二等辺な三角関係 第7回
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 初めて、完璧だった竹沢の仮面にヒビが入った。
 俺と二人きりでなければ一度も乱れたことのないその天真爛漫に、とうとう小波が立ち始める。

 「おいっ……」
 俺は必死に慌てふためく感情を押さえ込み、焦燥を悟られぬようにした。
 しかし、その一言だけで俺の言いたいことはわかるはずだ。なのに、竹沢は動かない。
 向日葵。
 太陽光を集めるために、ただそれだけのために、咲き誇る花は空を見上げて笑いかける。
 装飾華美な比喩にしても、こいつに酷似しているんじゃないか。
 そして、それが今にも枯れそうな精一杯の空元気に見えるのは俺の贔屓目なのだろうか。

 落ち着け、泣くな、笑うな、怒るな、頼るな、動くな、壊れるな、後にしろ。
 クラスメイトが、友達が見てるんだぞ?
 こんなところで醜態を晒したらもう後戻りできないんだぞ?
 本気で精神病院に担ぎ込まれるかもしれないんだぞ?
 変人のレッテルを貼られて二度とこんな日常を過ごせなくなるんだぞ?
 約束しただろうが、ここさえ我慢すれば二人の時にはいくらでも構ってやるって。
 頼むから……それだけ守れれば俺はお前の側にいてやるから……。
 だから耐えてくれよ……。

 だけど、俺の懇願は竹沢には届かない。

 「こ〜ちゃんってさ、彼女さんいたの?」
 好奇心旺盛な子供が尋ねるように、あくまで竹沢は純粋な興味で訊いているように見える。
 けれど、裾を摘んだ指は力が入って白くなっている。
 天真爛漫の表と依存症の裏が鬩ぎ合ってる。あるいはその表裏が逆転しようとしているのか。
 「いない。残念だけど麻衣実ちゃんは断じて違う」
 どうしてお前が訊く必要があるだろう? 訊くまでもないだろうが。わかっているだろうが。
 睨みつけた眼光も、竹沢の笑顔に吸い込まれていく。
 言葉を紡げない。行動で示せない。
 竹沢は飴をあげなきゃ泣き止まない。
 鞭を打たなきゃ言う事を聞かない。

 「でもちゃん付けだよ?」
 そこにも嫉妬するか……。後で訊けよ、今じゃなくて。
 「それなら竹沢だってそうだろ」
 「違うよ。わたしはみんな同じように呼ぶもの」
 食い下がるね。
 「苗字で呼ぶのは堅苦しいし、かといって名前を呼び捨てするのもさ」
 「まだわからないな〜。それだったら苗字にちゃんを付ければいいんじゃないかな?」
 天然ボケの八割は演技だってのが俺の持論だが真実だね。
 竹沢、俺はお前の人格がどっちがどっちだかわからなくなってきたよ。
 全部が全部計算尽くでやってるんじゃないか?
 「中央委員って雑用ばかりなのに生徒会の次に偉い立場なんだよ。だから結構真面目に
 働かなきゃいけないわけだ。仕事も多いし苦労も絶えない。
 ちょっとぐらい雰囲気を和らげようとする試みは正しいと思わないか?」
 「おおっ納得だね」
 声を荒げ、語調を強く。
 真実を含めた正論にオーバーリアクションで深々と頷く竹沢。
 ……どうやら、ギリギリでなんとかなったようだ。
 周りの連中はマイペースなヤツだなくらいにしか思っていないだろう。
 しかし、俺はその姿に嘲笑されている気がしていた。

 ふざけるなよ。

 摘んだ指を乱暴に外す。
 粗っぽい扱いに、竹沢はそれでもにこにこしている。けれど、それは紙一重の見せ掛けだ。

 ――これじゃあダメだ。制御がきかなくなってきている。

 数時間、それはそれは益体もない雑談。
 趣味とか好きなテレビ番組とかを、学校と変わらぬ様子でダラダラ喋っただけだ。
 それだけだ。他に何もしていない。
 これだけで俺は竹沢を甘やかし過ぎたと言うのだろうか。
 依存を自制不可能にまで膨れ上がらせてしまったのだろうか。
 ……そんなの、余りにも理不尽じゃないか。それくらいで狂われたら手の打ちようがない。

