ブラッド・フォース 第5回
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「じゃあまた明日ね、智ちゃん! おやすみなさい!」
 満面の笑顔で帰っていく千早を、智も笑顔で見送る。あれから千早は始終ご機嫌で、
智にずっと纏わり付いていた。
 不思議なことに、智もそれに邪な心を抱くことなく接した。決意さえちゃんとできれば
どうということはないのだ。
 やはり自分にとって千早は大切な幼馴染だと、智は今更のように思う。
 その千早をどれだけ心配させていたかは、先程までの犬っぷりを見れば明らかだ。
 そしてその始まりは、やはり自身の吸血鬼化。それは智に、かなりの精神的負担を強いていた。

 吸血鬼になって変わったのは、血を飲む性質だけではない。
 まず身体能力が上がった。以前が運動会のクラス対抗リレーに選ばれる程度とすれば、
今は国体クラスといったところ。一応常人レベルに収まっているし、
ある程度力をセーブできるので、周囲にバレてはいない。
 肉体のバイオリズムも変わった。昼がダルい。強い日差しを受けると、チクチクと針を刺すような
痛みを感じてしまう。
 割と真面目に授業を受けていたのに、寝ることも増えてしまった。元の成績が悪くなかったので
今はそれほど問題はないが、今度の期末テストは少し気をつけないといけないだろう。
 逆に夜は元気なので、夜に勉強すればいいだけなのだが。
 懸念された吸血鬼の弱点というのは、実はそれほどでもなかった。まずニンニクは平気。
多少は効くが、単に嗅覚も鋭くなったために感じるだけのことであり、
これはニンニクに限ったことではない。ドリアンなどの方が余程脅威だ。
 十字架も平気だった。藍香曰く『単に物が交差しただけでは、魔を祓う聖性はない』とのこと。
つまり、藍香が持っているような魔術的な力のある十字架でないと効果がないということだろう。
 日光は前述の通り。多少は堪えるが、せいぜい慢性的な寝不足状態、という程度でしかない。
根性と体調管理でどうにでもなると智は踏んでいる。
 心臓に杭は・・・打てば死ぬだろうが、それは吸血鬼に限った話ではあるまい。
それでなければ傷つかない身体にもなっていない。現に、昨日は体育で擦り傷を負ったし、
普通に痛かったのだから。
 つまるところ、日常生活には問題はないのだ。ならば、何が智をこうも疲労させているのか――。

(くそ・・・・・・)
 毒づいて見せても、脳裏に浮かぶ情景は現れるのを止めてくれない。例え身体が今のように
なっていなくても、それは押さえ込むにはあまりに魅惑的な光景。
 部室での藍香の艶姿。下着が見えることも厭わず開かれた制服、大理石のように滑らかな肌、
震える慎ましやかな唇、そして張りのある美しいラインを描いた豊かな双丘。
 そんな姿を年頃の男子に晒すことの意味を、藍香は分かっているのだろうか。
 確かに智の身体の異変の原因は藍香にある。あの報告に行った日の色を失った藍香の表情からも
それは分かる。口数は少ないが優しい藍香だ、責任を感じているのだろう。 
 だが、それは自己犠牲的に己の全てを捧げることとは違うと思う。
別に贖罪を望んでいるわけではないし、こんな形でのものなどいわずもがなだ。
 今の智は身体能力を始め、嗅覚など五感も強化されている。そしてそれは、
性的な欲求とて例外ではない。
 だからこそ困るのだ。この年齢の割に強い理性を誇る智だが、あくまで年齢の割に、だ。
所詮17歳の少年に過ぎない彼の理性は、毎日恐ろしい勢いで磨耗している。
 初めての吸血の時、藍香は制服を緩めて僅かに肩を晒した。
首筋に噛み付きやすくするためにと言って。
別に必要はなかったが、先輩が言うならこのくらいはいいかと、少しドキドキしながら承諾したのだ。
 それが、いつの間にこんなことになったのだろう。分かっている。
欲望に負けて拒めなかった自分が悪いのだ。だが、それも今更。
 血と女への陶酔感に溺れかけている自分は止めようがなかった。

