とらとらシスター 第30回
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 兄さんの部屋を出て、私は軽く身をよじらせた。こうでもしないとついつい笑い声が
 口から漏れてきそうになる。一言でも聞かれたくないから、足音をなるべく立てないようにして
 部屋から遠ざかる。
 何となく気になって、洗面所に寄った。
 やっぱり。
 鏡に写った私の顔は、酷く歪んでいた。堪えきれない歓喜に口の端が釣り上がり、それなのに
 瞳は鈍く光を反射している。細く鋭くとがった目はまるで、虎のように見えた。
 私は普段から無愛想な表情やキツい表情が多いと自覚しているけれども、
 それでもここまで酷いものは浮かべていないと思う。アンバランスなその色に、
 自分でも少し恐怖した。
 本当に、良かった。
 小さく安堵の吐息を吐く。
 もしこんな表情を兄さんに見られていたのなら、きっと幻滅をされていただろう。
 気合いを入れて、微笑を作ってみる。
 しかし鏡に写った私は我慢が出来ずに、すぐに先程の笑みに戻した。
 しかも、それには高い笑い声も付いてくる。最初は喉の奥から漏れる短い音だったそれは、
 次第に連続して大きなものになる。
 駄目だ、我慢が出来ない。
 頭の中で渦を巻くのは、兄さんとの幸せな時間と、あの邪魔だった薄汚い
『泥棒猫』の死の瞬間だ。いや、死んでしまった後でこのような表現をするのはおかしい
 かもしれないけれど、多少の敬意は払って『泥棒猫』から『泥棒虎』くらいは言ってあげても
 良いかもしれない。

 正直、ここまで私たちにつっかかってきたのは、二年前のあの娘以来。数えてみても、二人目だ。
 多分それなりに覚悟はしていたんだろう、最初に虎の目をして睨んできたときは少し驚いた。
 けれども、やはり覚悟も愛情も私が兄さんに持つそれには遥かに及ばなかったのだろう。
 ぽっと出の女なんてそんなものだ。
 だから、死んだ。
 思い出すだけでも笑えてくる。青海さんが死ぬ瞬間というものは、それだけ滑稽で愉快だった。
 やったことといえばとても簡単で楽しそうに兄さんを待っていた青海さんの背中を
 軽く押してあげただけ、それくらいなら非力な私でも簡単に出来る。余程驚いていたのだろう、
 突然空中に放り出された青海さんは呆けたような表情をして私を見つめていた。
 そのときの愉悦は多分永遠に忘れない。それから後も傑作だった。自分が置かれた状況を
 理解した後の顔、悔しそうな、悲しそうな表情も私に喜びを与えてくれた。
 でも。
 一番快かったのは、やはり体が粉々に砕けた瞬間だった。兄さんを横合いから奪った、
 その汚らわしい体がこの世界から消え去ったかと思うと心が途端に晴れやかになっていくのが
 実感できた。撥ねられ、挽かれた瞬間の音はまるで天井の竪琴が奏でる
 極上の音楽のようにさえ思えた。
 青海さんは、もう居ない。
 言葉に出さず、心の中で何度も噛み締めるように反復すると、その度に嬉しくなる。
 全く、あの人は馬鹿だ。

 兄さんが魅力的なのは分かるけれど、何度も頑張らなければ、それこそ虎にならなければ
 死なずに済んだのに。兄さんに色目を使わなければ悪い人ではなかったし、その部分を除けば
 嫌いではなかったのに、惜しいことをしたものだ。
 まぁ、それもこれも、自業自得なんですけどね。
 そう、私は悪くない。
 どれもこれも、殺してしまったのも、兄さんの為。
 このまま余韻に浸るのも悪くはなかったけれど、兄さんを待たせたくはないし、
 何より今は兄さんの隣に居たいので台所へと向かう。一旦部屋を出たのは、
 私が一息入れたいというのもあったけれど、純粋に兄さんが心配だったというのものが一番だ。
 青海さんの死で泣きすぎて綺麗だった声は枯れてしまっていたし、寝汗も酷かった。
 心の方は私が世話を出来るから大丈夫だけれども、そんな状態で起きているのは
 とても辛そうだった。未来の妻として、夫が辛い思いをしているときには助けなければ、
 それが良い妻というものだ。
 未来の妻。
 常日頃、日に何十度も思っている言葉が今は少し違って捕えられた。
 それはより鮮明な意味を持ちながら心の中に染み込んでくる。
 今日の朝までは目標としていたものなのに、
 今となっては実感を伴って私と兄さんの間に降りてきていた。
 兄さんが望み、
 私も望んで、
 隣に居ようとしている。
 唯一の邪魔だった人はもうこの世には居ない上に、二人の気持ちも強い。
 そこには何の問題もなく歩んでいける道がある。
 最高だ。

