第2話 『帰還』
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夢の中で、俺は天野を蹂躙していた。
これが夢である事なんて一瞬でわかる。
天野と俺は恋人でも何でもないのだから。
だが一糸纏わぬ天野が四つん這いになっている姿を見れば、
健康で文化的な最低限度な男は皆同じ行動をとるだろう。
俺とて、天野にこんな願望を抱いている事は否定できない。
天野は…美人さんだからな。
 じゅく…じゅく…
気のせいか、肉が擦れ合う音が聞こえたような気がした。
それになんか…感触がリアルすぎやしないか?
手でさすった時の感覚を遥かに凌駕しているこの感覚は…
 ちゅば…ちゅば…
「怪しい、おかしい、変だ!?」
 ガバァッ
「…あっ」
「………!!?」
眼前に広がるは俺の部屋、そして俺のアレに舌を這わせている見知らぬ少女であった。
「おはようございます、兄上」
「俺に妹はいねええぇぇっっ!!」
何が悲しくて俺は朝っぱらから絶叫しなくてはならないのだろうか?
俺は何もしていない、断じてしていない。(願望はあったが)
だが、この少女は全く動じてはいなかった。
それどころか、ゆっくりと…まるで未だに夢の中に居るのではないかと錯覚させるほど
艶かしい動作で俺の上に伸し掛かってきたのだ。
「兄上、私の方は準備ができております」
「なっ!?」
そう言って見せられた女性器は、確かに見てわかるほどに濡れていた。
初めて見るモザイクの無いソレは、一瞬にして俺の脳に焼き付き興奮を促す。
…て、今気がついたがTシャツ以外何も身に着けていないじゃないか!
「…いきます」
 くちゅ…
天に向かってはち切れんばかりに怒張しているモノが、入り口に触れた。
俺がこの子と一線を超えるのにもはや1秒の時間すら必要としないだろう。
この時点で俺は、考えるのをやめていた。
「いくなあああぁぁぁっっっ!!!」
 ゴッ!
「はぐっ…」
はっきりと言おう、俺はこの時追い詰められていた。
だから俺がこの少女のアゴを目掛けて全力で拳を放ったとしても、
一体誰が俺を責められるのであろうか?
…ごめんなさい、動転していました。
後に残ったのはぶっ倒れて目を回している半裸の少女と、もはや取り返しのつかない程に
勃起している俺だけであった。
なんと言うか…なんとなく惨めな気分だ。
とりあえず俺は少女の言っていた『兄上』の真偽を確認するために、親父の姿を探す事にした。

「親父、居るか」
居た、親父は店内の椅子を定位置に運んでいた。
「おはよう。勇気、驚くのは良いが悲鳴を上げるのはほどほどにしてほしいのだが」
…と、親父は眉一つ動かさずにこんな事をのたまいやがった。
「聞こえていたなら助けろよ…」
「なんだ、何か妙な事でもあったのか?」
ここでようやく親父の表情が変わった。絶対何か知っていやがるな、こいつ。
「親父、知っている事を全部話せ、残らず話せ」
「英知から何も聞いてないのか?」
「えいち…?」
はて…どこかで聞いた事があるような気がする。
「なんだその顔は、まさかとは思うが忘れたのか?」
昔…それこそ気が遠くなる程の昔に聞いたような気がする。
「わ・す・れ・た・の・か?」
思い出せ…思い出すんだ不撓勇気、たしか俺が幼稚園児だった時に…
「…あっ!」
「ようやく思い出したか…」
そうだ、なぜ忘れていたのだろう。
「お袋の名前!」
「全然違うっ!!!」
…あれ、おかしいな。
「………」
「………」
「まあいい、忘れたのならもう一度話そう」
「…ごめんなさい」
「英知はお前の妹だ、もっとも実際に会うのは初めての筈だがな」
「妹…?」
そう言われればそんな事を聞いたような気がする。
「そうだ、今から15年前に英知は産まれ、そして今まで楊貴と共に暮らしていたらしい」
「楊貴ってのは?」
「…一度お前の頭を切り開いてみたい」
「…ごめんなさい」
親父、冗談だよな…背筋が寒くなったぞ。
「不撓楊貴(ふとう ようき)、こっちがお前の母親の名だ。二度と忘れるな」
ああ、それでようやく思い出した。
俺が今まで写真ですらお袋の顔を見た事が無いのは、お袋が妹と共に家を出て行ったからだったんだ、
…いや、正確に言うならば妹が産まれるまでの約2年間はお袋の顔を見て育ったらしいのだが、
残念な事にその頃の記憶は非常に曖昧だ。
「親父、それならなぜ今頃になって英知がこの家に来たんだ?」
「………」
「…親父?」
「それは…本人から聞いた方が良いだろう。私とて全容を知らされている訳では無いのだからな」
「英知に…?」
どうやら、親父から聞き出せるのはここまでらしい。
「…兄上」
いつの間に目覚めたのか、そこには先ほどの少女が立っていた。

