二等辺な三角関係 第10回
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 面会時間はとっくに終わり、夜の闇に包まれた病院の廊下。
 月光の薄明かりに照らされたリノリウムは、忍び寄りつつある秋季の冷気と相俟って、
 怪談めいた薄ら寒さを醸し出している。
 それは俺のいるこのフリースペースでも同様だ。
 無人の大型ソファや、客など来やしないのに健気に発行を続ける自動販売機。
 さっき隅に置いてある血圧測定器で健康チェックなどやってみたが、
 静寂に低く響くモーターの駆動音は、平均値を大きく下回ったその結果と同じく、
 要らないものでしかなかった。
 携帯を開き、時間を見る。もうすぐ日付が変わる頃合だ。
 担当した医師の話に寄れば、服用させた催眠鎮静剤
(鎮静剤とあるが、睡眠薬の正式名称だそうだ)の効果は十二時間程度、とのことだったから、
 正午を幾らか過ぎた時間に打った薬の効果が切れるまでもう暫らくの辛抱だろう。
 ナースセンターの人が差し入れてくれたコーヒーをちびちび飲んでいると、
 背後から機械的なまでに等間隔な足音が聞こえた。

「まだ起きていらっしゃったんですか」
「あんまり動くと傷が開くよ?」
 彼女が手術で打たれた麻酔はとうに効果は切れている。しっかりしているのは
 足取りだけではなくて、その感情を感じさせない表情も含めて全てがそうだ。
 精神的な心配も無用のようだが、入院服の裾や襟から覗く、
 包帯でグルグル巻きにされた左の上半身は、どうにも痛々しかった。
「多少、ジンジン痺れるような痛みはありますけどね。平気ですよ、これくらい。
 何週間か入院すれば無事退院できるそうですし。傷跡は残ってしまうそうですが、
 武勲ですからむしろ誇りです。――それよりも、先輩は誰を待っているんですか?」
 いや……あくまで心配が要らないのは上辺だけだ。あるいは必ず治癒する傷よりも、
 こっちの方がずっと性質が悪いかもしれない。
 雫にしろ、この娘にしろ、裡に抱え込むタイプが一旦暴走すると手が付けられないのは、
 日中に散々学習した。後戻りができるなんて考えを今更抱くつもりもない。
「……また暴れられたら病院の人に迷惑だと思ってね」
「結構じゃないですか。その時にはまた薬で大人しくさせればいいんです。そうですね……
 いっそのことそのまま永眠させたら如何です?」
 臆面も無く言い放つ。冗談めかした科白だが、その平淡な調子の裏に隠れた
 煮え滾るような殺意は、もう半ば透けているように思えた。
「……今日発見した麻衣実ちゃんの新たな一面は限りなくブラックだね」
「黒い娘はお嫌いですか? それとも私が先輩に牙を向くなどと、
 要らぬ心配をなさっているのでしょうか? 大丈夫ですよ、私が消すのは
 先輩に纏わり付く害虫だけですから」
「『消す』……ね」
 随分と物騒な話だ。

 何で俺はここまでこの娘に好かれてしまったのだろう。
 俺の何が、この娘を平気で片腕を犠牲にしてしまうくらいに熱烈な愛情に駆り立てたのだろう。
 疑問ほかにもある。
 それだけのことをやらかした後なのに、麻衣実ちゃんはこれといって
 情緒が不安定なってないってことだ。ポイントとしては、饒舌になり、
 自身がそういうように積極性を増したことくらいか。
 弁当を含めた荷物を教室に置いてきてしまったので、代わりの昼飯を病院の売店に
 買いに行った僅かな時間、俺が隣からいなくなったことに恐慌して騒ぎ立てた雫が
 眠らされてから消灯時間まで、その内、麻衣実ちゃんが手術を終えて目覚めた後の時間は
 彼女の独壇場だった。
 麻衣実ちゃんは、いかに自分が俺を愛しているか、いかに自分が雫より上回っているかを、
 多種多様な同義語異義語を留まるところを知らない言葉の激流に乗せ、
 さらには異文化間でも通用しそうな大げさなジェスチャーまで交じえて雄弁に語ってくれた。
 告白ならすでに『あの時』にされていたが、その理由付けということらしい。
 ご丁寧に自分が狂った理由まで滔々と話す様子を見て、『冷静に狂う』という
 彼女の言葉が理解できた気がした。
 言うなれば、冷徹に狡猾な策も、破滅的な狂気も、いかなことさえもできると言いたいのだろう。
 そして、その目的は極めてシンプル。
 俺に愛してもらうため。ただそれだけ。
 麻衣実ちゃんが持てる限りの語彙を使い果たしたと思われる弁論は、他に目的がないのだ。

