ブラッド・フォース 第4回
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「ただいまー・・・」
 西日に赤く染まった高村家の玄関に覇気の無い声が響く。
家の主とその妻が出張で留守にしたその家は、もはや長いこと智の一人暮らし状態だ。
 しかし両親は智を安心して放任し、智もそれに何も言わない。なぜならば――
「おかえりなさーい!」
 パタパタとスリッパの音を響かせ、制服の上からエプロンをした千早が
キッチンから顔をのぞかせた。料理中らしく、台所からは食欲を誘う匂いが漂う。
 このように、千早が智の面倒を甲斐甲斐しく見ているためだ。当初は面倒を掛け
心苦しいと思っていた智だが、今ではすっかり甘んじている。
 千早が身に着けたエプロンもスリッパも、この家での彼女専用のものだ。
「ああ、ただいま。・・・千早、さっきはごめんな。怒鳴りつけたりして」
「ううん、いいよ。ちゃんと謝ってくれたから、許してあげる」
 今更この程度で揺らぐような絆ではない。それを感じて千早は嬉しくなり、
智の傍に駆け寄って鞄を受け取る。新婚さんを思わせるこういった些細な行動は、
千早の毎日の密かな楽しみだ。
 しかし。

「・・・あの女の匂いがする」

 カチリ

「え・・・?」
 俯いた千早の表情は、ちょうど真上から見下ろす形になっている智には見えない。
呟きと歯音は烏の鳴き声に掻き消され、耳に届くことはなかった。
「おい、千早?」
 智が俯いたまま動かない千早を怪訝に思い声を掛けると、面を下げたまま千早が口を開いた。
「智ちゃん。ご飯できるまで時間あるから、先にお風呂入ってきて」
「え? でもまだ早・・・」
「いいからっ! 入ってきて!!」
 千早の剣幕――といっても顔は見えないのだが――に押されてか、
智は疑問を持つことも忘れて急いで二階の自室に上がっていった。
 部屋の扉を開け、バタンと閉める。その音と同時にゆっくりと顔を持ち上げた千早は。

 口裂け女もかくやとばかりに歪んで広がった唇を三日月型に開き、壊れた人形のように
ガタガタと歯を噛み鳴らしていた。

 

 智が風呂場からシャワーの音を響かせ始めると、千早はすぐさま二階に上がる。
見慣れた幼馴染の部屋、そのベッドには乱雑に脱ぎ捨てられた制服が散らばっていた。
 それを見た千早の笑みが穏やかな、母親のそれになる。若い男子の常というべきか、
智もまた年相応に自堕落であり、その世話をするのは千早の役目だった。
 制服を手に取り、シワを伸ばしハンガーに掛けようとして――千早は不意に
制服をギュっと抱きしめると、そのまま智のベッドに倒れこんだ。
 股に制服を挟み込むと、モジモジと両足を擦り合わせ始める。
「んんぅ・・・智ちゃん・・・智ちゃぁん・・・!」
 既に数年来の習慣となっている、智の部屋で自らを慰める行為。小学生の頃に知ったそれは、
中学生になって本格的な習慣と化した。
 私服だった小学校とは異なり、制服はそう頻繁には洗えない。いつものように苦笑しながら
智の制服を片付けようとして、そこにはっきりと残る愛しい人の残り香を感じた千早は、
簡単に理性を手放してしまったのだ。
 慣れた行為に肉体はすぐに上気し、間もなく水音を響かせ始める。
「やぁっ、そこはだめぇ・・・! 汚いよぉ、智ちゃん・・・」
 脳裏に浮かぶのはいつだって、この世で一番愛しい幼馴染の少年の姿。
 しかし、身体がいつも通りに快楽を享受し始めた中、千早の頭の中に僅かに冷めた部分が残った。
智の匂いに混じった他の女の匂いが、快楽への没頭を邪魔するのだ。

 カチリ

 またも歯が無意識に噛み鳴らされる。

 智ちゃんが他の女の――あの女の匂いをつけて帰ってきた。これまでだってあったことだけど、
今日は特に酷い。
 一体何をさせられているの? 一体何をしているの? 服に匂いが付くほど近づかなきゃ
出来ないようなこと?
 智ちゃんに近づいていいのは私だけなのに。智ちゃんの隣りは私だけのものなのに。
 智ちゃん、ダメだよ。あの女に近づいちゃダメ。あの女は悪魔だよ。それも女の形を取った
とびきり性質の悪い淫魔。きっと智ちゃんを不幸にする。
 いまならまだ間に合うよ。幸い自分の領域でなきゃ何も出来ないみたいだし、
私が守ってあげていれば大丈夫。魔に魅入られた部分も、私がそばに居ればきっと回復する。
 そうしたらきっと智ちゃんも『千早のお陰で目が覚めたよ。もう俺はお前なしじゃ
生きていけない。愛してる』ってちゃんと言ってくれる。