 加えて千早のあの金切り声。智には匂いがどうとしか聞こえなかったが、
それもオカルト研究会によるものだろう。
 始めはもしや自分はそんなに臭いのかと思ったが、あの部室を思い出せばその疑問もすぐに解けた。
 思えば、部室ではいつも怪しいお香を焚いていた。時に香水のようだったり、
時に刺激臭だったり、時に香辛料そのものだったり。
 湯船に浸かりながら、智は今日のお香を思い出した。身体を火照らすような、
温度の高い煙だったが、不快な匂いではなかった。むしろ甘い感じの・・・。
「・・・・・・・・・」
 なぜか浮かんだのは藍香の肢体。即座に冷たいシャワーで頭を冷やした。
 ともあれ、それらの香も何かしら魔術的な代物に違いあるまい。自分は慣れているし、
人体に害はない――と智は思う――とはいえ、千早には何か不快感を与えるものが
あったのかもしれない。
 思えば、千早はここのところ不安定だった。今日のように我を忘れた叫びを上げたのは
始めてだが、智がオカルト研究会に行くことに、ずっと不安を抱いていた。
 それは、人知が及ばぬ領域に対する根源的な恐怖だろうか。ならば自分も、
必要以上にそこに関わるのは止すべきではないか。
 確かに本物の魔術などに興味はあるが、それは何より大切な幼馴染にあんな思いをさせてまで
貫くものではない。
 藍香から血を吸うのを止め、オカルト研究会とはただ吸血鬼から元に戻ることに
関してのみ付き合う。そうすべきだ。
 部活をやめても、別に藍香との付き合い自体が消えるわけではない。もう自分たちは友人同士だ。
ずっと藍香の領域で付き合ってきたが、今度は自分や千早で藍香を光差す世界へ連れ出そう。

 一度決めてしまうと気が楽になる。
 夕食での、千早の痛いほど真剣な言葉が、その決意を後押ししてくれた。
(この日常を守ろう。千早や藍香先輩の前では、俺はいつもの高村智だ。みんなが見てないところで
どんな思いをしても、それを絶対に表に出さない)
 時計をみると、午後の十時を回ったところだった。
 智は部屋に戻って上着を羽織ると外へ飛び出す。日常を守るためにも、
これからしなければならないことがあるのだ。
 夜という翼を得た吸血鬼の少年は一陣の疾風となって、住宅街からあっという間に姿を消した。

 

 ・・・日常を守るため、などと格好のいいことを言ったとしても。
(俺のしてることって、まるっきり性犯罪者のそれだよな・・・)
 それでも智は、自らの行為をやめようとしない。
「ぁぁぁ・・・いい、いいよぉ・・・!」
 智に後ろから抱きすくめられた女が身体をくねらせて身悶える。
眼鏡を掛けた真面目そうな少女だったが、今は快感に呆けた浅ましい表情で智に身を任せている。
 その女の首筋には、智の鋭い歯が突き立てられていた。
 言うまでもないが、血を吸っている。
 夜は11時遅く、場所は繁華街の裏路地だった。

 藍香から血は吸わない。いくら言ったところで、こればかりは根性で抑えられるものではない。
一度我慢を試して実証済みだ。血を断って三日、翌日に貪るように藍香にしゃぶりついた経験は、
今も智に苦い思いを抱かせる。
 ならば他から血を供給するしかない。だが、見知らぬ他人に血を吸わせてくれなんて言える訳がない。
 だったら無理矢理――それでもなるべく穏便に――いただくしかない。
 他にいい案があるかもしれないが、悠長にそれが見つかるのを待ってもいられない状況だ。
 そうして智が考えたのが――夜の街に繰り出し、人知れず暗躍して人を襲う、だった。
 実は、こうして夜に出かけるのはこれが初めてではない。藍香から吸う血の量だけでは
足りなかったのだ。貧血にならないようにと手加減して吸っているためなのだが、
それで自分が暴走しては元も子もない。
 だから智は、見知らぬ人々からほんの少しずつ血を吸って吸血欲求を満たしている。
 初めはのべつまくなしに吸った。中年サラリーマンにも我慢して牙を立てた。結果、吐いた。
純粋に血が不味くて。
 血にも良し悪し、或いは相性があることを知ると、段々と自分に合うターゲットを絞っていった。
 まず女性。それも若い女。そして、これは智が推理した傾向でしかないのだが――。
 清楚な、真面目な、遊んでなさそうな――そして、これは邪推だと本人は思っているが――。