「英知…なのか?」
「はい…兄上」
15年ぶりの兄妹の再会、だが俺にはイマイチ実感が沸かなかった。
当然か…実際に会うのはこれが初めてらしいからな。
まあ、そんな事はどうでもいい。
今は英知に聞かなければならない事がある。
だけど…なんとなくだが、聞いてはいけないような気がした。
聞いてしまっては二度と戻れなくなるような、大切な何かを失ってしまうような、
そんな嫌な予感がした。
だがしかし…聞かなければ何もわからない、何もわからないまま終わらせるのはもっと嫌だ。
随分と長い思案のを経て、俺は意を決した。
「英知…」
 カランッ カランッ
「おはようござ…い…」
大槻よ…前々から思っていたのだがお前はタイミングが悪すぎやしないか?
今になって思い出したのだが、英知の身を隠す物はTシャツが一枚あるのみであった。
 カチャッ
それになぜ一介の高校生がそんな危ない物(ベアークロー)を持ち歩いているんだ?
「このっ…ド変態っ!!」
最後にもう一つ、なぜ俺を攻撃するんだ…
俺はそんな事を考えながら、意識を手放した…
「くぅ…このっ…」
…あれ?
「兄上に手を出す事は私が許しません」
それは、まさに信じられない光景であった。
英知の右腕からまるで茨のような物が伸び、大槻の右腕を拘束しているのだ。
「あなた…何者なの?」
「兄上の…不撓勇気の婚約者です」
『いつ婚約したんだ!』と、言いたいがぐっとこらえる俺。
「ふざけないでっ!婚約者は私よっ!!」
『お前も対抗するなよ!』と、良いたいが口が裂けても言えない俺。
「兄上っ!」「不撓君っ!」
今度はこっちに矛先が向いてきた、てかもう勘弁してくれ。
「「いったいどうゆう事→→ですかっ!」
           ↓→なのっ!」
お前ら実は仲良いだろ。
「………」
「………」
「………」
嫌な沈黙が辺りを漂う。
いったい何なんだこの二者択一っぽい雰囲気は。
だいたい俺は婚約を交わした記憶は全く無いぞ。
まあ流石に2歳の頃に交わした約束は覚えてはいないが、その頃の英知は0歳だ、覚えている訳がない。
大槻の方は…たぶん英知の言い分をブラフだと考え、それに対抗するために自分も同じ手を使ったのだろう。
そう考えると、まず俺は英知からできるだけ多くの情報を引き出すべきだな。

「英知…」
「なんですか?兄上」
 カランッ カランッ
「不撓さん、大丈夫ですかっ!」
天野…お前もか。
「………」
「………」
「………」
「………」
「大丈夫…ですか?」
流石の天野も状況が読みきれないらしい。
まあ当然な話だ。ベアークローを構えた大槻とそれを茨のような物で拘束している半裸の英知、
その二人に睨まれている俺、さらに黙々と開店準備を進める親父。
そして最後にパジャマ姿の天野。
この場面を見ただけで事情が理解できる奴は本物の超能力者だ。
…って、パジャマだとおおおぉぉぉっっっ!!!
「不撓…さん?」
い…いかん、思わず叫び出しそうになったしまった。
だが、それほどまでに天野のパジャマ姿は破壊力抜群であった。
全身真っ青でなんのプリントもされていないシンプルな物だが、その質素さが天野にマッチし、
かつ清楚さを引き立てている。
さらにやや大きめのサイズが天野の小柄な体を強調しているが、
決して嫌味の域に入らない絶妙なバランスを保っている。
そう、まさしく絶妙なバランスだ。大切なのは本人、服装はあくまで本人のための引き立て役である。
その点天野のパジャマは、引き立て役に終始しつつ、それでいて決して無視できない存在感がある。
天野…本年度のMPP(モースト・パジャマ・プレイヤー)は君で決まりだ。
「不撓君、何をジロジロみているのかな?」
いかん、大槻と英知の事をすっかり忘れていた。
しかも間の悪い事に俺の服装もパジャマ、つまり万が一アレが勃起してしまうと俺にはそれを誤魔化す術は無いのだ。
「兄上、どうしたのですか?」
いかん、これ以上天野のパジャマ姿を見ているのは非常にまずい。
なんでもいい、何か別の物を考えるんだ。
別の物…別の物…別の物…
だからって天野の全裸を想像してどうするんだあああぁぁぁっっっ!!!

