二等辺な三角関係 第9回
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 驚愕で私も先輩も完全にフリーズし、彼女から眼を逸らすことさえできずにいます。
 まさかこんなことになろうとはとは思いもしなかったんです。
 「……あっ、……あ、……ああっ、……、おい……、たけ、ざ……」
 起き抜けの先輩が受けたショックは私の何倍か、とても察することはできそうにありません。
 息も絶え絶えに喋るのがやっとの様子からはそれだけの動揺が伝わってきます。
 程度の差こそあれ私も似たようなものです。
 心臓を鷲掴みにされたかのように身動きがどれません。
 ――これは狂気です。
 純然たる狂った気質です。
 どうして……どうしてあなたはそこまでしてしまえるんですか……?

 竹沢先輩は暫らく奇怪な宗教の狂信者のように謝罪の言葉を繰り返していましたが、
 先輩が無意識にベットの上で後ずさったのを見ると、
 一際大きく叫んで先輩の上に飛び込みました。

 血に染まった身を躍らせて。

 出血部位は左手首。
 滴る血液が真紅のインクとなり、手の平をなんともおぞましいスタンプにしています。
 その身の毛もよだつ負の感情が押し当てられたカーテンは、恐らくもう二度と使えないでしょう。
 ブラウスやスカートの赤黒く染め上げられた箇所も、それで触れたに違いありません。
 しかし、床に点々と垂れている赤い液体を見る限り、さらに出血量が増すことはなさそうです。
 所謂リストカット。致命傷に至ることはまずないと見ていいでしょう。
 傷口もあまり開いておらず、カッターナイフでも使ったと思われます。
 それにより早急に処置を施すまでもなく、その周囲の血液がドロドロに固まりつつあるようで、
 後は簡単に止血して病院に行けば、入院する必要もないでしょう。
 ――ですがまだ体温を保っている命の一部が切り裂かれた肉体から地に流れ落ちていき、
 汚れた床の不純物と交じり合って汚染されていく。取り戻せなくなっていく。
 そんな生命への冒涜に対する畏怖と興奮がいやでも胸を昂ぶらせます。
 硬質の粒子を鼻の粘膜に直接吸い付かせるような鉄の臭いに気分が悪くなってきます。
 胃の内容物が逆流してしまいそうな不快感。胃酸の酸い味を舌が感じ取りました。
 吐き気を抑えようと無意識に食道の辺りに手が伸びます。
 ……自傷とはそのスケールの小ささに反して、ここまで凄惨なものなのだったのでしょうか。

 先輩も私と同じ気持ちだったようです。
 それらの要素に凄まじい嫌悪感を丸出しにし、まだ乾ききっていない血を擦り付けるように
 先輩に抱き付く竹沢先輩を力尽くで振り払いました。
 宙を舞った竹沢先輩は、今さっき私が落ちた時よりもずっと速くで床に叩き付けられます。
 背中から肺に強い衝撃を受けたことにより、彼女はくぐもった呻き声を上げてそこに蹲りました。
 さらに傷に響いたのか、左手を強く握り締めて『痛いよぉ……』と声にならない声で訴えます。
 同情を誘うものがありますが当然の流れでしょう。
 まるで返り血を浴びた殺人鬼のような様相を見せる人間に、慄かない者はいないと思われます。

 私はそこでようやく失いかけた冷静さを取り戻すことができました。
 それから床に転げたリストカッターに抱いた憐憫が嘲りに変換されていきます。
 率直に言って、私はろくでもない方法で先輩を横取りしようとしているこの人が大嫌いですし、
 こんなことを仕出かして先輩の心労を加算させる人間に共感なんて不可能なんですよ。

 しかしまあ、まったくもってあっけないフィナーレ。進んで自らに引導を渡してくれました。
 ここまで馬鹿だとその猟奇的な姿も滑稽に思えてくるから不思議です。
 滑稽すぎて可哀想です。さらにその上をいって惨めです。
 今の彼女は不良に蹴られる遊園地の着ぐるみの中の人よりも哀れで無様に思えます。

 「何で……手首なんか切ってんだよっ!」

 竹沢先輩が何をしたか、遅れて理解が追いついた先輩の怒声。
 続く責め苦はいかなるものか。頑張ってこの人を再起不能にしてくださいね。
 もともと病んでいるみたいですから多少やりすぎても許されますよ。
 
