姉貴と恋人 裏 第3回
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「ターカっ。ご飯よ」
 姉貴はソファに並んで座って、あーんをしようとしていた。おかずはコロッケ。
買ってきたものではなく、姉貴自ら揚げたものだ。
さすがは姉貴だ。いい匂いがして、食欲をそそる。
 両手両足をきつく縛られてさえいなければ。
「この縄をほどいてくれ」
「だめ。タカはまだ調子が悪いんだから、ちゃんと治るまで私が面倒見るの。ほら、あーん」
 にこやかに微笑む姉貴はしかし、どこか薄ら寒い。
「……食べられないの? 仕方ないなぁ」
 姉貴は、箸に挟んだコロッケを自ら口にした。もぐもぐと噛んでから、呑み込まず――
「ほふぁ、くふぃあけふぇ」
 まさか――。
「んんんっ!? んむう……!!」
 どろっと、姉貴の咀嚼したコロッケが流れ込んで……。
「んんっ、んん……」
 ごくり。喉を通りすぎていく。
「どう、お姉ちゃんの口移し。美味しい?」
「あ……はぁ」
 身体が、熱くなっていく。
「ほら……美味しかった?」
 艶やかな唇。さっき口移しした唇。その上を、ちろりと舌が這った。
「あ、姉貴……もう、やめてくれ」
 さっと姉貴の瞳が潤む。
「どうして? お姉ちゃんはこんなにタカのこと好きなのに」
「姉貴だって分かってるんだろ、これじゃ駄目なこと」
「駄目? どこが? どうして? タカは私と一緒にいるもの、なんの問題もないじゃない」
 姉貴が迫ってくるが、拘束されている以上、身体を揺らすくらいしかできない。
 それでもやらないのは麻妃への裏切りのような気がした。
「タカ……んっ」
 そして、口づけてしまう。
 麻妃、すまない……。
 せめて心の中でだけでも。
 麻妃へ届いて欲しいと願った。

 

 もうかれこれ二週間、学校へ行っていない。出席に厳しい科目はそろそろ単位を落とすだろう。
 だが、関係なかった。
「……っく……うう」
 涙は枯れない。
 目の奥が痛んでも、ハンカチから涙が滴っても、アルコールで無理矢理眠っても。
 起きるたびにぐしょぐしょになるから、今では枕を使っていない。その代わりに、
寝間着代わりのトレーナーの袖が冷たくなるけれど。
「ひっく……ぐす……」
 泣いたってしょうがない。でも泣くしかない。
 隆史からの連絡はない。着信拒否も解除されない。大学へは行けない。
 恐い。ただ恐い。隆史に会うのが恐い。会って、本当に捨てられるのが恐い。
そして捨てられた私が何をするのかが恐い。
 動けなかった。
 動いたらそこには恐怖がある。
 動かなければ、少なくとも恐怖を味わうことはない。
 だから私はここにいる。
 そうすれば――もしかしたら。
 あの日みたいに隆史が――
「うああぁっ!!」
 来ないよっ!! 来てくれないのっ!!! 来てくれないよぉっ!!!!
「なんでなんでなんで!!!! あああああっ!!!!!」
 来ない、来ない来ない、隆史が来ないっ!!!!
「たかしぃっ!!! 来てよぉっ!!!!!」
 叫び声の余韻が消え、部屋がシンと静まりかえる。
 こんなことの繰り返し。
「たかし……さみしい、やだよ、くるしいよ、いたいよ、たすけてよぉ……」
 隆史しかいないのに。私のこと本当に見てくれて、助けてくれたのは隆史しかいなかったのに。
 どうして。
「たかしぃ……」
 もう私の元から去ってしまったのなら。
 一言そう言って。
 そうすれば、私は――ラクニナレル。

「タカ、たっだいま!」
 にこやかに微笑む姉貴。
「今日はねー、ハンバーグを作ってあげるからね」
 姉貴は鼻歌交じりにキッチンへ向かった。
「あ、姉貴?」
 やけに機嫌がいい。
「何かあったのか?」
 ふり向いた拍子にエプロンがふわっと舞った。
「えっ? んふふ〜、後でね」