「麻衣実ちゃんはさ……、その……、どうしてそこまで俺を好きになってくれたわけ?」
 余りに純粋で猟奇的、なのに理性的。
 彼女の愛情の度を過ぎた奇妙さに気おされて、聞きそびれていた疑問が、ふと口を付いた。
 異常者に何を訊いてるんだろうなと思いながらも、
 麻衣実ちゃんが真摯な答えを返してくれると疑わない自分に驚く。
 あるいは、昼間雫への好意を悟った瞬間に、もう順応してしまっていたのかもしれない。
 リストカットによる謝罪と、ガラスに腕を突っ込む対抗意識。
 二つの差を説明しろと言われたところで俺に説明できるはずもない。
 どちらもただ、破裂せんばかりの巨大な愛情表現の一部だということだけだ。
 そして、俺はそのような形の愛情にすでに堕ちてしまっているわけで、
 それだけで麻衣実ちゃんを拒絶したりはしないのだろう。
 好かれたら惹かれるのは真理。何度目の繰り返しか知らないが。
 だから嫌悪感なんて湧くはずもないし、従って取り乱したりもしない。
 事実、俺は自らが冷静と評する麻衣実ちゃん以上に冷静なのではないかと思う。

 

「先輩はどうして自傷で気を惹こうとするような陰気な女が好きになったんです?」
「陰気って……雫は我が侭言ったから俺に嫌われたかもって、ちょっと不安になっただけだよ」
 質問を質問で返されてしまった。
 麻衣実ちゃんは頭が切れるため、俺の拙い話術ではその本心を引き摺り出せそうにない。
 さりげなくフォローしまくりな自分は一先ず置いておくとしてだ。
「俺も内緒にしておこうかな。……いろいろあるんだよ。感情移入したくなるような理由がさ。
 まあ、ある意味では保健室で言ったあの言葉が俺の気持ちの全てだと思うよ」
「……そうですか」
 お互いに腹を割って話そうとしないので会話が途切れる。
 それこそ腹の探りあいになりそうな無意味な雑談ができるほど、俺は面の皮が厚くはない。
 間を持たせるために空のカップを傾ける。

「――椎名さん? ああ……やっぱり……。あなたはベットに括りつけられていなければ
 じっとしていることもできないの?」
 幸か不幸か丁度いいタイミングで、巡回の看護師さんが現れた。
 人生の酸いも甘いも知り尽くしたような壮年期の女性は、俺にコーヒーを差し入れてくれた
 婦長さんだ。
 口振りからわかるが、術後間髪入れずに俺に付きっ切りの麻衣実ちゃんに呆れているご様子。
「痛みだってまだ引いてないでしょうに、もう少し自分の身体を大切にしたらどうなの?
 そんなんじゃ何をやっても肝心な時に力が入らなくて悲惨な結果に終わるわよ」
「……すみません。……ですが、余計なお世話と言わせて下さい。私にとって先輩と話すのは
 自分の身体よりも大事なんです。――それと私は自力では生きられない
 無力な虫ごときに負けませんので」
 淡々と敵意をぶつけられた婦長さんは、俺に軽く目配せした。
 雫の事情を知っているプロの医療関係者は、
 この手の痴情の縺れが原因で引き起こされる事態を懸念してくれているらしい。
 具体的には俺の心労や雫の自傷症か。…全く、雫は幾つ『症』の字を付ければ気が済むんだ。
「……いいわ。少なくとも今日はもう遅いから後にしましょう。他の患者さんの迷惑になるから。
 用件だけ伝える事にします。――アナタのお父さんがさっきいらっしゃって、
 今、江田先生のところで説明を受けているところよ。――お父さんとお話したら、
 頭も少しは冷えるでしょう」
 やや厳しく告げて、婦長さんは巡回に戻っていった。