 ――そう、竹沢先輩は越えてはならない一線を越えてしまったんです。
 先輩への想いのために自傷までできてしまったことは、決してアドバンテージではありません。
 その反対の最たるところにあるものです。
 彼女は間違いなく先輩に愛想を尽かされます。拒絶されます。嫌われます。
 常識的に考えましょう。こんな厄介を引き受ける人間なんて普通いません。
 依存が許されないのと同じです。
 その愛情はあまりにも歪。
 世界の規格外。社会の許容範囲外。人格の認識外。
 倫理が否定し、道徳が諫め、理性が忌避する人間の堕落。
 外れ者は破滅の運命を辿るのみ。
 何のために今まで私が我慢を続けてきたと思ってるんですか。
 先輩に嫌われないために決まっているでしょうに。

 竹沢先輩は喘息の発作でも起こしたかのようにぜいぜいと息をしながらゆっくりと
 上半身を起こし、先輩に涙と血の不足でおぼろげになっている視線を向けました。
「ごめんよぉ……こ〜ちゃん、ゆるしてよぉ……。わたしイイ子になるから……、
 こ〜ちゃんの言うことちゃんと聞くから……。こ〜ちゃんと誰か女の子が一緒にいても
 我慢するから、笑ってるから、……だから見捨てないでよぉ……。……反省してます。
 すごくすごく反省してます。その印にこれ切ったんだよ……?
 痛くて痛くて痛いんだけどこ〜ちゃんに謝るためだから我慢してるんだぁ……、
 ねっ? わたしはちゃんと我慢できるよ。できるから……、ねぇ、こ〜ちゃん……、
 わたしを嫌いにならないでください。放っておかないでください。無視しないでください。
 好きになってくれなくても、愛してくれなくてもいいです。
 でも、わたしがこ〜ちゃんを好きでいることだけはゆるしてください。
 それでほんのちょっとでいいから優しくしてください。……それだけ……、
 わたしはそれだけでいいんだよ……。お願い……お願いだよこ〜ちゃん……。
 お願いないなんだよぉ……」
 ――ある意味で、憎悪より怨念より鬼気迫るものがありました。
 気合の入り過ぎた長口上を苦にもしていません。ただ泣き、懇願するのに懸命のようです。
 この人は、先輩に手を振り払われただけでここまで狂ってしまうのですか?
 今でこそ先輩に拒絶(どう考えても大げさですがこの人にすればそうなんでしょう)された
 ショックで私のことなど眼中から消滅しているようですが、
 もし先輩が彼女を優しく扱ったとしても、私と先輩が二人きりでいるところを見て
 こうして狂わないでいてくれたのでしょうか?
 この人の言う我慢なんて当てにできるわけもありません。
 我慢できるならまず刃物を手首に押し当てる前に我慢してくださいよ。
 不発弾では済みません、一度爆発すれば終わりのただの爆弾なら御の字です。
 そうではなく、何時、何度爆発するか知れない危険物の所持者を買って出るなんてありえないと、
 いい加減この人も気付いてもよさそうですが。

 「竹沢……」
 先輩がその重くなっていた口を開きました。
 さあ今こそ裁きを下しましょう。先輩の鉄槌でもってこの愚かな罪人を滅しましょう。
 それが唯一の真理なのですから。
 お別れです。竹沢先輩。
 恐らくショックで自殺なさるでしょうから同情くらいはしてあげます。
 でもどうせ死ぬならあまり迷惑のかからない首吊りにしておいて下さいね。
 くれぐれも線路に飛び込んで電車をストップさせたり、
 樹海に行って失踪扱いになったりしないで下さいよ。

「……わかった。そんなに恐がらなくても大丈夫だよ。許してやるさ。……だから落ち着けよ」

 

 「……えっ?」
 唐突な先輩の許しに思わず驚きの声を上げてしまいましたが、小さかったためか
 誰も反応しませんでした。
 竹沢先輩がその胡乱な眼を見開いて先輩を凝視します。
 溢れた涙が彼女自身の希望を、先輩を映し出しています。
 先輩は――先程まで恐れ慄き、竹沢先輩に拒絶という止めを刺すはずだった先輩は、
 何故だか疲れきった顔にいつもの苦笑を浮かべ、何かを悟ったかのように悠然としていました。
 ――そう悠然としているように見えるんです。
 全てを受け入れる覚悟を決めた、そんな強い意志を感じさせる迫力があるのに。
 少しこけた頬を伝う一滴。あるいは雫。

 どうして先輩が泣いているんでしょう?