「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさま」
 姉貴は終始ニコニコしていた。いつもよりよく喋ったし、ときおり思い出し笑いをすることもあった。
 こんなに機嫌のいい姉貴は初めて見るかも知れない。
「さてと、片づけちゃうから待っててね」
 話はその後でということだろう。
 ジャーと水の流れる音がする。
 ガチャガチャと食器が鳴っている。
 そういえば、こんなこと、前にもあったな。
 三ヶ月くらい前、麻妃が唐突に現れて料理をしたときだった。
 挑戦だから、なんて言って急に煮物をやりやがったんだ。
 そしたら案の定、鍋の底焦がしちゃって。
 水をジャージャー流しながら、焦げをガリガリ削ってた。
 あの時の鍋はまだ残ってるはずだ。
 結局底に染みみたいな跡が残ってしまって、麻妃はひたすら謝ってたな。
「タカー、この鍋焦がしちゃったの?」
「ああ、麻妃がな――」
 ガゴッ!、と鈍い音がした。
「あ、姉貴!?」
「どうかした?」
「どうかしたって……姉貴の方こそ」
「私? 私は別に、鍋を捨てただけだけど」
「捨てたって……どうして!」
「あの子の痕跡は必要ないのよ」
「姉貴にとって必要なくても、俺にとっては大切なんだよ!」
「ふふ、大丈夫。お姉ちゃんと一緒にいればそんなの気にならなくなるから」
 あまりに自然に微笑む姉貴。
 知らず、ゴクリと喉が鳴った。
「それにね――あの子、もういないもの」
 …………は?
「信じられないかも知れないけれど、あの子、もう一ヶ月近く学校に来てないの。
それで天川教授に聞いてみたら」
 にやり、と姉貴が笑った。
「一昨日電話があって、退学したいと申し出があったそうよ」
「嘘だ」
「本当。もちろん退学届けが必要なんだけど、彼女、それきり連絡つかないらしいの。
だから、期限が来たら退学の意志を認めて、除籍するって言ってたわ」
 麻妃が、退学?
「そんなバカな!」
「私に言っても仕方ないじゃない。それより、ほら。あの子がいなくなったんだから、
タカはもう私のもの! ねー?」
 あまりに脳天気な口調。
 もう我慢ならない!
「姉貴ッ! 姉貴は、麻妃の人生を壊して楽しいのか!!」
 きょとん、とする姉貴。
「楽しいとか楽しくないとかじゃなくて、そうするべきだったからそうしただけよ?」
「何で、どうしてそんなことをしなきゃならなかったんだ!!」
「はぁ……前にも言ったでしょ。タカの目を覚ますため、タカと私がずっと一緒に生きていくため、よ」
 頬に手を添え、唇を寄せ――
「ん……ね? お姉ちゃんとずっと一緒だよ」

「……はぁ」
 疲れた。何もかも疲れた。
 学校も、隆史も。
 なんでこんなことになったのか。
 原因を求めればきりがない。
 隆史と遊んでいた日々が懐かしく、もう手に入らないものだという実感がない。
 隆史がお姉さんを選んだという実感がない。
 そして、私が退学するという事実もまた、実感がなかった。
「……はぁ」
 これからどうしよう。
 実家に戻れば、勘当される。
 いや、戻らなくても、いずれバレるから同じか。
 このアパートの家賃も払えなくなる。
 学費が要らなくなれば、バイトで生活を立てられるかな。
 いや……でも、隆史がいる近くでバイトはしたくない。会いたくない。
「……はぁ」
 ここを出よう。
 どこへ行くにしても、今はもう柵はない。
 大学中退でも、職を選ばなければ就職口はあるだろう。
 その日暮らしになってしまうかも知れない。
 でも、まあ、いいや。生きていくしかないんだから。
「……はぁ」
 いま、すべきことは、ここでないどこか遠くで就職して、住処を得ること。
「……はぁ」
 でも、なんでそんなこと。
 よく考えれば、もう、私には何もない。
 家族もなく、隆史もなく、身よりも、技術も学歴もない。
 だったら、この世から去る方がどれだけマシか。どれだけ楽か。
「それだけは、だめ」
 だめだ。
 自ら戒めないと、流れてしまいそうになる。
 生きていればいいことがある。
 そんな言葉を信じている訳ではない。でも、死んだら全て終わりだ。
 でも……全て終わりで何が悪い?
 社会への責任? 親不孝?
 知ったことではない。
 色々な人に迷惑が掛かる?
 どこか見つからないところで死んでしまえばいい。日本全国、行方不明者は五万といる。
「……はぁ」
 だめだ、こんな後ろ向きでは。
 隆史は、私の前向きなところが好きだと前に――
「……なんで」
 忘れたい。忘れるために遠くへ行くのだ。
 早くここを去らないと、もう耐えられない。
 だが、離れたところで耐えられるのか。忘れられるのか。
 その問いに対する答えは、私の中には用意されていなかった。


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