 カチャッ
「不撓くーん、どーしてそんな場所が急に元気になるのかなー…」
わーい、大槻スマイルand二刀流だー。
二日連続で見られるなんてラッキーだなー。
「兄上、溜まっていらっしゃるのなら毎日私がお相手いたしますよ」
とか言いつつ英知の腕から出ていた茨は大槻の拘束をやめ、まるでドリルのように寄り集まっていた。
「ごめんねー、最近私忙しかったから不撓君溜まってたんだよねー…」
大槻はあくまでブラフ攻勢を緩める気は無いらしい。
だがな大槻、いくらなんでもお前がそんな事できる訳が無いだろう。
「私なら毎日何度でも兄上の溜まった欲望を満足させてあげられますのにねえ」
ナイスだ大槻、お前のお陰で英知の矛先が俺から外れた。
「こーやって胸で挟むの大好きだったよねー、貧相な誰かさんには無理だろうけどねー…」
勝手に俺の過去を捏造しないでくれ、俺は無実だ。
「私はまだ若いですから、兄上が協力してくださればいくらでも大きくなれますよ」
お前らたしか2歳差だったよな?
俺の記憶が正しければ二年前の大槻の方が大きかったぞ。
「そんなの不撓君は待てないよねー、それに貧乳はなにをやっても貧乳だよー…」
大槻、今の言葉で全ての女性の半分を敵にまわしたぞ。
「あんまり無駄に大きいと垂れるのが早いですからね、あなた10年後に鏡を直視できます?」
英知、それはいくらなんでも禁句だ。
「あ…あの…不撓さん」
「違うっ!断じて違うっ!ブラフだっ!ハッタリだっ!」
「………」
「………」
「………」
「………」
まずい…非常にまずい…
このまま何のフォローも無いと天野はこの二人の言葉を信じかねんし、大槻と英知は今にも暴れ出しかねん。
何か無いのか…何かこの状況を打破する方法は無いのか…

「勇気…遅刻するぞ」
「「「…え?」」」
現在8時10分、正門が閉まるまであと10分。
「て…て…店長!どうしましょう、開店時間が…」
「やむをえまい、今日は一時間遅らせて9時に店を開けよう」
「ご、ごめんなさい。私のせいで…」
「かまわんよ、そんな事より早く学校に行きなさい」
さっきまで大槻スマイルを浮かべる程に怒り心頭していた大槻であったが、
親父の一言で一瞬にして冷静になり、今度は逆に狼狽し始めた。
だが状況は俺も同じ。いや、既に登校準備を全て終えている分だけ大槻の方が遥かにマシだ。
天野にいたっては一度自宅に帰らなくてはならないのだ。
天野の家がどこにあるのかは知らないが、おそらく遅刻は確定だろう。
「え…っと、お邪魔しました」
「待った。天野、ちょっとだけ待っててくれ」
「…え?」
 ドタドタドタ…
そう言うや否や俺は二階への階段を駆け上り自室に駆け込む。
えっと…これでもない、これでもない、これでもない、あった!
 …ドタドタドタ
「天野、これ羽織って行け」
私服用のジャンパーだ、洋服掛けに無造作に掛けてあっただけだったので探すのは簡単だった。
「あ、ありがとうございます」
「勇気、それに…天野さんだったかな?」
「はい、天野友美といいます」
のんきに自己紹介してる場合かよっ!
「これも持って行きなさい」
 シュッ
「わ…とっと」
そう言って親父は俺達に銀紙で包まれた物を投げてよこした。
「あの…これは?」
「おにぎりだ、休み時間にでも食べなさい」
「ありがとうございます、頂いていきます」
気のせいか…親父の方が感謝されてないか?
 カランッ カランッ
天野は走り去って行った。
結局何のために来たんだか…
「不撓君、遅刻しちゃうよっ!」
「わっ…そうだった」
「兄上、制服と鞄を用意しておきました」
そう言ってワンピースを着た英知が制服と鞄を持ってきた。
「サンキュー」
俺は速攻で受け取り自室へ…
「…て、ちょっと待て」
「はい?」
「何でお前が制服と鞄の場所を知っているんだ?」
あれは脱衣所に置きっぱなしだったはずだ。
「はい、今朝偶然見つけました」
そう言って英知はえっへん、と胸を張る。
良かったな天野…僅差でお前の勝ちだ。
「不撓君っっ!!」
「わぁー、ごめんなさいごめんなさい」
 ドタドタドタ…

