とらとらシスター 第27回
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 錆びた上に段差の急な階段を、身体を引き摺るように上がっていく。
 我ながら緩慢な動きでポケットから薬の小瓶を取り出した。蓋を開けて出した中身は数錠、
 一気に噛み砕く。それだけですーっと吹き抜けるような開放感が胸のざわめきを静めてくれた。
 歯にこびり付いた顆粒を舐め取りながら、辿り着いた古びたドアを無造作に引いた。
 ノックをしないのは、俺かどうかすぐにわからなくて焦れるそうだから。
 ――中毒にでもなってそうな発言だ。

「おかえりなさい。こ〜ちゃんっ」
 出迎えた雫は、今日も今日とて季節外れの向日葵のごとき笑顔だった。

「ただいま。……まったく、こっちがまいっちまうくらいに御機嫌だな」
 こうも熱烈な歓迎を受けると、『ただいま』ということくらい何でもないように思う。
「と〜ぜんだよ。だってこ〜ちゃんと一緒にいるんだもん」
 薄い黄緑色のフリル付きでお腹のところに無駄に大きなポケットが付いた、
 幾らか年代の低めの層を狙ったデザイン。。雫はそんな良くも悪くも
 お似合いのエプロンをひらりとはためかせて、さも当然かのように断言した。
 左手首に巻かれたグラスグリーンのリストバントが、濃淡のコントラストで映える。
 俺のサイフが痛まないギリギリの額。庶民用の弱小ブランドの品。
 傷跡を見て自傷を習慣化させることがあるということで買ってあげたものだが、
 感極まって泣くくらいに大喜びされたその時から、外したところを見たことがない。
 どうやらかなりのお気に入りにしてくれているようだ。

「ん? なあに?」
 俺の視線が一点に集まっているのに気付いたらしい。
「手首のほうはどうだ? できるなら見せてもらいたいんだけど……」
「ええと……あの……そのね? ……ごめん、こ〜ちゃん。わたし、見せたくないよ……」
 目に見えて消沈してしまった雫に、俺は二の句が告げられなくなる。
 ――別の意味では、外したところを見たことがないから、その下に傷跡が増えていても
 わからないということだ。雫が本格的に自傷症にかかっていないか確認するには、
 手首を見せてもらうのが一番なのだが、雫はそれを頑なに拒否し続けていた。
「……だってね、すごく醜いんだよ。こう、そこだけ人の肌じゃないみたいな……。
 薄気味悪い色のくっきりと残った跡がね……。消えない傷ってやつなのかな?
 だから、もしこ〜ちゃんに『こんな傷が付いてる女気持ち悪い』なんて思われたら、
 わたし……わたし……」
「……ゴメン、俺が悪かった。何度も訊いてホントにゴメンな」
 でも、女の子にとって身体に残った傷ってのは相当辛いものに違いない。
 俺が言えば頷く雫でさえ、その頼みを断るくらいに気にしている。
「違う……ちがうよ……? こ〜ちゃんが悪いわけじゃなくって……、
 わたしに傷が残ってるのがいけなくて……、もし見られたらいくらこ〜ちゃんでも
 わたしのこと嫌いになっちゃうから……」
「……気負いすぎなんだよ、雫は。俺は何があってもお前の味方だってよくわかってるだろ?」
「……うん」
 痞えがある肯定。俺を信じてくれていても、どうしても突破できない心の壁。
 身体に刻み込まれた苦痛の証。リストカットでなくとも、傷とはそういうものだ。
 それは身体・精神の両面の苦痛であり、だから俺は雫の気持ちと体調、
 どちらもなるだけ気遣いたい。
 ――それだけに、その壁は砕くには脆すぎ、越えるには高すぎるものとなっているが。
 打開策は――なかなか見つからない。

 

「それで……今日の晩飯は何を作ってくれたんだ?」
 すっかりしょぼくれてしまった雫を抱き寄せ、頭を撫でながら尋ねる。
 この流れは最初から変わっていない。左右の髪留めを外し、バラけた房を手櫛で梳いて纏める。
 ショートになった前髪を掬い上げて、砂を零すようにサラサラと流した。
「今日は山菜のおひたしとえび天丼……それにしても、こ〜ちゃんの手……大きいよね」
 声に張りが戻り、あからさまなくらいに恐怖心が薄らいでいく。
 俺は雫をちゃんと癒せている。それがこうして実感できるのが心に染み渡るくらいに嬉しい。
「そりゃお前に比べればな……。でもそれだけで、他に何の取り柄もねえよ。
 撫でるのだって未だにおっかなびっくりやってるところがあるし……」
「でも優しい動きだよ。――だからわたしこ〜ちゃんに撫でられるの好きなんだぁ」
 真っ直ぐすぎる言葉に久しぶりに照れを覚えてしまった俺は、そこで早々に雫を解放した。
 「あっ……。終わり……?」
 円らな瞳でそうも未練がましく見上げられると正直困るんだけどな……。
「……折角の飯が冷めるから、その後にな」
「うん……わかったよ。じゃあ、はい。食べよう?」
 向かい合って食べられるように位置を調整して、改めて座布団を勧めてくる。

 二部屋しかない雫の住処は、その外観を裏切らずにどちらも狭い。
 敷き詰めるように置かれた調度品もほとんどが悪い意味で年代物だ。
 当然今、雫がにこにこ叩いて客人の着座を心待ちにしているしている座布団も、
 ところどころカバーが破けている痛んだ品なのだが、座れさえすれば俺は何の文句もない。
 ただ、食卓の上の料理を見るに、家計の状況はそれほど切迫はしていないようだ。
 銀行振り込み。月一の。――何処にいるのか知らないが、雫の父親の生存は確定している。

「こ〜ちゃん、こ〜ちゃん」
「ん?」
「はやく、はやく」
 何の気兼ねもなしに口を広げ、左右の八重歯を反り立てる。
 警戒心の欠片もない。親鳥にエサを請う雛鳥そのものだ。
 怯えの感情はあっても羞恥心はないのだろうかと思いながら、
 適当に皿から箸でぜんまいを一本摘む。単純そうに見えるメニューだが、
 きっと半端なく気合を入れて作ってくれているのだろう。
「いただきまぁ〜す」
 言い終わると同時に捻じ込んだ。
 雫は至福の時間だとでも言いたげに、たかだか草一本を数十秒かけてじっくりと咀嚼して、
 咥えたままの俺の箸までベロベロに嘗め回してくれた。
「……こ〜ちゃんに食べさせてもらうと美味しさが何十倍にも感じられるなぁ。
 あっ……勿論そうでなくても美味しいと思うよ? こ〜ちゃんに満足してもらうために
 わたし頑張ったから」
「お前の料理の腕はよくわかってるって……。食べるまでもない。今日も美味いに決まってるさ」
 雫は以前俺が天野の弁当を褒めたのが余程悔しかったらしく、直接口に出しては言わないが
 晩飯の度に俺に褒められたがる。
 実際、竹沢家の家事全般を担っていたのは雫のようで、その腕は文句なしに高い。
 ならどうしてあの時それを俺に言わなかったのかといえば、
 家庭事情で俺に無駄な心配をさせたくなかったのだろう。
 その気持ちは俺も何となく理解できる。だから、それには触れず、
 今の雫を大事にしてやればいい話だ。


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