とらとらシスター 第29回
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 軽く体を揺すられて、ぼんやりと目が覚めた。薄く目を開いてみれば周囲は明るく、今
が何時なのかは判断が出来ない。携帯で時間の確認をしてみると、表示されている時間は
午後の三時、今頃僕と青海はどこかの喫茶店にでも入って軽食を楽しんでいる頃だろう。
 それとも、公園の芝生でお茶でも楽しんでいるのか。
 靄がかかった思考で浮かんでくるのは、そんな何気無い風景。
 僕と青海?
 午後三時?
 状況を整理して、まず最初に来たのは強い悲しみだった。あの悲惨な現場を、
 何よりも青海を失ってしまったという実感に目元が熱くなる。気が付けば声が漏れ、
 滝のように涙が溢れ落ちてくる。雫が頬を伝う感触を不快と思いながらも、
 しかし拭う気力さえ湧いてこない。甘えているとは思うけれども、
 ただ流れにまかせてずっと泣いていたかった。
 不意に、頬に柔らかい感触が来た。
「兄さん」
 声や感触の主はサクラだった、視線を向けると悲しそうな目をしたサクラと目が合う。
 しかしサクラは何も言わずに、僕の頬をハンカチで拭っていた。丁寧に、ゆっくりとした速度で
 布が滑り、目元までそれが移動する。それはそのまま両目に当てがわれ、僕の視界を塞ぐように
 止まった。気遣いをしてくれているのか、何も目に映らないようにしてくれているのを
 有り難いと思いつつ声を荒げた。これはきっと、泣いても良いというサクラの無言の言葉だろう。
 口にすることだけが繋がりではない。

 涙が布に吸われていくのを感じながら数分、漸く気分が幾らか落ち着いてきたのか
 目元から溢れる雫も勢いを無くし、声も収まってきた。
 数秒。
「兄さん」
 ハンカチを目元に当てたまま、再びサクラが呟いた。
「何が、あったんですか?」
 僕に遠慮してなのか、若干控え目な声で尋ねてくる。
 言っていいものなのか、迷った。本当に大切なものだから簡単に口に出してしまっても
 良いものなのかも分からないけれど、それでも誰かに言ってしまいたいという気持ちが
 心の中で渦を巻いている。それ程の矛盾を作り上げるくらいに、人の死というものは重い。
 言葉にしてしまえば陳腐なものだけれども、どうしようもない。
 数分。
「あの」
 重苦しい沈黙を先に破ったのは、サクラの方だった。僕の手を取ってハンカチに当てさせたあと、
 僅かに離れたような気配がした。
「お水、取ってきますね。何か、たくさん泣いたみたいなので」
 立ち上がる音がするのと同時、ハンカチを投げ捨てた。その勢いのまま部屋を出ようとする
 サクラの手首を掴む。見上げた視界には驚いた表情の顔があった。
「あ」
 今になって、どうしようかと思った。多分、サクラは僕が言うのかどうか考える時間を
 くれようとして部屋を出ようと思ったのだろう。それなのに引き留めて、
 しかし僕はまだ言おうという決心がついていなかった。慌てて視線を反らしても
 何も変わる訳ではなく、再び気不味い沈黙が部屋の中に降りてくる。

「あの、兄さん、痛いので、その」
「あ、ごめん」
 どうやら強く握りすぎていたらしい、掴んでいた手を離すとサクラは苦笑を浮かべて
 僕を見た。そして手指を絡めて改めて握り返してくると、ベッドに腰掛けた。それはまるで、
 どこにも行かない、と言われているようで安堵が込み上げてくる。
「何が、あったんですか?」
「うん」
「帰りはもう少し遅くなるものだと思っていたので、驚きました」
「うん」
「それなのに、帰ってきたら靴があって」
「うん」
「しかも、寝ていたので」
「うん」
「デート、しなかったんですか?」
 うん、とは言えなかった。しなかったのではない、そもそもそれ以前の問題だ。
 青海は死んでいたから、デートなんて出来なかった。そのときは混乱していたから
 比較的大丈夫だったけれども、一度寝て現状把握出来るようになってからは、余計に辛くなってきた。
 今だってサクラが居るから何とかなっているけれども、もし一人だったらあのまま
 泣いていたに違いない。
「青海さんですね。全く、あの人は!!」
 そうじゃない、と言おうとしたけれども言えなかった。駅のホームで泣き始めてからの記憶が
 殆んど無いが、相当泣いてしまっていたらしい。喉が痛くて、声もかすれ、
 言葉が上手く出てこない。しかし無理矢理絞り出すように、
「青海は」

