二等辺な三角関係 第11回
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 時間が時間なだけに、喚かれたら他の入院患者に大迷惑がかかるので、
 雫の病室は一泊限りの一人部屋で、幅広の空間と一目で高価とわかるシルクのベットは、
 さながらVIP待遇だった。
 聞かされてはいないが、麻衣実ちゃんもそうなのだろう。彼女の父親の力は相当らしいから。
 どう考えても目立つパトカーで隠蔽工作をしに来るなんて矛盾してるんじゃないか、
 と最初は思ったが、表立った理由をとってつけるくらい簡単にできるとすればそれも理解できる。
 麻衣実ちゃんの狂気から雫を護衛してくれるように頼もうにも、
 その父親の息がかかっているのではまず警察は当てにはできまい。
 雫にとってみれば騎士は俺一人で十分なんだろうが、増援を期待できない状況では
 俺の士気も下がってくる。……冗談抜きで死地に赴く覚悟が要るのかもな。

 加えて、俺の平凡な学生生活も明日からは消えてなくなるんだろう。
 どのような形で広まったかはわからない。だが、雫が手首を切ったという
 ショッキングな出来事が学校中に伝播したのは確かだ。救急車まで出動してるし、
 好奇心旺盛な学生諸君から隠し通せているとは思えない。
 手首の切り傷はヤバイ人間を避ける目安としてよく使われる。
 本日付で雫もめでたくそのリストに仲間入りした。折しも今は受験戦争の真っ只中だ。
 刺激となる厄介者に対しては、誰もが触らぬ神に祟り無しを実践しようとするに違いない。
 端的に言えば無視。存在の否定。俺はその共犯者。導き出される結果は十分予想できる。
 この際、それに関しては俺はどうでもいい。あそこで雫を受け入れたらこうなるってことは、
 骨の髄まで叩き込まれてたことだし。
 ただ、何時だって笑い続けてた頑張り屋の末路にしちゃあそれは悲惨じゃないだろうか?
 可愛がってたペットがちょっと奇行に走ったら、世話を見なくなるのが
 正しい感覚とでも言うんだろうか?

 雫はその体躯には大きすぎるベットに埋もれるようにしてくるまっている。
 顔が隠れているので表情は読めない。ただ、身体が断続的に震えるように小さく波打つ。
 正直に見れば、雫の身長は平均をかなり下回ってるし、体の発育も多分に悪い。
 ……別に悪い意味で言ってるんじゃない。
 それだけ可愛らしいと思うし、庇護欲をそそられるから。
 そんな娘が背中を丸めてさらに縮こまる様子を見守りながら、俺は考えを巡らせていく。

 雫が求めて止まなかった父親は、娘が自殺未遂をしたというのについぞ姿を現さなかった。
 そもそも連絡を付けることさえできなかった。失踪中なんだからある意味では当然なのだろうが。
 しかし、それだけでは終わらないのがこの不愉快な現状だ。
 雫はその親戚や縁者までも、遠地に住んでいるとか多忙だとか理由をくっ付けて、
 誰も来てくれなかったのだ。中でも最悪なのが雫の実の母親、父親とは離婚した前妻で、
『現在の家庭を壊したくない』だとか何だかで、病院に搬送された実の娘を
 間髪入れずに見捨てやがった。だからそいつ等がかけるべき手間は、
 付き添って来た担任が代わりに引き受けてくれて何とか事なきを得ている。
 さらに、その担任によると、直接出向いた雫の自宅である安アパートは空で、
 雫は現在(家庭訪問や三者面談の時には父親がいた)一人暮らしをしているらしい。
 幸い、ウチの高校ではアルバイトは許可制なのだが、雫はその申請をしていないので、
 金銭面での困難はないようだ。仕送りくらいはされているのか、
 それとも消えた父親の置き土産が生活費なのか。

 ……どちらにせよ、雫の家庭環境は孤独に満ちている。
 依存症と父親との関係は度々仄めかされていたし、参考資料もあった。
 麻衣実ちゃんに伏せたのがそうで、俺の恋愛観の根本になってたりするのだが、
 あまり表立って言いたい話ではないのでここでは省こう。身内の不幸自慢なんて鬱陶しいだけだ。
 まあ、麻衣実ちゃんのバックにかかれば調べ上げるのは造作もないことだろうけどさ。
 ともかく、その辺りの事情が雫の歪みの一因ではあると思う。
 やはり予想でしかないが、雫の父親が何かやらかして、
 実家や元妻から冷たい扱いを受けることになったに違いない。
 そして、そこから派生した経験が雫に暗い影を落としたんだろう。
 あの眩しい笑顔も果たして本心からのものであるのか、今になって考えてみると怪しい。
 あれこそ雫が抱える欠陥の発露なのではないだろうか。

