とらとらシスター 第28回
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 時計を見ながら、少し足の動きを加速させた。体の上下に合わせて僅かに荒くなる呼吸を
 整えながら時計を見ると、表示されている時間は約束の時間の約15分前を示している。
 駅まではあと数分なので余程のことが無い限りは遅れることはないけれども、
 それでも僕としては早めに着いておきたかった。
 本当はもう少し早く家を出る予定だったのだけれども昨日の夜は姉さんがいつもより激しく、
 沢山求めてきたせいなのかうっかり寝坊をしてしまい、更に起きた後姉さんやサクラの相手を
 している内にこんな時間になってしまった。
 我ながら情けないと思うけれども、必死に引き留めようとするあの二人に対抗が可能な人間は
 そうは居ないと思う。それだけ二人は頑張っていた。もし母さんが助けに来てくれなかったら
 僕は今でも家の中に、いやそれどころか自分の部屋からも出られなかったに違いない。
 結局、母さんに追い出されたサクラは僕のデートを邪魔しないように友達と遊びにいくという
 念書の元に出かけて、姉さんといえば母さんに引き擦られながら進路の相談をしに
 学校へと向かっていった。去り際に僕に向けられた姉さんとサクラの悲しそうな目は
 僕の足を緩めるのに充分な効果を持っていて、それも家を出るのが遅れた原因の一つでもある。
 それでも青海と会うのが楽しみだったし、母さんの努力を無駄にするつもりも当然無かったので、
 今現在、僕はこうしてここに居る。

 青海はもう来ているのだろうか。
 私服の青海を見るのは、今日で二度目になる。前回は青海が家に遊びに来たときは
 普通の服装だったので、青海曰く、気合いを入れまくったという本格的なデート服を見るのが
 とても楽しみだ。
 一瞬。
 考え事をしていた上に、更に加速をしようとしていたせいだろうか。
 思わず道端の石につまずき転びそうになるのを何とかバランスを取って持ち堪え、
 のけぞるように姿勢を正した。やや不自然な直立のまま、軽く上方に向けた視界に入ってくるのは
 見慣れた電車。
 この時間帯はダイヤが殆んど狂わないので、車体を見ているだけで大体の時間が分かる。
 あれが通るのは9時45分、結構な距離を移動したと思っていたけれど先程時間を確認してから
 それほど時間は経っていなかったらしい。それに安心をして大きく息を吸い、
 改めて駆け出すべく姿勢を整える。
 不意に、高音。
 驚き、姿勢を崩した。何事かと思って視線を音が響いてきた方向へと向ければ、
 急停車したのか駅からはみ出した電車が見えた。先程の大きな音はこのときに出たものらしい。
 あれはこの駅で停車しない筈なのだが、何かあったのだろうか。
 悪い野次馬根性と言えばそれまでだが、好奇心も手伝い駅に向かって走り出す。

『初めて電車の事故ってのを見たが、嫌なものだな』
『本当にねぇ』
 青海の待っている四番ホームに向かい階段を上っていると、現場を見たらしい人と擦れ違った。
 下世話と思いながらもつい聞耳を立てていると、単語が幾つか聞こえてきた。
 端を拾いながらなので詳しくは分からないが、やはり事故があったらしい。
『それにしても酷かったわね』
『突き落とされたのかしら』
 人身事故?
 不穏な言葉が脳裏に浮かんで、心臓が一瞬高く跳ねた。
『まだ若かったのに』
 若い、人?
『デートだったのかな? あの娘、あんなお洒落してたのに』
『だとしたらかわいそうな話だな、本当に』
 デート前?
 聞こえてきた単語を並べて想像し、一つの不安な答えが思い浮かんできた。
 そんな筈は無いと思っていても、心臓は酷く乱暴に脈打ち、喉が干からびてくる。
 足が震え、吐気や頭痛、目眛が襲い掛ってくる。その場に立っていられずに、思わず膝をついた。
 大丈夫、青海は無事だ。
「……あの、大丈夫ですか?」
 不意に、肩を叩かれた。振り返って見てみれば、中年の男性が心配そうな表情をして
 僕の顔を覗き込んでいる。その人だけではない、軽く周りを見てみれば他の何人かも
 男性と同じような表情をして僕を見ていた。それほど酷い様子だったのだろうかと思ったけれど、
 すぐにそれだけではないことに気が付いた。

