妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる 第1章 第8回
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 罪悪感がなかった、といえば嘘になる。それでも、確かめずには居られなかった。
「誰……今の」
 絶対に女の人なのはわかっている。
 兄さんは子供の頃から、女の子に突然話しかけられると声が半音上がるのだ。
 兄さんの携帯を手に取る。幸い兄さんはお風呂だ。最低でも十五分は出てこないだろう。
「まもら、なきゃ」
 わたしの兄さんと、わたしの居場所を。

(なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで―――!?)
 ついさっきまで兄さんが会話していた相手が、よりにもよって森川さんだったなんて。
 何度も己が目を疑った。
 それでも、現実は変わらなかった。
 わからない、わからない、わからない!
 どうして森川さんと兄さんが親しげに電話をしなければならないのだろうか。
 仮に森川さんが私の連絡先を失って、それで兄さん経由で連絡を求めてきたのならわかる。
 だが、そうではなかった。
 あくまで個人的に、森川さんと兄さんの間には何かがあるのだ。私の知らない何かが。
 真っ黒に煮えたぎるタールのような××が、わたしの胸の内を満たしてゆく……
 
 次の朝、首をかしげながら家を出る兄さんをつけてみることにした。
 兄さんは普段どおりだ。
 シャワーを浴びる時間も、鏡に向かう時間も、着替えに掛ける時間もいつもと同じ。
 だがそれらすべてが、誰でもない、ただ一人の女性のためだけに行われたのだと思うとたまらない。
 自分自身の内圧が徐々に高まっていくのがわかる。
 この、全身を内側から圧迫する感覚はなんだろう。
 怒り? 悲しみ? やるせなさ? 嫉妬?
 どれも微妙に違う気がする。
 のんきに電車の窓の外の風景を眺めている兄さん。
 どうしてそう飄々としていられるの……?
 わたしの気も知らないで。
 その穏やかな横顔を張り倒して、私のほうに振り向かせてやりたくなる。

 駅の改札口を出た先、柱の影から二人の様子を伺う。
 さすがにここから会話の内容を聞き取ることはできない。
 それでも、何やら楽しげな雰囲気でやりあっているのはわかる。
 普段から無表情な森川さんも、心なしか微笑んでいるようにみえる。
 心臓の音がうるさい。
 息を整え、落ち着こうとしてもますますそれは酷くなるばかり。
 うるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい……!
 これじゃ、いつまで経っても兄さんの声が聞こえないじゃないか……!

 映画を観るようだった。
 僅かながらに残されていた、私の誤解という最も喜ばしい可能性は潰えてしまった。
 ……デート、なんだ。
 目の前が真っ暗になる。
 足元のアスファルトが溶けて、底なし沼にとらわれてしまったような感覚に陥る。
 もう嫌だ。帰りたい。もう見たくない。
 それでもわたしは、血走った目で出口の人影を監視することをやめられない。
 
 食事を取るようだった。
 差し向かいで紙包みを頬張る姿は、その場の風景に違和感を与えることなく馴染んでいた。
 わたしと外に食事に出ると、兄さんは何かと周りに気を使ってくれていた。
 座る席、店員を呼ぶタイミング、注文のやり方、
 そういうものすべてが私のためだけに用意されていた。嬉しかった。
 今の兄さんは違う。
 何を気負うこともなく、誰かの保護者でもない。
 倉井楓の兄ではなく、ただの倉井元樹としてそこに存在している。
 兄さんの向かいに座る女が自分の包みを差し出す。
 それを見て、兄さんも自分のそれを女に渡す。
 普段からそうするのが当たり前であるかのように淀みがない。
 ……またひとつ、わたしのこころは軋みをあげる。
 
 通りを連れ立って歩く二人は、とても自然体だった。
 いいところを見せようと気張るでもなく、かといってふてくされているわけでもなく、
 ただあるがままにお互いの存在を認め合っていた。
 まるでずっと昔からそうだったかのように。
 いつの間にか二人は手を繋ぎあっていた。
 女は半歩遅れて兄さんの背中を追う。
 昨日までそこに居た人間の存在を知らないがゆえに、女は何も感じない。
 だからそんな風に笑っていられる。
 ……それなら、わたしは、いま、どこにいるのだろう?

 二人は道端でしゃがみこんでいた。
 露店を眺めているらしい。
 色とりどりの宝石が、まっしろな太陽の光を受けていっそう煌く。
 兄さんが守ってくれない今のわたしは、暗闇に生きる魔女のようなものだ。
 自らの殻に閉じこもり、外界に呪詛を唱えるだけの存在に、
 正当な価値など与えられない。
 だからその輝きは眩しすぎる。
 だからこそ、平然とそこに居られるその女が、憎い。
 
 店の主らしい男が何かを言った。
 顔を見合わせる二人。
 抱き寄せるように、慈しむように、兄は視線で女を愛撫する。

 いやだ。
 
 女は躊躇し、やがて決心したように左手を差し出す。
 
 もうやめて。
 
 兄さんは女の手をそれはそれは優しく取り上げ赤い絨毯のような陳列から無造作にひと
つのリングをつまみ女の指先に添えた女は頬を赤らめ自ら薬指を選択し第一第二関節を過
ぎ根元までそっとそれを引き上げたそれはその女のためにしつらえられたかのように女と
調和しそこにいる者たちを根こそぎ魅了した。顔を赤らめうつむく女にやりと笑う店主顔
をほころばせる兄微笑ましいものをみたと言わんばかりの通りがかりの老夫婦青い空白い
雲優しい春風柔らかな日差し誰も彼も人としての生を謳歌し先の不安など何もないという
ような表情で街中を闊歩する中、

 わたしは、ただひとり、うすくらがりのなかにいる。


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