 これ以上言ったら危険だと、日常の側の僕が叫んでいる。心の扉はもう緩みきっていて
 意味をなさなくなっている。青海と居た側も、姉さんやサクラと情事を交した側も、
 関係なくなってきていた。どちらの声も、今や筒抜け状態だ。
 青海を失った痛みが強かったから、だから楽になりたくて、
「死んだ」
 言ってしまった。
 それが合図となったように、再び声と涙が溢れ出してくる。言葉として吐き出した次は、
 涙として全て出し、流しきってしまえば良いとでも言うように。そうして全てを無くしてしまえば
 楽になる、とでも言うように、感情の流れは止まらない。
 不意に、圧迫感。
 頭を胸に押し付けられ視界が黒く染まったことで、
 それがサクラに抱き上げられたのだと理解した。
 薄いが確かに弾力のあるその感触と、もう既にかいで馴染んだ匂いに、気分が落ち着いてくる。
「サクラ?」
「遠慮しないで、泣いて下さい。さっきよりも、もっとたくさん」
 一呼吸置いて、
「そうすれば少しは楽になります。今なら私と兄さんだけですし、こうして抱いていれば
 泣き顔を誰にも見られることはありません。声も聞かれるのが嫌ならば耳も塞いでいます」
 サクラは抱く力を強くして、
「それなら私が部屋を出るのが一番なのでしょうけれども、人が隣に居るか居ないかでは
 やっぱり違いますので。それに何より、私が兄さんの側に居たいんです」
 小さな笑い声が聞こえ、
「すいません、自分勝手で」
「そんなことないさ」

 そう、サクラが今こうしてくれているだけで、僕は大分救われている。温かな体温も、
 柔らかな感触も、どれもが心地良く僕を癒してくれる。
 泣いて良いと言われたのに、いつのまにか涙は止まっていた。それでも離れたくなくて、
 細い体を抱き締め返す。腕の中に丁度収まる大きさの体は簡単に抜け出してしまいそうで、
 それを防ぐために強く力を込める。少し苦しそうに声を漏らしたけれども、
 それでも何も言わない気遣いが嬉しかった。
「サクラ」
 胸に顔を埋めている上、泣きすぎたせいで声も枯れている。そのせいか
 とても聞き取り辛いだろう声に、サクラは抱く力を変えることで応えてくれた。
 言葉で答えるよりも動きで応えてくれたのが嬉しい。
「ありがとう」
 僕の言葉に、サクラは腕の力を解いた。続けて僕の顔を手指で挟むと、軽く唇を重ねてくる。
 驚いて顔を離し、見つめてみればサクラははにかんだような笑みを浮かべていた。
「ありがとう、だなんて言うのが早いですよ。兄さん」
 今度は、顔の高さを同じにして抱き締めてくる。
「言われるのは、私が死ぬときです」
 死ぬ、という言葉が、今は重みを持って感じられた。
「死ぬなよ」
「大丈夫です。何の取り柄もないですけれど、兄さんの側に居ることぐらいは出来ます。
 それに、しぶとさには自信がありますから」
 もう一度僕に口付けて、
「私は、死にません」
 僕に温かな笑みを向けた。
「いつまでも、側に居ます」
「ありがとう」
「だから、早いですってば」
 サクラの口から、小さな笑い声が漏れる。
「あ、でも。いつまでもって言いましたけど、水を取りに行くのくらいは許して下さいね」
 僕は軽く笑って、腕の力を緩めた。


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