姉貴と恋人 前編 第5回
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 電話があったのは夜の八時頃だった。
「はい、岸本ですが――」
「あ、姉貴? 隆史だけど、今日」
「タカ!? こんな時間までどこに行ってるのよ!」
 サークルに入っている訳ではないから、こんな時間になるのはおかしい。
「あ……ええと、カラオケ」
 カラオケ。友達と一緒なのだろうか。
「タカ、友達と遊びに行ってるの?」
「え? あ、ああ。そうだよ。それで、その」
 一瞬の沈黙。
「今日、帰れないから」
「え?」
「ごめん」
「あ、ちょっとタカ!」
 切れてしまった。慌ててどうしたのだろうか。何か急ぐ理由があったのだろうか。
 タカの様子が気になったが、それにしても。
「こういうの、息子が夜遊び始める頃の親の心境よね」
 まったくしょうがない。ま、そこが可愛いんだけど。

「……ごめんね」
 電話を切ると、麻妃はうなだれてそう呟いた。
「気にするな。さすがに麻妃をこのままにしては帰れない」
 麻妃を選べないとは言ったものの、抱いた女性を放っておいて家に帰るほど薄情でもないつもりだ。
「その優しさが……」
 麻妃は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
「ん? どうした?」
「何でもない」
 麻妃が身体を寄せてきたので、その思ったより華奢な肩を抱いた。温かかった。

 明日は何を作ろう。どうせ外食ではたいした物食べられないだろうから、しっかり作ってあげないと。
 それにしても、隆史も夜遊びを覚えたか。
 友達と一緒だというのは安心できるけど、心配でもある。
 隆史はいい子だから。友達に誘われたら嫌とは言えないだろう。悪いことしてないかな。
 そうだ、明日は炒飯にしよう。隆史が昔から大好きだったシーフードの。
 そう言えば、私が初めて作ってあげたのも炒飯だった。今でこそレパートリーは増えたけれど、
当時の私が一番自信を持って作れたのは炒飯だったから。
 ありがちな残り物で作るんじゃなくて、ちゃんとしたもので作ってあげよう。
 喜んでくれるかな。
 喜んでくれるに決まってる。

 薄暗い部屋。月明かりがカーテンの隙間から滑り込んでいる。
 それが、麻妃の部屋を断片的に照らし出す。
 荒れていた。
 激情家な所もある麻妃だから、その様子は容易に想像でき――
「すまない」
 自らの思い至らなさに嫌気が差した。
「え?」
「その、酷いことした。それに、してる」
「……うん」
「謝ったって仕方ないことだが、すまなかった」
「……いいよ」
 まるでそれが幸せだといわんばかりに、麻妃は微笑んだ。
「隆史は今ここにいる。だからいいよ」
 喉の奥に苦い味がした。
「でも、いつも一緒には」
「分かってる。隆史はお姉さんを……選んでるんだから」
 その言葉に非難めいた色はなく、ただ、淋しい諦めの香りだけがする。
 そして、その言葉に少なからず安堵を覚えずにはいられない自分。
 泣きたいくらいに情けない自分が嫌だった。

「もう帰るから」
 次の日の朝。今日は日曜だが、さすがに家へ帰らないとまずい。
 麻妃は一瞬悲しそうに眉を寄せたが、すぐに笑顔になった。苦しい笑顔だった。
「うん。また、学校で」
「その……すまない」
「もういいよ。あんまり謝られると私が辛くなる」
 目を合わせられない。思わずうつむいた。
「じゃあね」
 キィ、という音に顔をあげると、彼女はバイバイと手を振ってから、ドアを閉じた。
 俺は、しばらくそこから動くことができなかった。

 遅いなあ。
 昨日の電話の様子では、遅くとも朝の早いうちに帰ってくると思っていたんだけど。
 夜通しカラオケで過ごしたとしても、空が白み始める頃には解散するんじゃないだろうか。
 もしかして、どこか別の所に行ったのだろうか。そして、そこで夜を明かしたとか。
 そうだとすれば、タカは風邪を引いてしまうかも知れない。いや、もっと悪ければ、誰かに絡まれて――。
 その時、ピンポーンと音がした。
「タカっ!?」
 玄関へ向かう。知らず駆け足になっていた。
「あ……姉貴」
「タカぁっ!!」
「うわっ!?」
 ギュウっと抱き締める。ああ、タカだ。タカが帰ってきた。私の所へ帰ってきた――!!
「良かった、タカが無事で……心配したんだからぁ!!」
 暖かい。タカはいつもと変わらず暖かくて、いい匂いが――。
「……うそ」
「え、何が?」
「ううん、何でもない」
 何この臭い。香水?
 柑橘系の、そんなに強くはない……オレンジか。
「あ、姉貴。苦しいって」
 更に締め付ける。悟られないように嗅ぐと、私の知らないタカの――いや、タカ以外の臭いがした。
「一日ぶりに会うんだから、いいじゃない」
 街にいたならもっと雑多な臭いがつくはずだ。こんな微かな臭いがきちんと残っているということは。
「やれやれ」
 誰だ。私のタカに手を出したのは。
「タカは私のものなんだから、いいじゃない――ね?」
「あ、姉貴……ん」
 タカに口づけた。タカは身体をこわばらせるだけで、いつものように舌を絡ませてはくれなかった。
「あ……タカ……あ、ん」
 この臭い……忘れない。絶対に。


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