 ――そこまで思考を進めて、俺はようやくその音に気付いた。
 雫の身体が振動するたびに、押し殺したようにくぐもってはいるが、
 しゃくりあげるような声が漏れている。てっきり寝息の上下運動だと思っていたが、これは……。
 俺はどうしたらいいのやら……。
 時計の針はとっくに真上からずれてしまっている。
 その原因を薬の効果に個人差があるからだと考えることもできるが、
 それは逆の場合だって想定できる。つまり、雫が早めに起きてしまったという場合だ。
 早めに起きた雫は何を見たのか――答えは考えるまでもない。
 俺は守るべき相手を泣かしてどうするんだろう? それでなくたって雫には俺しかいないのに。
 都合のいいことにこの病室は、隣の病室からトイレと階段とエレベータを挟んだ隅に位置し、
 対面にあるのは薬物保管庫の一室となっている。
 ……人間嫌いなVIP様に感謝しつつ、俺は改めて騒ぎが起きても大丈夫なことを確認した。

 「雫、狸寝入りなんてよせ。そんな疑わなくても俺はお前を置いてどこかに行ったりしないよ」
 声をかけるや否や、俺は想像以上に強い力でベットの上に引き倒されていた。
 視界が逆転し、二本の細腕が死力を振り絞って俺を捕縛する。
 背骨が軋みそうなくらいの力が俺を締め上げる。雫は嗚咽こそ押し止めているが、
 月夜の薄明かりに照らされてちらりと映った顔は、やっぱりぐしゃぐしゃになっていた。
 言葉を発することなしに、雫は握った拳で俺の胸をドンドンと叩く。
 手加減なしの攻撃は耐え切れないほどの威力となって、強制的に俺の酸素供給をストップさせた。
 残った片手が突き立てる爪が食い込みを増し、その痛覚に思わず声を上げそうになったが、
 それすらままならない。まるで、溺れた人に水中でしがみ付かれているかのような感覚。
 非力な俺では一緒に溺れてしまうのがオチの話。
 続く肺への渾身のヘッドバッド、掲げた足を振り下ろした内腿への重い蹴り、
 偶然入ってしまったのだろう肘の腹への一撃で、俺はとうとう堪えきれなくなって身を捩った。
 それで暴れていた雫の動きが止まる。
 ――当然だ。雫は好きで暴れていたわけじゃない、
 必死で相手を求めたらそれが暴れるような形になってしまっただけなんだから。
「こ〜ちゃ……あの、これは……えっと、違うんだよ……、違うんだよぉ……。
 こんなつもりじゃなくってね……? わたし、わたし……」
「し…ず……」
 大丈夫だと言おうとしたが、名前を呼ぶことさえままならなかった。
 俺は何処までも役立たずだ。大体、雫をほったらかしにして麻衣実ちゃんと会っていたのが
 俺が悪いのだから、雫が不安になるのに何の非があるだろう。そうさ、雫は悪くない。
 ただ人一倍寂しがり屋なだけなんだ。

 決壊した勢いは止められず、雫はとうとう喚きだす。
 いつものように滂沱しながら、いつものように涙声で、いつものように病んだ熱烈さで。

「……こ〜ちゃんに好きって言ってもらえて嬉しかったのに、……嬉しかったから、
 それだけこ〜ちゃんが何処かに行っちゃうかもって、あの娘のところに行っちゃうかもって
 考えたら、恐くて堪らなくなって……。……でもこ〜ちゃんには嫌われたくなくて、
 だけどこ〜ちゃんとあの娘が一緒にいるのは嫌で、でもあの娘に何かしたら
 こ〜ちゃんに嫌われちゃいそうで、……もうわけわかんないよぉ! 嫌だよぉっ!
 わたしと一緒にいてくれなきゃ嫌だよぉっ! ……もうわたしこ〜ちゃんがいないのは
 耐えられないんだよぉ……。ひとりぼっちは嫌だよぉ……。こ〜ちゃんはわたしだけと
 一緒にいてくれなくちゃ嫌なんだよぉ……。ほかに何もいりません。
 そのためだったら何だってします。
 だから……、だから、これだけはお願い。本当の本当にこれだけだから……。
 わたしだけを見てください。わたしだけを好きでいてください。わたしはこ〜ちゃんが好きです。
 愛してます。だから、見捨てないでください――」