 畜生……畜生……。

 無茶苦茶に腹が立つ。
 しかし俺はその怒りが誰の無力さに向けられたものか気付いてしまう。
 ……ははっ、なんてくだらない。
 要するに、それって俺の責任なんだよな。
 断れば自殺しかねない乱れぶり。
 受け入れれば心中させられかねない怯えぶり。
 現状維持とはそれらを先延ばしにしただけだ。
 だから少しずつ、少しずつ動かすつもりだったのに。
 まさか小サジ一杯の砂糖で、均衡だった秤の片腕が地に堕ちるなんて俺に想像できたのか?
 ――しなきゃいけなかったのさ。そうだろう? お前にはその義務がある。

 逃れられない自責の念に俺は塗り潰されていく。
 ほとんど黒に近い藍色が俺を絶望に染める。
 冷たい寒色に凍えそうになる。

 さむい。頭が痛い。ダルイ。

 ……俺はどうすればいい?

 「幸平先輩」
 

 そっと。
 手が、暖かい暖かい手が、立ちっぱなしで固まっていた俺の頬を撫でた。
 遅れて、気遣いに満ちた涼やかな声が俺を極寒から救い出す。
 「どうしたんですか? そのクマ……。疲れてるんじゃないですか? 眠いんじゃないですか?
 先輩? 先輩? 大丈夫ですか? ……そんな様子じゃ危ないです。保健室に行きましょう」
 えも言われぬ安堵感に包まれていく。
 そして、彼女の言う通りかもしれないなと思った俺を、途端に凄まじい眠気が襲う。
 ただでさえ眠りかけていたのに、それに輪をかけた猛攻だ。とても逆らえるものじゃない。
 前後不覚に陥る。足元が覚束無い。
 ふらつく俺は腕を取られ、声の主と共に歩き出す。
 ……名前に先輩って付けるのは何か変だな。でも嫌じゃない。
 ぼけているのかそんなことを考える。

 「腕組みっ!」
 「うそおおおおおぉぉぉぉ……」
 「どう考えてもそういうのとは違うと思うんだけど……」
 「先生には言っといてやるからしっかり寝ておけよ」

 聞こえた喧騒は右耳から左耳に通り過ぎる。
 瞼が重い。輪郭の歪んだ世界が二重三重になって見える。
 しかし、ぶれながらも前方を歩く艶のある黒髪は、まるで墨を滴らす高価な筆。綺麗だと思う。
 振り返りこちらを窺う。
 珍しく露にされている表情は不安一色で揺れている。
 嬉しかった。
 俺にはこんなに親身になってくれる人がいてくれるのかと。
 欠伸を出す気力もない。眠い。ねむい。体が動かなくて今にも倒れそうだ。
 けれどそんな睡魔に食い付かれながらも、俺は光明を見出す。

 ――彼女なら、椎名麻衣実なら俺を助けてくれるんじゃないだろうか?

 この優秀で冷静で俺には勿体無いくらいの部下なら。
 この礼儀正しくて真面目なよくできた後輩なら。
 俺が困った時にはいつも頼れる味方でいてくれたこの娘なら。

 「……幸平先輩、先輩が助けて欲しいと言ってくれるなら、私はいくらでも力になりますよ」

 消えかかった意識に、その言葉の威力は計り知れなかった。
 まだあったじゃねえか、選択肢。
 俺には麻衣実ちゃんがいる。彼女に相談すればよかったんだ。
 そうさ、麻衣実ちゃんならきっと、きっと解決の方法を教えてくれる。
 俺の手に負えなくなってきている以上、迷惑承知で誰かに助力を求めねばならないんだから。
 そして、俺が頼る相手は半年前からずっと同じだ。
 ――これで万事上手くいくさ。

 「こ〜ちゃん」

 教室を出る直前、そう呼ばれた気がした。
 明るくゆったりした調子だったのに、頭の中で反芻するボイスは金切り声の絶叫。
 記憶の海から浮かぶのは、またもあの告白。俺を捉えて離さない魅惑。
 でも、まどろみかけた俺に麻衣実ちゃんの腕を振り解く力は残っていなかった。


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