 キ〜ン コ〜ン カ〜ン コ〜ン
四時間目が終わり昼休みとなった。
…しかし今朝は酷い目にあった。
大槻と英知の対立もそうだが、そのせいで俺は駆け込み電車のごとく正門に挟まれたのだ。
しかも大槻は俺が当直の先生の注意を引き付けている隙に、まんまと塀を飛び越えて突破していたのである。
結局大槻はセーフ、俺はアウト。
天野に至っては学校に到着したのが一時間目の中ごろの話である。
だが今は嘆いても仕方が無い、今の俺に必要な物は購買である。
当然の話だが今日の大槻は弁当を作ってはいない。
すると俺が昼食を調達する方法は二つしか無い。すなわち購買か外食かだ。
最後に俺のカンが購買に行けと伝えてくるので、今日の昼食は購買の弁当かパンに決定したのだ。
 ガヤガヤガヤガヤ…
購買に到着。
番場が言うには、外食組が居る分だけ購買は他校に比べて空いているらしいのだが。
しかし正直に言って、これのどこが空いているのかと番場を問い詰めたくなる。
だいたいどこが最後尾なのかわからんし、そもそも列になっているのか?
よくもまあ天野は毎日ここで買い物できるものだ。
…などと思案していると、最前線から見知った顔が這い出してきた。
「天野」
「あっ…不撓さん」
「もう買い終わったのか?」
「はい、不撓さんも今日は購買ですか?」
「まぁ、今日はいろいろあったからな」
そう言うと天野は、笑っているような困っているような複雑な顔をした。
「ところで、何か天野のオススメはあるか?」
「そうですね…私はこのサンドイッチが気に入っているんですけど」
そう言って天野は自分が買ってきたサンドイッチを見せてくれた。
「そっか、じゃあ俺もそうするかな」
 ガヤガヤガヤガヤ…
「………」
「………」
「…不撓さん?」
「…なんだ?」
「もしかして、買い方がわからないんですか?」
「………」
「あの…私が買ってきましょうか?」
「…スマン」
情けない男が一人居た。
「はい、まかせてください」
そう言って天野は俺から小銭を受け取ると、再び人混みの中に潜り込んでいった。
いや、突き進むと言った方が正しいかもしれない、明らかに何人かを押しのけていたと思う。
「フライング摂政ポセイドンッ!」
「うわらばっ」
…何だ今のは?
片方は天野の声だったような気がするが…気のせいだよな。
その数秒後、天野は無事サンドイッチを手に入れ俺の前に舞い戻ってきた。
「お待たせしました」
「大丈夫だったか…?」
「はい、慣れてますから」
…やめよう、さっきのは聞いちゃいけないような気がする。
俺達は購買を後にした。

