ジグザグラバー 第13幕
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 朝でございます。いつもながらの体温も快く、昨日の決意もあってぐっすり眠れた僕は、
 まだ交渉の疲れが残っているものの目覚めは爽快…。
「おはようさーん」
 じゃない!?
 あん畜生、一度注意しただけでは分からないらしく今日もドアを元気に蹴り続けていた。
 注意をしたからといって、どうやら安心するのは早計だったらしい。流石は『疾走狂』、
 そう簡単には諦めてくれないみたいだ。
 対応を悩んでいると、僕に抱きついていた華が軽く身をよじった。それもそうだ、朝から
 こんな騒音を聞かせられたら、いくら寝起きが最悪な華でも堪えるだろう。僕の意識は華への
 心配よりも、華を苦しめる水へと向かっていった。
「おはようさーん」
 しかし怒鳴り返そうにも華が起きては元も子もないし、だからと言って華の側を離れようものなら、
 何かの拍子に起きた華がパニックになってしまう。このジレンマと騒音地獄、そして近所の皆さんと
 大家さんのことを考えながら一番の解決方法を考える。
 約一分。
 僕は下らない解決方法を思い付くと、それを実行することにした。多少間抜けな構図になるが、
 背に腹は代えられない。それにこの騒音だと、華が目を覚ますのも時間の問題だ。
 ならば答えは簡単で、この際華が起きることに目を瞑り、玄関に行ってこの騒ぎを止めることに
 集中する。そして、パニックを起こさないようにという観点で見れば、答えは簡単。
「ちょっとごめんね」

 すなわち、御姫様だっこ。しかも、これならおんぶと違い、目が覚めたときに目の前に僕の顔があり
 安心できる。つまりは一瞬で効果のある鎮静作用も期待できるのだ。
 僕は華を抱えたまま玄関に立つと、
「黙れ、静かにしろ」
 小さな声で言った。
「あ、旦那? 開けてよ」
「駄目だ、帰れ」
「でも…」
「僕に何か要求はないかな? 今帰ってくれるなら放課後に交渉の機会を設けるよ」
 少し迷ったのか、音は止んだものの動いた気配はない。
 数分。
「交渉は二人きりだよね?」
「そうするつもりだよ」
 それに納得したのか、水は帰っていった。
「というのが今朝のやりとりで、僕は今、水と二人きりで教室に残っています」
「旦那? 誰に説明してるの? 今のこの場所は私と旦那しか居ないのよ?」
 僕の言葉に、水は目を細めて答えた。
 本当に、二人きり。
 華は教師に呼ばれて職員室に行っている。教師に対して裏工作を行い、ぐずる華をなだめすかした
 甲斐があったというものだ。こんなときばかりは、僕の特技を便利だと思う。
「交渉開始。僕が許可するのは、そっちが話し掛けてくる回数を無制限にするもの」
 僕は言って水の顔を見ると、呆気に取られた表情をしていた。それはそうだろう、必死で獲得した
 会話の権利が、いきなり三回から無制限になったのだ。株価暴落どころではなく、
 第二次世界対戦後のドイツのインフレもここまで酷くないという程の超経済だ。
「良いの?」
「それなりの要求だからね、もう一つ何か付けようか?」
「な」
「華を説き伏せて、キスをしたことを許させようか? 噛みつくのを止めさせても良い」