 ――雫の懇願は結局そこに帰着する。依存と愛情と嫉妬が連立した不可思議な願望に。
 それが何故かと訊くなんて今ここでは無粋だろう。
 俺はただ、こいつを心から安堵させてやればいい。
 そして、そのための方法は何がある?
 ……って考えるまでもないか。どうせ今の状態じゃ言って聞かせることはできそうにないし。
 気力で頭を上げ、うつ伏せに俺に乗りかかっていた雫の口を塞ぐ。
 涙目が点になり、瞬く間に今度は嬉し涙が溢れてくる。そんな様子がおかしいのに愛おしい。
 ……とびっきりの甘やかしがこいつには有効なんだよ。

「ふぉ〜ちゃぁ〜ん……」
 これだけで完全に疑心を捨て去ってくれたらしい雫は、代わりにうっとりと蕩けた顔を
 紅く火照らせながら、大胆にも舌で俺の唇を割って――
「……その先はなしだ」
 だけど、その甘い空間は俺自身が引き裂かねばならなかった。
 自分からしたクセに、ようやく笑顔にできたのに、心から求めてきた雫を押し退ける俺は、
 間違いなく最低で残酷な埃未満のクズ野郎だ。
 ……でも、どうしてもその先は許しちゃいけなかった。
 俺の自制心を保つための手段はそれしかなかった。手を出してしまうのは簡単だ。
 慰めてあげるのも簡単だ。だけどそれじゃあ雫を救えやしない。
 もし俺までこの奔流に流されてしまったら、誰が雫を引き上げるのだろう?
 俺は何時だって雫の先導役でなければならない。
 ――忘れてはならない。この病院には麻衣実ちゃんがいる。
 狂っても尚、俺に対して誠実な態度を崩さなかった彼女のことだから、
 別れの挨拶をした後につけて来るなんて真似はしないだろうが、
 かといって俺と雫がここで一線を越えてしまって、違う誰かに気付かれないとも限らない。
 キスまでならば彼女の許容範囲内だとわかっている。しかし、その先は確実にアウトだ。
 そんな馬鹿げたミスで雫の命を削ってなるものか。悪戯に麻衣実ちゃんの殺意を煽って、
 こいつの生存率を下げるような愚行だけは絶対に避けなければ。
「どおして……?」
 そんなに絶望的な顔をしないでくれ。お前の泣き顔はもう見飽きた。笑え。笑ってくれ。
 それも造花の向日葵なんかじゃない。本物の冴え渡るようなお前の笑顔を見せてくれ。
「どおしてなの……? こ〜ちゃん……。……やっぱりわたしのこと嫌いなの?
 ……あの娘のほうがいいの? ……ねえ、こ〜ちゃん、答えて……? 答えてよぉ……?
 答えてよぉぉぉぉ!」
 止んでいた攻撃が再開した。雫は俺に馬乗りになって胸倉を掴み、力任せに前後に揺さぶる。
 脳を激しくシェイクされて滅茶苦茶になった平衡感覚に、俺は頭を刻まれるような頭痛を催した。

 激昂というよりは慟哭。不満をぶちまけるというよりは悲嘆に暮れる。
 意志の強制というよりは、信じられない現実に哀願する感じ。
 この掴む手の強さも、鬼気迫る表情も、耳を穿つ叫び声も、全部雫の愛情が大きいから。
 ――麻衣実ちゃんが言うには、俺はその心地よさに堕落して、共依存の対象として
 雫を求めているだけらしい。でも、それは間違っている。
 誰だってそんな関係を築きたいと心の底では思っている。
 堕落するくらいに愛されたいと思っている。必要とされたいんだ。それって当然の感情だろう?