 見た感じ冷静とはいえ、麻衣実ちゃんもなかなかに危険な精神構造を持っているのだが、
 どうにも対応が雑じゃないだろうか。そりゃ確かに言ってることは正しいが、
 下手な刺激は向こうも気を遣うところだと思う。
 事実、俺や雫なんかとの対応に対して開きがあるような……。
「私は錯乱した竹沢先輩に突き飛ばされて怪我をしたことになってるんですよ。
 ですから、あの方も私を一般患者と同じように扱っているんでしょう。
 慇懃無礼な態度と合わせて、精神が不安定な竹沢先輩を挑発した生意気な泥棒猫、
 とでも考えていらっしゃるんじゃないですか」
 尋ねるチャンスを逸してしまい、後ろ髪を引かれる思いで
 婦長さんの消えた廊下の先を見続ける俺に、麻衣実ちゃんがその理由を教えてくれる。
「……私はあの方が私を先輩から引き剥がそうとするんで、
 そうした態度を取っただけなんですがね。いや、竹沢先輩を先輩の正規の恋人としているのに
 頭にきたのも事実ですが。――それにしても何も知らないということは、
 ネームプレートに婦長とありましたが、下っ端なんですね」
「ちょっと待って……、それってどういう……」
「……窓の外、ご覧になっていただけませんか」
 言われるままに四階からの展望を見る。
 深夜とは言えないが、一応は真夜中だ。眼下に広がる病院の駐車場は、
 電灯を除けば灯りなどほとんど見えないが……。
 ……違った。端のほうに一台目立つのが止まっている。白と黒のツートンカラーに、
 眩く光る赤色灯。サイレンこそ鳴らしてないが、良かれ悪かれ人目を惹く車ではあるだろう。
「公用車を平然と私用で使う性質の悪さからもわかると思いますが、
 どうしようもない人間でしてね。薄汚い権力者の鑑みたいな人です。
 多分学校か病院に圧力をかけて偽装工作を施したんでしょう。
 その手のパイプは下水管に負けず劣らずの本数を持っていますし。
 ――先輩、ここの医者から私と竹沢先輩が怪我をした状況を訊かれていないでしょう?」
「言われてみればそうだな……」
 概要ならあの後、事態を察知して即座に飛び込んで来た保険医に伝えたが、
 麻衣実ちゃんの意図するところでは、その詳細はかなり変わっているらしい。
「竹沢先輩は手首の切り傷ですから、見れば誰だってある種の状況に思い至ります。
 そこを利用したんでしょうね。私も手術が終わって、医者の話を聞くまで知りませんでしたよ」
 馬鹿馬鹿しい、今にもそう口に出しそうなほどの嫌悪感を露にし、麻衣実ちゃんは、
 明らかに侮蔑とわかる視線で四階下に位置する車を睨む。
 半年一緒にやってきた俺でも、彼女がそこまで鮮明に感情を向ける相手は二人しか知らない。
 一人目は言わずもがな、雫に向ける殺意の類である。俺への好意じゃないのが少し悲しい。
「どうせ、病院の先生方との辻褄合わせの仕上げでもしに来たんでしょう。
 揉み消すなら徹底的に、あの人は自分の立場を何よりも重んじますから。
 たかだか県警のお偉いさんごときで、何にしがみ付いているんだか知りませんけどね」
「……お父さん?」
「父と呼ぶのも憚られますよ。そもそも私の心配をしに来たのではありませんから、
 話が終われば即帰るはずですし。あの男こそ害悪の名に相応しい、
 存在価値零どころかマイナスの――そうでもありませんか、少しは利用価値がありましたね」
 くるりと振り向き、透き通るような瞳で見詰めてくる。
 その一瞬に完全に表情を消してみせるのが、麻衣実ちゃんの異常性なんだろう。
 そこにある狂気の奥行きが深ければ深いほどに。