 処女。
 で、ある。以前、年不相応に似合わない化粧をしたけばけばしい中学生――制服で分かった――
の血が酷く不味かったのに対し、三十路前くらいと思われる真面目そうなOLの血はとても美味かった。
 ・・・無論、血を吸っただけで相手の性遍歴まで分かるわけはないのだが。
 ともあれそんなわけで、智はターゲットを女子中高大生から若いOL当たりに絞っている。
 塾帰りの学生やちょっとコンビニに出てきた受験生、残業で疲れて帰路に着くOLと、
探せば意外に見つかるもので、今のところ相手に困ることはない。
 襲う方法は極めて単純。近道と思って裏路地や人気のない暗がりを通った所などを
羽交い絞めにし、有無を言わせず素早く歯を立てるだけ。早ければ5秒、多くても10秒は掛けない。
 猥褻行為とは違うし、智も邪な気持ちはないのだが、客観的に見れば、本人が思った通り
どう見ても性犯罪者だ。それでも智は今のところ、全くボロを出していない。
 夜が智に与える力は思いのほか大きく、女性一人の動きを封じるくらいは難なくやってしまうからだ。
 無論時間と場所という要因もある。だが、何より――。

「あぁぁぁ・・・はふぅぅぅ・・・・・・」
 智の腕の中で、眼鏡の少女がくてんとなる。実はイッてしまったのだが、智が気づくはずもない。
「ふう・・・上手くいったな。ごめん、ちょっともらっただけだから。
身体に影響は出ないと思う。・・・ホントにごめんな」
 心からすまなそうに、しかし顔は決して見せず、脱力した少女をその場に横たえて智は姿を消した。
 ・・・そして何より、女性からの抵抗がないこと。これが大きい。最初は抵抗されるが、
一度牙を突き立ててしまえば大抵が脱力し、智のなすがままにされてしまうからだ。
 女性の無抵抗の理由を『吸血などいう行為を受けたへの衝撃から』と取っている智は、
その衝撃を押さえ込んででも抵抗する女性がいつ現れるかと、内心では戦々恐々としている。
吸血時間の短さやすぐに逃げ出すことからもそれは明らかだ。
 だから気づかないのだろう。その少女の血を吸うのは実は二度目であること、
少女が一時間ほども前からこの辺りをうろついていたこと。
 そして、彼女と同様に意味もなく、だが一抹の期待を胸に抱いて繁華街をうろつく
女性たちの存在と、彼女たちの首にある小さな刺し傷のようなものを。

 このように自力で血を補給できる智が、なぜ藍香の血を吸うことに甘んじていたのか。
それはまさしく「甘え」だ。弱い自分と藍香の優しさへの。
 藍香の血は美味い。味がどうこうではなく、もっと何か・・・本能的な欲求というか、
支配欲というか――智には上手く言葉に出来ない――を満たしてくれるのだ。
 『藍香』が、『藍香の血』が欲しい、と心の中が喚くのだ。他の女性には今しがたのように、
単に血を求める存在以上の衝動は抱かないというのに。
 実際、量はともかく満足度では、他の女性が束になっても藍香には敵わないだろう。
 だからこその甘えであり、しかし自分はこれを終わらせなければならない。
取り敢えず相性の合う血さえあれば自分の身体は保つのだ、後は藍香を信じて待つしかない。
 時計を見ると、既に日付は翌日になっていた。
(午前1時前か・・・そろそろ帰ろう)
 身体は元気一杯だが、寝ておかないと明日に響く。授業中ずっと寝て過ごすなどという
醜態は晒せない。
 そう思って自宅への道を取ろうとした智だが、ある光景が目に映った。