 でも、もしかしたら・・・もう智ちゃんは、口で説得するだけじゃ聞いてくれない領域まで
侵されているかもしれない。
 もうそうだったら・・・そうだったら私は、何に代えても智ちゃんを救わなきゃならない。
 学校には行けないだろう。あの女が目を光らせている。怪しげな術で立ち回られたら、
いくら私でも守りきれないかもしれない。それでも智ちゃんは学校へ行こうとするだろうから・・・。
 ムリヤリにでも、動けないようにしなきゃ。
 薬を盛ろうか。睡眠薬なら持っている。三食私に頼りきりの智ちゃんだから、混ぜるのは簡単。
後で縛るための縄でも探しておかないと。
 殴って気絶させるのはどうだろう。フライパンは・・・ダメ。硬いけど力が足りない。
それに何年も智ちゃんにお料理を作ってる道具だもの、へこんじゃったら大変。
結婚してからも大事にしたい想い出の品だもんね。
 なら・・・玄関にあるおじさまのゴルフバック。うん、いい。あれなら非力な私でも
強力な衝撃を生み出せる。
 どちらにするかは後で考えよう。

 智ちゃん、ちょっとご無体するかもしれないけど許してね。智ちゃんの為なんだから。
驚かせるかもしれないけど、きっと智ちゃんなら分かってくれるよね。
 それに、ずぅぅっと私がそばに居るから。ご飯も、おトイレも、お風呂も、
私が全て面倒見てあげる。性欲だって・・・受け止めてあげるよ。
 私のことしか考えられなくなるまで、何日でも、何ヶ月でも、何年でも愛してあげるから。
 なぁんにも、心配することはないんだからね?
 まずは、服に付いた女の匂いを消さなきゃね。私の匂いに染め直さないと。

「いくっ、いくぅっ、いっちゃうよぉぉっ! さとしちゃんっ、一緒に、一緒にイってぇぇっ!」
 すべきことが決まると、不思議と気も軽くなる。思考の為に残した部分を手放して
快楽に身を任せると、一際高く啼いて千早は果てた。
 エプロンの前を濡らした千早が部屋を立ち去った後には、ところどころを同じく濡らした
智のズボンが残されていた。

 智が風呂から上がり、千早が最後の仕上げを終えて。いつも通り向かい合って座り、
夕食を摂り始める。
 疲れているのか、智の箸の動きはいつもより鈍い。しかし、千早の動きはそれに輪を掛けて鈍かった。
 食欲がないわけではない。これから発する言葉への緊張からだった。
 また怒鳴られるだろうか。『俺が放課後どうしようが俺の勝手だろ!』とか言って。
まさかあの女を庇うようなことは言わないだろうか。
 いざ相対すると嫌な方向ばかりに想像が行く。ともすれば唇が歪み、
歯が噛み合わさりそうになるのを必死に堪える。
(智ちゃんのため、智ちゃんのためなの・・・! 私が言わなきゃいけないの!)

「智ちゃん!!」
「うわっ!? な、何だ!?」
 いきなり立ち上がって身を乗り出してきた千早に、智は思わずのげぞる。
 その攻めの態勢に勢いを見出したのか、千早は矢次早に一気に告げた。
「もう・・・もう部活に行っちゃ――あの先輩に会っちゃ、ダメ」
 最初の勢いとは裏腹に、静かな響きを持って紡がれた言葉。それは沈黙に満たされた空間に
不思議なほど深く浸透した。
 その態勢のまま数十秒。沈黙に耐え切れなくなった千早が泣きべそをかきそうになった頃。

「わかった」
 智の口から、予想だにしない返事が返ってきた。
「え・・・?」
 理解できなかったのか、千早が呆けたように呟く。
「そうするよ。俺も薄々そうした方がいい気はしてたけど、ずっと決められなかった。
でもお前の言葉で踏ん切りがついたよ。これ以上お前に心配は掛けられないし、
先輩にも迷惑を掛けられない」
 なぜ智が藍香に迷惑を掛けると言うのか。少し疑問に思わないでもなかったが、
智の言葉に比べれば些細なことだった。

 やっぱり智ちゃんは分かってくれた。私が一番だって分かってくれた。
 ううん、初めから分かっていたんだ。優しい智ちゃんだから、
可哀想な悪魔に少し構ってあげていただけ。
 悪魔は好かれたと勘違いして智ちゃんを魔に引きずり込もうとしたけど、
そんなもので切れてしまう絆じゃあ、私たちはない。
 いつの間にか、千早は花が咲いたような満面の笑みを浮かべていた。幼い頃に戻ったかのような、
不純物など何一つない童女の微笑み。
 だからだろうか。また明日と言って別れるに至っても尚、少女は思い出さなかった。

 己が智の食事に入れたもののことを。


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