 自分でも嫌になる程の大盤振る舞いだが、今からの要求はそれ程のものだ。自分の要求を言わずに
 話を進めるのは卑怯な手なのであまり好きではないが、そうも言ってはいられない。
 今までのように手段を選んで交渉する程、今の状況は甘くはない。僕にしてみれば、
 ここまで許していた現状の方が異常なのだ。だから正常に戻すには、多少の強引な方法を
 使ってでも元に戻す必要がある。無理にでも、要求を飲ませることが第一だ。
「今言ったのを全部するけど、要求を飲むかい?」
 数秒。
「分かった」
 獲物はついにかかった。目先だけでなく、大きく見ても魅力的な言葉は、そちらに目を向けさせて
 思考を鈍らせる。
「じゃあ僕の要求だ。これからは、僕の半径2m以内に近寄らないでくれ」
 言い終わると同時に僕自信が一歩下がり、その事実を突き付ける。
 もう近くには、立たせない。
「そん、な」
 僕が姿勢を整えると同時に、水は崩れ落ちた。それは昨日のさくらを思い浮かばせる、
 偏った強さの人間が持つ異常な脆さの現れだ。
 涙を流して地面に座り込むその姿を見て、最近は女の子を泣かせてばかりだなと思う。
 もう少し僕が要領良く動けていたら、それどころかもう少し早めにしっかりと拒否を出来ていたのなら、
 結果は違っていたのかもしれない。
「だ、んなぁ」
 僕を弱々しく呼びながら、まるで子供のように泣きじゃくる姿はあまりにも痛々しい。
 いつもヘラヘラと笑っている強さと余裕の欠片も見えないその泣き顔は、いつも僕に泣き付いてくる
 華の姿を連想させて、思わず助けたくなる。

「だ…なぁ、だ…」
 しかし、今助けたらふりだしに戻る。何の為に、今まで交渉をしてきたんだ。何の為に、
 今の交渉で水と距離を取ったんだ。これ以上酷くならない為に、そして華の為に敢えて突き放したのは
 僕だ。相手の好意を利用してまで交渉した、そんな僕がどうして近付ける。
「うぁ、ひぁ、旦那ぁ」
 だけどそんな姿は見ていられなくて、僕の体は思考とは関係無しに、気が付いたら水を抱き締めていた。
「だん、な?」
 今までに、泣いていた華を毎回抱き締めていたのが体に染み付いていたのかもしれない。
「今回だけだ」
 ただひたすらに甘いのが僕だ。
「うっ、ひあぁ」
「泣くな泣くな」
 いつも華にするように、背中や髪をゆっくりと撫でる。他の人に効果があるのも分からないし、
 これ以外にももっとましな方法があるだろう。少なくともこれが年相応な方法でないことは分かるが、
 僕は他にやり方を知らないのでひたすらにこれを続けた。慰めの一つでも言えれば良いのだが、
 いつも交渉などと偉そうに言っているくせに単語の一つも浮かんでこない。
 そもそも、泣かせた僕が言っても良いのだろうか。
 そんなことを考えていると不意に、唇に柔らかい感触が来た。
「私には、お腹を直撫でしないんだね」
 泣き顔で、しかし無理に笑顔を作る水はからかうように言った。

「水、それよりも」
 そう、それよりも、僕はこいつに何をされた。そりゃ、水だけが悪いわけではないし、
 甘い僕が全面的に悪いのだ。ただ水は我慢が出来なくなっただけだろうし、その枷を外したり、
 昨日の経験を生かさなかった僕に全ての責任がある。
 数秒。
 自己嫌悪に陥っていると、入口から足音がした。
「まこ、と?」
 僕は甘いと思っていたが、それでもまだ評価が足りなかったらしい。甘いを通り越して、愚か。
 華の戻りが遅いから油断していたからとか、キスで思考が停止していたからとかは理由にならない。
 そもそも、手を差し出さなければ良かったのだ。
「な、にを、している、んだ?」
 震える華の声が教室に響く。
「昨日は、きちんと水と話を付けるって言ったのに」
 僕は水を抱き締めたことを後悔した。そもそも、手を差し出さなければ良かったのだ。
 そうすれば、華を傷付けずに済んだのかもしれない。しかし、いくら考えても過去に起こったことは
 消えはしないし、大切なのはその後をどうするかだ。
 しかし、それすらも不可能な状況がある。例えば、今の僕だ。
「誠、なんて」
 僕は水から離れて何か言おうとしたが、そんな暇さえ与えられない。
 華は目に大粒の涙を浮かべて一瞬僕たちを睨み、すぐに後ろを向くと、
「誠なんて、大ッ嫌いだあッ」
 走り去っていった。


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