倒れたんです」
 「……ああ思い出してきた。そうだったな。……まあそれはともかく今すごい音しなかった?」
 「……しましたよ。……先輩の身体を思い遣ることすらできないなんてどれほど身勝手な――」
 しかし、不満を述べようとした私の余裕は、次の瞬間には跡形もなく消し飛んでしまいました。

 何故なら――

 「こ〜ちゃんっ!!!」

 その人物と私達を遮っていたカーテンに黒い手形が付いたと思うと一気に引き放たれ、

 「ごめんなさい。ごめんなさい……。ごめん、なさい。……ごめんな、さい。ごめっ……んなさい。
 ごめんなっ……さい。ごめんっ、なさい。ごめっ……んなさい。ごっ……、ごめんなっ……さい。
 ごめんなさい。……ごめんなさい。ごめんな、さい。ごめんっ、……なさい。ごめんな……、っさい。
 ご……めっ、めんな、さいっ。ごめん……、なさい。ごめんなっ……、……ご、ごめっ、んなさい。
 ごめっ……ごめんなっ、……さい。ごめっ……ごめんなさい。ごめん……っなさい。ごめんな――」

 ――――――――壊れた懺悔と共に、血だらけの竹沢先輩がそこにいたからです。


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