「……なにか、なにかいってください……」
 言葉尻が消え入りそうな敬語になると共に、雫の身体から急速に力が抜けていった。
 こいつはそういう娘だ。ひたむきで健気で一途な娘だ。何をしようが、何も言うまいが、
 最後の瞬間まで俺が見捨てないと信じてくれる。……信じるってのは委ねるってのと同義。
 そして俺もそんな雫を見捨てたりはしない。多少の暴挙が何だって言うんだろう?
 麻衣実ちゃんの見立ては正しかった。俺は残りの人生を放棄してでも、
 この娘と一緒にいてあげたいと思う。俺をそんなにも愛してくれるこの娘を
 愛し続けてあげたいと思う。

 ――だから、そんな俺から雫にする要求は一つだけ。

「あのさ……」
「なにっ?」
「……そんな慌てるなよ。……俺さ、雫のことすげえ好きだよ」
「……ほんとう?」
「ホント」
「あの娘よりも……?」
「……正直言うと同じくらい好きだ」
 嘘はいけない。すでに方便を尽くしている誠実さなど何になると非難されても仕方がないが、
 俺はそれでもなるべく純粋な雫の気持ちに不純なものをぶつけないようにしたい。
「そんなのって――」
 逸る口をまた塞いだ。卑怯だとは思うが、話を最後まで聞いて欲しい。
 雫の頭が真っ白になっている内に、その隙間に言葉を注いでいく。
「……でも、先に告白してくれたのは雫だし、俺が最初に好きって言ったのも雫だろ?
 だから、二人が同じくらい俺を好きになってくれたとしても、俺は雫への責任を全うしたい。
 ずっと雫と一緒にいてあげたい。……だからそのために、雫にお願いしたいことがあるんだ」
 雫も麻衣実ちゃんも、その言動は病んでいたり狂っていたりととても平常じゃないが。
 その分、伝えようとしている愛情の規模がわかるから。
 それで俺は二人が好きになったんだと思う。
「なに……かな?」
 怯えなくても大丈夫。これだけだから。頼むよ、雫。

 「死なないでくれ」

 それで俺はお前を永遠に愛し続けてやるから。

 

 ――麻衣実ちゃんは本気だ。きっと全力でもって雫を殺しにくる。彼女の覚悟はわかった。
 文句なしな具合に教えてくれた。そして、確かに俺はその覚悟に魅せられた。
 でも、それでも俺の一番は雫以外に譲れはしない。だから雫の条件はそれだけだ。
 殺されないでくれればそれでいい。麻衣実ちゃんを返り討ちにしようが構わない。
 それで俺の雫への愛は保障される。どうせこの二人に並ぶ女の子なんて
 金輪際現れやしないだろう。

 これは歪な三角関係。
 一本は依存。一本は狂気。
 底辺に繋がる二本は紛うことなき二等辺。二等辺な三角関係。
 半直線のごとき長さを持った、双頭の二等辺。完成された三角関係。
 それでも俺は選ばなければならない。選べるのは一本だけでしかない。
 長さが等しいというのなら、愛情の大きさが指標にできないというのなら、
 その連結が早かった者を、最後まで離れなかった者を、俺は選ぶ。

 俺の言わんとしていることがわかってくれたか、俺を信じてくれたかどうか、
 雫が反応してくれるまでの数秒は、今までの人生で最も長い時間だった。
 けれどそんな心配は杞憂でしかったと、雫のリアクションを見て思う。
 雫は、ただでさえ晴れ晴れとした喜色満面を誇っていたのに、それをも上回る笑顔を、
 綻びすぎて顔の輪郭を壊してしまいそうな笑顔を、文字通りの破顔一笑を、俺に向けてくれた。
「それだけでいいのっ?」
「そっ、……たったそれだけ」

 ――麻衣実ちゃんに殺されないこと――

 それは、『それだけ』で済むような簡単な話じゃない。
 雫は精神に問題があっても感覚が絶えているわけじゃない。麻衣実ちゃんの狂気が
 どれほどのものか実感したのはこいつも同じはずだ。
 そもそもあの時点で殺気がマシンガンの銃弾のごとく飛んでいたのだから、
 どんな鈍感でも気付く。
 なのにこうも安易に断定してしまうのは、やはり雫の依存心がそれに並び立っているのだろう。

「……嬉しいなあ。やっぱりこ〜ちゃんはわたしを一番に好きになってくれるんだ」
 過程を一切無視した自己完結。何の気兼ねもありゃしない。
 少しはその過程で散々な目に遭うだろう俺を気にかけて欲しいものだが、
 さらに輝きを増した雫の笑顔を見ていると、そんな些事はどうでもよくなってくる。

「こ〜ちゃんのためならわたしは何だってできるんだよ……。何だって……」

 それとなく大口を叩く雫は、だけど麻衣実ちゃんに似た強い意志に動かされていて、
 俺はますますそんな娘を愛おしく思った。


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