 竹沢先輩を刺激しないための演技には見えません。むしろ逆効果です。
 嬉し涙? そんな馬鹿な……?
 ……違和感が、決定的な違和感があります。
 どこか……どこかがズレていませんか……?
 悟りを開いて涙を流す僧の話なんて聞いたことありません。
 それはまるで人類滅亡の瞬間を予知してしまった預言者の厭世に似ています。
 先輩は一体何が『わかった』んですか……?

「俺のためにそこまでしてくれたんだもんな……」

 諦観と喜悦と悲哀が入り混じった複雑な呟き。
 先輩は溜息を吐くと、酷く優しい動きで竹沢先輩を撫でました。
 彼女は滅多に会わない親戚に可愛がられる幼子よろしく、おどおどと
 先輩の成すがままにされますが、悲愴だった面持ちにみるみる生気がみなぎっていきます。
 先輩は今自分が撫でている相手の血液がワイシャツやシーツに染み付いているというのに、
 それを気にする気配さえもありません。
 そんな二人を眺める私は展開に着いて行けるはずもありません。
 百発百中だったはずの予言が予期せぬ方向に向かってます。
 絶対の確信が崩壊していく様に、ただ混乱を深めていくしかありません。
 くるくるくるくると思考が大回転をする最中、ふいに漠然としたイメージが見えました。
 それは並行に立った長さの等しい二本の柱。その内の一本が、もう一本へと傾きます。
 傾かれた方は真っ直ぐ立てなくなった柱を自分も傾いて押すことによって
 何とか元通りにしようとしますが、なかなか上手くいかずにくっ付いた二本は
 不安定に揺れ動きます。
 そうこうする内に傾かれた方がとうとう支えきれなくなり倒れそうになりましたが、
 そこで倒れそうな相手に驚いて傾いていた柱が反対側に反り返りました。
 どちらも倒れる直前だった二本はその動きによって再び揺れ動き、
 やがて頂点を重なり合わせて双方から等しい距離で止まります。
 お互いがお互いを支え合い、のめり込む。整然とした美しさのある逆V字型の完成。

 閃光が私を貫きました。

 ここに至ってようやく気付いたのです。その恐ろしい可能性に。
 映像を言葉にするなら――共依存――依存される内に依存者を支える側も
 その関係に依存することで安定してしまった歪な形。
 先輩の精神の限界を遥かに凌駕してしまった竹沢先輩の狂気。強過ぎる責任感の暴挙。
 もう先輩の頭に共倒れ以外の選択肢は浮かんでいません。
 私に救いを求めていた弱気な心は完全に霧散してしまいました。
 竹沢先輩を見捨てるなんて以ての外、例え死の危機に瀕しようともそれはありえません。
 何故なら二人は一蓮托生、表裏一体、離れられない己の分身同士だから。

 ――先輩が竹沢先輩にとり込まれてしまっています。

 呆然とする私に、いえ私ではなく竹沢先輩に、先輩は続けます。

「そうさ……見捨てるなんてありえない。嫌いになるなんてありえない。
 どれだけお前が厄介だろうとそれは全部俺を想ってなんだ……、俺を想ってくれているんだ……。
 ……お前ほど俺を愛してくれるヤツがこの世にどれだけいるだろう?
 誰か別の女の子といるだけで不安になって泣いてくれるヤツが、
 自我の境界を放り出してまで俺に頼ってくれるヤツが、ちょっと冷たくしただけで
 手首を切ってくれるヤツが。……それら全部が――不安定な自己を他人に依拠することで
 安定させようとする利己的な行為――だなんて思えるはずがないじゃないか……。
 そんなのお前の存在を認めたくない奴らがお前を自分勝手な人間だと
 思い込もうとしているだけだ。……だから俺もお前の気持ちに答えなきゃいけない。
 答えられるのは俺だけなんだ。俺だけがお前にそうして好きになってもらえたんだ。
 俺だけがお前を救えるんだ。ならそれは義務以外の何物でもない、……何物にもなれない。
 ……本当はずっと不思議だった。どうして俺はお前を見捨てる選択肢に選ぼうとしないのかって。
 でもわかったよ。あるいはお前に告白されたときからわかっていたのかもしれないな……。
 誰かにケチを付けられようと、世間に疎まれようと、心理学辺りに非難されようと構わない。
 俺は、俺は確かにこう思うよ――」