         
  ・ ・  ・ ・ ・                 ・ ・ ・ ・ ・   ・ ・ ・ ・ ・
「殺人を事故死に偽装するのは無理でも、不審な事故死を、普通の事故死にするくらいなら
 恐らく可能でしょう。失敗すれば間違いなく切り捨てられて、良くて順当に檻の中でしょうが」

 絶句した俺から麻衣実ちゃんは眼を離さそうとしない。
 麻衣実ちゃんの視線は固い信念を持った槍だ。俺を貫いたきり、抜かれることを一厘だって
 疑っていない。――麻衣実ちゃんの父親のことはよくわからないが、少なくともある点では
 俺と共通している。……どうして俺はここまで俺を信じてくれる娘を
 切り捨てなきゃいけないんだろうな。
「……そういうことです。先輩の責任感が最高に素晴らしいんですよ」
 信じられないことに(失礼だけど)、麻衣実ちゃんはニッコリと笑った。
 単純にギャップの問題もあるんだろうが、その極上の笑みに俺は思わず陥落しそうになった。
 普段のクールな麻衣実ちゃんもいいけど、やっぱり笑顔のほうが可愛い。
 緩んだ口元なんて超絶レアものだぞ。
 ――三人目。麻衣実ちゃんは間違いなく俺を愛してくれている。
 そうでなければ、こんな心を躍らせるような笑顔を向けてくれるものか。

「先輩なら、例え私が檻の中に入ろうとも、先輩の愛しているならば、決して見捨てたりしないと
 信じていますから。――だから竹沢先輩を私が殺しさえすれば、
 きっと先輩は残った私を大事にしてくれるでしょう?」

 折角の笑顔が台無しになったなと、俺はそれだけを思った。それだけで十分だった。
 だってそれは予想されうる未来の形の確固たる一つだったから。
 こと恋愛関係において、責任を取れる相手は一人だけだ。
 だから俺は俺が選んだ雫を誰よりも大切にするつもりだし、殺させる気なんて毛頭ない。
 麻衣実ちゃんの好意は死ぬほど嬉しいが、それとこれとは別問題だ。
 ――だが、もし雫が死んでしまったらどうなる? 俺は死人に対して責任を果たせるのか?
 それは誠実さだと言えるのか? ……俺は死後の世界なんて信じちゃいない。
 あるのは現世、この世だけだ。
 それなら、雫と同じくらい俺を愛してくれる人に俺は惹かれるんじゃないか?
 愛されたら惹かれるのは摂理。愛してるから恋敵を殺して自分が愛されるなんて、イカレてる。

 でも、それほど愛されるってのは何ものにも変え難い至福じゃないだろうか。

 ――俺も壊れてるに違いねえな。

 どんなロジックだよ、それ。狂人と化した哲学者だって、人殺しが好きだとは言わないだろうに。

「……明日精神科に行って俺の分の精神安定剤も貰っておくとするわ。それじゃあ、
 もう一人の精神異常者がそろそろ起きる時間だから、おやすみ、麻衣実ちゃん。
 ……くれぐれも強硬手段には出ないでくれよ」

 雫の病室に歩き出す。
 麻衣実ちゃんは『お休みなさい、幸平先輩』とだけ言った。
 起伏のないトーンの裏に、どれだけの想いが秘められているのかはとても計り知れない。
 その想いを受ける俺は、抜け出せない混沌の中に嵌まり込んでいた。


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