 怖がっている。
 突然現れた非日常に、すっかり怯えてしまっているのだろう。見覚えがあるから分かる。
 多少の色は違っているものの、僕が初めて姉さんを抱いた夜、
 その次の日に鏡で見た僕の目とそっくりだ。普通とは言えないことを体験して、
 必死にそれを否定しようとしている。
「大丈夫ですか?」
 もう一度、肩を叩かれた。
「あ、はい。大丈夫です」
 手摺に捕まって立ち上がった。
 まだ体は少しおかしいものの、今ではもう気にする程のものではない。
「それより」
 男性には悪いと思ったがどうしても訊きたかった。もしかしたらあの電車はいつもとは違い
 反対側のホームを通過する予定だったのではないか、
 四番ホームには何も来なかったのではないか、という希望を添えて。
「ホームで、何かあったんですか?」
「事故ですよ、四番線」
 男性は苦々しい表情で呟いた。
「あまり大きな声では言えませんがね、女の子が電車に挽かれたんです。悪いことは言いません、
 電車に乗りたいのなら今は止めておいた方が良いですよ」
 四番?
 女の子?
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です、連れが待っていますので。これで」
 男性にお辞儀をして、再び階段を登り始めた。いつもはそれほど長いとは思わない階段が、
 何故かとても長く感じる。それでも足の動きは止まらない、ひたすらにホームへ歩めと
 思考が命令をしてくる。止まりたくないのは結果を知りたいからなのか、
 それとも知りたくないからなのか。

 階段を抜けると、異様な光景が視界に飛び込んできた。続いてやってくるのは、
 生臭い独特の臭い。悲惨さに目を反らしても、鼻孔から侵入してくるそれだけで
 充分に人の死を想像させる。
 逃げ出したくなったが、それでも前に進んだ。
 周囲を見回してみるが、青海の姿はない。まだ来ていないのか、それとも、
「いかんいかん」
 不吉な考えを振り払い、前を見る。
 後悔した。
 粉々、という表現がふさわしい、挽き肉になった人間がそこに居た。
 いや、元人間が、そこに、あった。
「あ、おみ?」
 違う。
 口から漏れてきた言葉を、否定する。偶然似ている人だったから、
 そんな下らない想像をしてしまっただけだ。死んだと決まった訳では、
 それこそもう駅に来ていると決まった訳ではない。
 もしかしたらまだ着いていないのかもしれない、青海は車も使いたくないと言っていたから
 遅くなっているのかもしれないからだ。
 不意に、向こう側への扉が開いた。あちら側の僕が、叫んでいる。
『現実を見ろ』
 問題ない、僕は現実をしっかりと見ている。あの長くて綺麗な黒髪だって、
 絶対に青海のものだとは限らない。顔は潰れているから、
 頭部だって粉々になっているから青海だと判別できない。
 それに服装だってそうだ、気合いを入れると言っていたから
 露出がもう少し多いものを着てきているだろう。
 いつも直球な青海のことだから、派手ではなくても肌をそれなりに出したような格好で来る筈だ。
 今までの暴走から考えると、きっとそうだ。

 そうに決まっている。
「あ、携帯」
 確認するために携帯を取り出した。青海の番号はあいうえお順で一番最初に来るので、
 簡単にかけることが出来る。素早く番号を呼び出して、発信ボタンを押した。
 電子音。
 僕用に設定しているというシンフォニックパワーメタルが響いた。
 この選曲なら被る人も居ないだろう、という考えは、見事に成功した。
 彼女の好みだという激しく力強い音が、場違いな雰囲気でホームに広がっていく。
 音の元に視線を向けると、白魚のような指に捕まれた、小綺麗なバッグが目に入った。
 滑らかな手の甲も、華奢な腕も見える。
 しかし、肘から上が、無い。
 歩み寄ると、濡れた赤の他に鈍く光る色が見えた。銀色の光沢を持つそれは、
 僕が先日青海にプレゼントしたもの。常に肌身離さずに持っていると言っていたものだ。
 しゃがみ込んで触ってみると、まだ僅かに温かい。
 体温のある人間が、ついさっきまで生きていた青海がそうしていてくれたという証がここにある。
「本当だったんだな、ありがとう」
 目元が熱くなり、頬を水滴が伝う感触がある。
「ありがとう、ごめんな」
 それは連続でやってきた。
 更には、湿った声も聞こえてくる。
 僕は、久し振りに、二年振りに、泣いた。


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