 ガチャンッ
旧校舎屋上に到着した。
適当な場所に腰をおろし、先ほど購入したサンドイッチにかじりつく。
「なるほど…なかなかいけるな」
「でしょう、お気に入りなんですよ」
そう言う天野の顔は本当に嬉しそうだ。
さて、せっかく二人きりになれたのだ。今の内に押し倒…もとい、あの事を聞いておこう。
「なあ天野、なんであの時あのタイミングでやって来たんだ?」
そう、英知が帰ってきた理由も気になるが、これも聞いておくべきだ。
天野のあの時の行動は、あたかも俺の危機を察知していたかのようだった。
そうでなければ開口一番『大丈夫ですか』などと言える訳がない。
「…昨日、不撓さんに良くない事が起きると言いましたよね」
「ああ、言ったな」
記憶力に自信は無いが、流石に昨日の事は覚えている。
もっとも、危うく植物人間になりかけたがな。
「あの時は近い内に、と言いましたが、私の見立てではあと一週間前後の事だと思っていました」
「ま、まさか一週間後にこれ以上ややこしい事が起こるのか?」
いくらなんでもこれ以上立て続けに事件が起きたら俺の気力が持たんぞ。
「いえ、起こらないとは限りませんがその可能性は低いはずです」
「本当か!?」
「はい、私が予知した災いは今朝すでに始まっていました」
「そうか…」
とすると、昨日天野は英知の帰還を教えてくれていた訳か。
「そういえば、なんで天野は今朝パジャマ姿だったんだ?」
「あの、お恥ずかしい話なんですが…今朝、星が不撓さんの危険を教えてくれた時に
頭が真っ白になってしまいまして…気がついたら不撓さんの家に向かって走り出していました」
「そ、それは災難だったな…」
おかげで俺の目の保養にはなったが。
「天野、この騒動がいつ頃収まるのかはわからないのか?」
「すいません、いつかは収まるはずなんですけど、それがいつ頃なのかはちょっと…」
「そっか…ごめんな、無理言って」
天野は少しだけうつむいたが、すぐにまた俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「不撓さん、これだけは覚えておいてください」
それは昨日と同じ眼だった。天野がこの眼をしている時は、どうしても何かを伝えなければならない時だ。
「『今は嘘になんかならない』と言う言葉が有ります。ですが、予知は嘘にする事ができます。」
「どうゆう意味だ?」
「人の運命は絶えず流動しています。ですから、どんなに精巧な予知でも必ず綻びが出ます。
その人に強い気持ちがあれば、予知は嘘にだってなるんです」
一つだけ昨日と違う点があった。今の天野に恐怖は無い、あるのはきっと…強い決意。
「わかった、絶対に忘れない」
だから俺には、こう答える以外に思いつかなかった。

サンドイッチを平らげてからも、俺達は話し続けた。
だけどそれは、本当にどうでもいい話だった。
試験の話、天気の話、この町の話、思い出話。
本当にどうでもいい事だったけれど、本当に大切な話だと思った。
天野が笑って、俺がからかって、天野が少し怒って、俺が謝って、今度は二人で笑って。
それはいつもの昼休みだった。
この時だけは、俺は自分の身に起こっている災厄を忘れ去っていた。
「ところで不撓さん」
急に天野がずいぃっと身を乗り出してきた。
「な…なんだ?」
顔が近い、顔が近い、顔が近い…
「大槻さんが言ってた事は本当ですか?」
「な…んな訳ねえだろっ!」
距離を取るために後ずさる。
かなりなさけない姿だが四の五の言ってはいられない。
「本当ですか…」
「あたりまえだ。仮に俺と大槻が愛し合っていたとしても肉体関係になる事は無えよ」
「えっ…」
やばい、今とんでもない事を言ったような気がする。
「い…いや、違うぞ、別に俺と大槻は恋人でも何でもないんだからな」
馬鹿か俺は…自分で言っておいて自分で白々しいと思っている。
 キ〜ン コ〜ン カ〜ン コ〜ン
なんてタイミングが悪い、こんな時にチャイムが鳴るなんて。
「ごめんなさいっ!」
「おい、天野…」
 ガチャンッ
行ってしまった…
「何をやっているんだよ、俺は…」

「性交渉恐怖症?」
「そうだ、今の大槻陽子は性交渉に対してトラウマを抱いていると思われる」
「そっか…まあ無理も無いよな」
「今の所は吐き気を催す以外の症状は確認できていないが、それ以上はどうなるか予測がつかん」
「治らないのか?」
「俺も何個か手は打ってあるが、半年では完全に治すのは無理だろう」
「そんな…」
「そんな顔をするな勇気、完全には治らんが日常生活に支障が出ないようにはなるだろう」
「本当か!?」
「当たり前だろ、俺は医者だぞ。もっとも、あの件に関しては当たり前の日常を繰り返す他に無いがな…」
「なら、俺はどうすれば良い?」
「勇気、お前は大槻陽子をどうしたい?」
「どうゆう意味だ?」
「お前はこれ以上大槻陽子を守るつもりなのか?」
「そんなの当たり前だろ」
「勇気、人間一人守ろうと言う事は言葉ほど簡単な事ではない。
そいつが抱える全ての物をまとめて背負っていくだけの覚悟が必要だ」
「………」
「もう一度聞く、お前に大槻陽子を守る覚悟はあるのか?」
「………」
「………」
「わからない…だけど俺は、あの子を守りたい」
「………」
「………」
「不合格だな…だが追試くらいは受けさせてやろう」
「追試?」
「いつか必ず、この問いをもう一度受ける時が来るだろう。その時までに答えを考えておけ」
「…わかった」
「それともう一つ言っておく、大槻陽子を守るのなら自分から手を出してはならない」
「………」
「経過が順調なら、大槻陽子はいずれ自分から性交渉へと手を伸ばす日が来るだろう」
「わかった」
「忘れるなよ、いつか必ず追試を受ける日はやってくる」
「わかった、その日までに…必ず答えは出す」