 深呼吸してはっきりと、

 

「――――――依存は愛だと。そしてそこまで愛されたなら責任を取らなければならないと」

 

 滑り落ちた雫はしかしなくなりはしませんでした。
 同じ名を持つ人物がそこに抱き寄せられていたからです。
 無言の抱擁。
 右腕を掴んで引っ張りあげた竹沢先輩は次の瞬間には先輩の胸の中にいました。
 そして背中に腕を回され、きつくその小柄を締められています。
 あるいはその首を絞めるような力強さは、代わりに私が悲しさで胸が締め付けられるくらいに
 慈しみに溢れていました。
 リストカット直後で痛みも引いていないだろうに、竹沢先輩は日本晴れのごとき
 清々しい笑顔になっていきます。頬に涙を溜めつつ、文字通り血の気が引いているにも
 関わらずの喜色満面。
 嬉しそうです。とてもとても嬉しそうです。

 ――対して私は顔面蒼白もいいところ。
 擬似的な有毒鉱山。血。血。血。
 身体は隅々まで毒され、その鉄の臭いに吐き気が止まりません。
 何より私を蝕むのはそんなところで愛を語り合おうとしている先輩。
 狂気の沙汰で愛を獲得してしまった竹沢先輩。
 そして歪んだ関係を受け入れようとしている二人。
 信じられません。信じたくもありません。
 どうしてどうしてどうしてこんなことになってしまったんでしょう……?
 このままじゃわたしは……わたしは……。

「だって俺はな――」

 ――やめてください……まってください……そのさきをいわないでください。
 ……私はずっとそれをのぞんでがまんにがまんをかさねてきたんですよ……。
 そんな……、そんなのひどすぎますよ……。ひどすぎますよぉ……。

 ――しかし私の心は蹂躙され、先輩の宣告で完膚なきまでに打ち砕かれました。

「雫のことが好きだから」
 身を乗り出し、その狂った小娘に口付けを。

 

 だめです……、わたしももう……――――――――――――――――――――壊れました。

 

「あはははっ、あははははははっ、あはははははははははっ、あははははっ、あはははははは
はははっっっ、あはははははははははははははははははっっっっ、あははははははははははは
はははははははははははっっっっ、あはははははははははははははははははははっっっっっ、
あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははっっっっっっっっっっ!!!!!!!」

 天にも届く高笑い。
 まるで絶叫。まるで咆哮。いいんです。それでいいんです。
 最後の勝者に狂気が要るというのなら、私も狂ってみせましょうっ!
 溜めに溜め、耐えに耐えた想いの丈はどれほどか。
 先輩がその長さを測ると言うのであれば、ここで明かして差し上げますっ!

「こーへいせんぱい」
 短く呼んで、一、二、三歩。助走を付けて迷いなく。脇目も振らずに加速します。
 背後で遠ざかる先輩が振り返る気配がしました。私の豹変への驚嘆は何故か上擦った声。
 ――ああそうか……、私がいることを忘れてキスしたんですか。
 ……それはなんていうかもう……、……あまりの切なさにそれこそ死にたくなりますよ……。
 ――でもいいです。今にもう二度と私を忘れられなくなる思い出を作ってあげます。
 私だって十分先輩に愛される資格があるんだってことを実践して見せますから。
 両手両足を振れるだけ振ったがむしゃらな短距離走。
 最高速までにはまだ至りませんが、速度はすでに初速の何倍にも跳ね上がっています。
 順番に前に来る腕のうち、引き戻されて後ろへ振られようとする左腕の肘を曲げて、
 慣性の赴くままに左の上半身ごと大きく後ろに逸らしました。
 固く拳を作ります。必殺の一撃を放つ準備の完了です。
 時間にして数秒ほど、私は目的地である保健室の端のほうへと辿り着きました。
 迫り来るのは残暑に炙られた砂塵舞うグラウンド――ではなくその前にある透明の壁。
 ――リストカットとはレベルが違いますよ。……ただ、願わくば腱が切れないでくれるといいな
 なんて、それぐらいは思ってしまうんです。……でも、先輩に好きになってもらえない
 苦しみよりは、狂ってしまうほうが断然痛みが少ないんですよっ!
「いいぃぃぃぃぃぁやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああっっ!!!」
 激突直前に、痺れるくらい勢いよく右足を床に叩きつけ、全力で踏み切りました。
 合わせて振り絞っていた拳を正面へと突き出します。
 行き場を失ったエネルギーが半身をしなった弓のように弾き、拳が空気を切り裂きながら
 全身を持っていかれそうな速力でガラスを――