「なあ姉ちゃんさー、俺らがこんなに誘ってるんだぜ?
 そろそろOKって言ってくれてもいーじゃん」
「そーそー。忘れられない夜にしてやんぜ? ぎゃははははははっ!」
「なあいいだろー? こっちが大人しくしてる間にさぁ、うんって言っといた方がいいぜー?」

 未だ人の多いメインストリート、電灯が明るく照らす下で、三人の若者が女性一人に
蝿のようにたかっている。
 そして周りの人間は、チラリと一瞥して素通りしていく。薄情ではあるが、
関わり合いになりたくないのだろう。
 その格好の悪趣味さは智曰く『筆舌に尽くしがたく』。彼らを見て最初に抱いた感想は、
『こんな時代錯誤な連中がまだいたなんて・・・』だったのだが。それはさておき。

「悪いけど。タイプじゃないって何度も言った通りよ。もういい加減にして、他の相手を探したら?」
「そんなこと言わないでさあ・・・」
 毅然と言い放つ女性に男の一人が無遠慮に手を伸ばし――。

 パンッ。
 小気味よい音が響いた。男の手を叩き落とした女性が、返す手でその頬を引っ叩いたのだ。
 叩かれた態勢のまま、男は何が起こったのか分からないとでもいうように立ち尽くしていたが。
「このアマぁっ! 人が下手に出てりゃ調子に乗りやがって!」
 あっさりキレた男が拳を作って女性に踊りかかる。
 剣呑な雰囲気になってきたことに周囲の人間の注目が集まるが、やはりというか
この期に及んでも尚助けようとする者はいない。
 女性は気丈な姿勢を崩さず、男がまさにその顔に殴りかかろうとして――。

「やめろ」
 いつの間にか男と女性の間に入り込んだ智が、男の拳を受け止めていた。
自分より一回りも大柄な男の拳を、智は顔色一つ変えず左手で受け止めている。
 驚いたのか、後ろで女性が息を飲む気配が伝わる。周囲の全ての人間の足が止まる。
そして男の動きも止まったが――智はそれが再び動き出すことを許さない。
 驚愕に歪んでいる男の顔に、智は間髪入れず右の拳を叩き込んだ。
「へぶらっ!」
 鼻血を吹いて男が転がる。
「なっ・・・テメェっ!」
 ズザァッ、と音を立てて仲間が自分たちの間に転がり、暫し呆然としていたが、
残る二人もすぐに頭に血を上らせ、智に殴りかかってくる。しかし。
「・・・見える」
 冷静さを欠いた単調な攻撃、群れて数任せに戦うことしか能がない平均以下の能力。
智の中に酷薄な感情が芽生え、相手を冷静に分析する。
 チンピラ相手に本気を出すことはないが、ケガに気を使って手加減してやる必要もない。
 二人をある程度引き付けると、智はドロップキックの要領で一人の脛に飛び蹴りを食らわす。
為す術も無く倒れる一人。しかもその動きでもう一人の後方を取る。
 慌てて振り返ったもう一人へ、立ち上がりざまに身体を捻りながらの裏拳をお見舞いした。
「あがぁっ!?」
 何とか倒れずにたたらを踏むが、鼻血を吹いてよろけていてはとても様にならない。
 その間に智は脛蹴りで転ばせた男の背中を踏みつけ、宣言した。
「まだやる気か?」
 智の問いに二人の鼻血男が敵意を込めて睨みつけるが、距離を詰めようとする様子は無い。
 相手の戦意の喪失を確認すると、智は背中を踏む足をどかせた。すぐさま這うような動きで
立ち上がり、仲間の所へ合流する。
「覚えてやがれ!」
 あんまりと言えばあんまりな捨て台詞を残し、男たちは走り去る。
智はそんな言葉を浴びせられたことに、ある意味で深く感動していた。


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