姉貴と恋人 前編 第6回
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 タカの取っている講義は……ここだ。この講義室だ。
 私は何食わぬ顔で中に入った。
 講義開始までにはまだ時間があるので、人はまばらだ。それに私はイギリス留学していた
お陰で知り合いが少ない。バレることはないだろう。
 後ろの方に席を取る。この講義室は大きい方だから、一度に200人からの人が入れる。
私も入学したての頃、ガイダンスを受ける為に入ったことがあった。
 しばらくして人が増えてきた。開始時間まで後3分。そろそろタカも現れるだろう。
 私は伊達眼鏡を掛けた。変装なんてものじゃないが、気付かれにくくはなるはずだ。
 そのまま左右の入り口にさり気なく視線を巡らす。
 そこへ、隆史は現れた。
 隣には誰もいない。隆史を誑かした女は、この講義を取っていないのだろうか。
「あの、隣いいですか」
 わっ!?
「っ……え、ええ。どうぞ」
 すんでの所で声を抑える。
 私は相手を見ないまま半分腰をずらした。
「ありがとうございます。あの……いえ、何でもありません」
 彼女は何か言いたかったようだが、そのまま隣に腰を下ろして用意をし始めた。
「あれ……おかしいな」
 何か手間取っているようだ。
 目立ちたくない。無視しようか。
 いや、でも、この教室にいるうち私のことを知っているのはタカくらいなものだろう。
 騒がなければ大丈夫だ。
「どうかしましたか」
「あ、その、実は筆箱を忘れてしまって……久しぶりの学校なので」
 彼女は微笑んで私の方を見て――
「あなた……」
 目を見開いた。彼女、進藤麻妃は信じられないという顔をしていた。
 信じられないのは私も同じだ。
「……まさかってやつね」
 動揺を悟られないようわざと素っ気なく言う。
 なぜ気付かなかった。彼女だ。
 他のどんな女より怪しいのはこの女、進藤じゃないか。
 互いに黙り込む。
 今はまだ様子を見るべきだ。余計なことは言えなかった。
 講師が入ってきた。どうやらタカは一人で講義を受けるようだが……。大学にいる間は
それと見せないでいるつもりだろうか。
 不可解だ。私からタカを奪おうとしているにしてはあまりに覇気がない。
 まるで、私とタカの関係を容認しているかのように見える。
 彼女はそんな位置に甘んずるような女ではない。少なくとも私にはそう見える。
 演技か。それとも進藤ではないのか。
 どちらにしろ、情報を得なければならなかった。

 結局、それ以降講義が終わるまで私と進藤は話をしなかった。
 チャイムが鳴り、生徒が次々に講義室を出て行く。
 私もタカに気付かれる前にここを出ないと。
 そうだ、その前に聞いておかなければならないことがあった。
「ところで、進藤さん香水は?」
「今は使ってません」
 確かに、彼女からはボディーソープかシャンプーのような香りしか感じられない。
 私自身あまり飾るのは好きではないので、好ましい香りと言えた。
「そう。じゃね」
 進藤はまだ灰色だが、怪しい。この先注意しておかないと。
 それに、タカ。
 私というものがありながら他の女に手を出すなんて。
 しっかり躾ないと。

「隆史、さっきの講義お姉さんも取ってたのね。先に言ってくれてれば注意したのに」
 何だって?
「そんなバカな。姉貴は第一、学部が違う。文学部で比較文化論を専攻してるはずだ」
「でも、私は隣に座って話までしたわよ」
 麻妃が嘘をついているとは思えない。ということは。
「何でそんなことを」
 麻妃は、しばし顔を伏せてから言った。
「たぶん、タカと私の関係に……いや、そこまでは分かっていないと思うけれど、
少なくともタカがお姉さん以外の誰かと『そういう関係』になってるってことには
気付いてるんじゃないかしら。今日はそれを調べに来たのよ」
「そんな……」
 しかし、いきなりの門限宣言といい、今日の不可解な行動といい、そう考えるのが
妥当に思える。
「どうして気付いたのかしら。隆史、心当たりはない? その、相手は私……しかいないんだから、
あれ以降で隆史がお姉さんと会った時になるけれど」
 麻妃は僅かに頬を染めて目を逸らした。
 そんな仕草をされると、俺まで恥ずかしくなってくるじゃないか……。
「と、とにかく。もう少し考えてみるよ。何か分かったら連絡する」
 麻妃はじっと俺を見た。
「なんだ?」
「今日は、その、家には」
 ぽつりぽつりと呟いた声が妙に艶やかで、どきりとした。
「あ、そ、そういえば言ってなかったな!」
 動悸を吹き飛ばすような勢いで言う。そうでもしないとうまく口が動かない。
「実は、姉貴、いきなり門限を決めたんだ。午後八時までって」
「じゃあ、それまででいいから」
 麻妃は一歩近づいて、縋るように言った。
 断ることなどできなかった。


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