 いや、待て。
 私はある部屋の前を通り、もう一つの可能性に思い当たった。邪魔者がもう一人居た、
 それもかなり身近に。 姉さん。
 敵を一人殺したせいなのか、それとも兄さんの隣に居ることが嬉しかったからなのか、
 どちらにせよ高揚しすぎてうっかり失念していた。一番の邪魔は青海さんじゃない、
 長年私の邪魔をしてきた最も厄介な敵は姉さんだ。最近こそ私と兄さんが仲良くしているのを
 邪魔するようなことは少なくなってきたけれども、それでも完全になくなった訳ではない。
 方向性が変わったのか、少なくなったそれに代わってより一層兄さんに甘えるようなことが
 多くなってきている。青海さんが兄さんと仲良くしているのに、一生懸命離そうとしている私に
 反発したりとあざとい点数稼ぎなどもして、本当に油断がならない。
 そして何より、あの体だ。あまり頭の良くない私が言えるような言葉ではないけれども、
 どう考えても脳味噌の方に栄養が行っていないような下品な体型で兄さんを誘惑したあの体。
 実際兄さんはそれに初めてを捧げてしまったから、これからどうなるのか分からない。
 兄さんは馬鹿じゃないからそうそう同じ手にかかる訳はないと思うけれども、あの雌豚のことだ、
 どんな方法を使ってくるか分からない。もしかしたら、卑劣なことに弱っている
 兄さんの心に漬け込んでくるかもしれない。

 兄さんは繊細な人だから、弱っているところに救いの手が伸びてきたら掴んでしまうだろう。
 優しく伸ばされたそれがどれだけ甘美なものなのかは、昔から兄さんに救われ続けてきた
 私自身が一番良く分かっている。それに頭の良し悪しや心の強さは関係ない、
 ただ甘さを求める心だけがものを言う。だからこそ、心配になってくる。
 守らなければ。
 姉さんの毒手から兄さんを守ることが出来るのは、私だけなのだから。
 そう考えている内に、台所へと着いていた。色々考えながら歩いていたつもりだったが、
 あまり時間は経っていなかったらしい。もしかしたらゆっくり歩きすぎていたかもしれないと
 思って時計を見てみても、兄さんの部屋を出てからあまり時間は変わっていない。
 私は考え事をしてしまうと時間の経過を失念してしまうという悪癖があるので
 少し心配したけれども、今回はそれ程でもなかったようで少し安堵した。
 兄さんのことを想って、それで迷惑をかけてしまったら本末転倒だ。
 気を取り直し、冷蔵庫に常備してあるミネラルウォーターを出しながら、ふと思い付く。
 只の水よりも他に何かを入れた方が良いのではないだろうか。
 答えはすぐに浮かんできて、いつもの私特製調味料を多めに混ぜた。少し時間がかかるのを
 申し訳なく思ったけれども、兄さんが元気になることとを秤に架けたら充分にお釣りが来るから
 問題ない。
 愛情を込めながら軽くペットボトルを振り、しっかりと混ざったのを確認すると
 部屋で私を心待ちにしてくれているだろう兄さんのことを思い描いた。
「待ってて下さいね、兄さん」
 洗面所の鏡で確認をしたときのように失敗しないよう、落ち着いて笑みを作る。
 そして姉さんを排除する方法を考えながら、しかし遅くならないように少し急いで、
 私は兄さんの部屋に向かった。


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