 貫きました。

 高くひび割れた破砕音。
 呆気ないほど簡単にガラスを突き破った左腕は、しかしその反撃であちこちを
 深々と透けた刃に噛まれる結果になってしまいました。ですが千切れていないだけ儲け物です。
 何だかんだで恐がって踏み切りを早くし過ぎたのかもしれません。それとも短い距離ですし、
 やはり速度が足らなかったか。――まあどちらにせよ、これでも及第点は付けてもらえますよね?
 だって鮮血の蚯蚓腫れが無数に走る腕に、砕けた破片が剣山のごとく突き刺さる拳。
 噛み付かれたままで今尚その鋭い牙が突き立てられている肩口なんか肉がズタズタに裂けて
 エグイことになっていますよ。
 ――痛いイタイイタイ――……ああ激痛が――痛い痛い痛い――痛覚が神経を焼いて――
 痛いイタイイタイ痛い――腕が八つ裂きになっちゃいますよぉ……
 ――イタイイタイイタイイタイ――
 ……意識が飛んで、でも逃れられない鎖に繋ぎとめられて、地獄の釜茹でにしたって
 もっと穏やかな苛み方ではないでしょうか?――痛い痛い痛い――
 痛いですよぉぉぉぉぉぉおおおお……―
 ―痛い痛い痛い痛い――あぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……せんぱぁい、痛いです……、痛いんです……、
 たすけてくださいよぉぉぉぉおおおおおお、あいしてくださいよぉぉぉぉぉぉおおおおおおお、
 私を見てくださいよぉぉぉおぉぉぉおぉおおおぉぉぉおおぉぉぉおぉおお――
 イタイイタイ痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイイタイ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
 イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ――
 せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい
 せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい
 せんぱいせんぱいせんぱい―――――――これしきの痛みが何ですか。

 死力を振り絞って取って置きの狂気を先輩に。歪んだ愛の告白を先輩に。
 苦痛を抱え、平静を装い、憎悪に耐え、嫉妬を募らせ、殺意を肯定し、しかし最後まで
 冷静さを失わずにそれらを爆発させる。
 そんな私にお似合いの静かな狂気で先輩を虜にしてみせます。
 私は絶対に負けません。他の全てを投げ打ってでも私は先輩が一番なんです。
 だから竹沢先輩、私は徹底的にやりますよ。
 先輩に愛されるために、あなたを必ず排除します。私の先輩を奪うのならば、
 その身でもって罪を償っていただきます。今あなたが得ている幸せは私の念願なんです。
 この抑圧し過ぎて狂ってしまった愛情の向かう矛先はそこ以外に存在しないんです。
 先輩がその切っ先を受け止めてくれるというのなら、私はもう我慢なんてできません。
 必要とされたかったのは、自分から先輩を求めることができなかった葛藤の裏返し。
 拒絶を恐れるあまり理性で自分を縛ってしまった愚考。

 ――それに終止符を打ちましょう。今こそ先輩の愛を手に入れるんです。
 左腕の惨状はあえて気にせず、私は首と右半身だけで先輩に振り返ります。
 この短時間に二度ですからさすがに脳が麻痺してしまって事態の飲み込みに時間がかかるのか、
 先輩はまるで白昼の公園で殺人の目撃者になってしまったかのように瞬きすらせずに
 唖然としていました。
 先輩の拒絶の恐怖がまだ残っているのか、それとも私の凶行に怯えているのか、
 あるいは対抗意識でも燃やしているのか、竹沢先輩が先輩に抱き付きを通り越してしがみ付きます。
 そのことに小さくも鋭い苛立ちを覚えますが、腕の痛みに比べたら些細なものです。
 条件反射で人を不安にさせる高音。
 竹沢先輩が自傷するときに誰かに見られでもしたのか、近付いてくる救急車のサイレンが
 近付いてくるのが聞こえます。しかし、事後処理も今考えるべきことではありません。
 肝心なのは一つだけ。
 私は努めて無感動に、しかし真摯に先輩に言葉を紡ぎました。

「せんぱいせんぱい幸平先輩。私はあなたを愛してますよ。ここまでやれるくらい愛してますよ。
 ――だからせんぱいもわたしを愛してくれますね?」


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