 キ〜ン コ〜ン カ〜ン コ〜ン
 ハッ!
いかん、どうやら眠っていたようだ。
既に五時間目は終わり休み時間に入っている。
流石は伊藤、催眠教師の名は伊達ではないのか。
…と、そんな事はどうでもいい。
今は天野に話を聞いてもらわなくては。
 ガララララッ
「不撓君、ちょっと来てっ!」
大槻、実はわざとやっているんじゃないのか?
しかも天野はもう居ねえし…
やむをえず俺は大槻の居る廊下へ行くのであった。
「で…何の用だ?」
「不撓君、口裏合わせて」
「…頼むからもう少し詳しく説明してくれ」
それでわかったら俺は超能力者だ。
「疑われてるの、あの自称妹に」
自称もなにも、たぶん本物だと思うぞ。
「疑われてる…て、何が疑われてるんだよ?」
いかん…ちょっとイライラしてるな、俺。
「朝に言ってたハッタリ」
「そのまま真実を暴露してしまえっ!」
「………」
「………」
あ…流石に言い過ぎたか。
大槻が滅多に見られない泣きそうな顔になっている。

「…それで、俺は何をすればいい?」
「う…うん、えっとね…」
駄目だ、全然辛気くさい雰囲気が消えない。
さっきから俺は何をやっているんだ。
「とりあえず、店にいる時だけでも名前で呼んで欲しいかな」
「つまり…偽装恋人か」
少しありきたりだが、効果はあるかもしれない。
問題は…天野に更なる誤解を与える可能性がある、て所か。
「なあ大槻、何もそこまでやる必要は無いんじゃねえか?仮にも俺と英知は実の兄妹なんだぞ」
「駄目だよっ!」
「ちょっ…大槻、声が大きいぞ」
一応ここは天下の往来、平たく言えば廊下だ。
現に大槻の声を聞いて振り返る人がちらほらと見えていた。
「あの子は本気だよ、女の子だからわかるよ」    
「本気って…」
「あの子は本気で不撓君を手に入れようとしてる、それでもいいの?」
「それは…非常にまずい」
どんな事情があるのかは知らないが英知は妹だ。
今の俺に近親相姦を容認する理由は無い。
「私だってそんなの嫌だよ。だから…お願い…」
大槻の泣きそうな顔は久しぶりに見る。
三年前に失って…大槻が日常の中で取り戻していった感情だ。
何をやっているんだ不撓勇気…三年前のあの日に、俺は大槻を守りたいと言ったじゃないかっ!
「俺からも頼む…」
「えっ…?」
「偽装恋人を…やってくれ」

「起立、礼」
放課後になった。
六時間目の授業も、ハッキリ言って全く聞いていなかった。
天野にどんな言い訳をすれば良いのだろう?
そんな事ばかりが頭に浮かんでいた。
とにかく天野に偽装恋人の件も含めて事情を話そう、さもなくば間違い無く誤解を深めてしまうだろう。
「天野…」
 ダアッシュッ!
逃げられた…
全く、一体何がどうなっているんだ?
 ガララララッ
「不撓君、一緒に帰ろう」
やむをえん、天野が『Phantom Evil Spirits』に来ない事を祈りつつ…
今は先に英知の方をなんとかするしかあるまい。
天野の件はまた明日にしておくしかないな。
俺は意を決して大槻と共に帰路についた。
 カランッ カランッ
「勇気君、それに陽子ちゃん、お帰り」
鈴木さんが出迎えてくれた。
微妙に肩透かしをもらった気になるが、ここで気を抜く訳にはいかない。
「鈴木さん、あの子は?」
「あの子…英知ちゃんの事かな?」
「はい、そうです」
「うーん、あの子はピークを過ぎてから外出してるからな…ちょっと僕にはわからない」
「「外出!?」」
どうやら大槻も初耳らしい。
「そうだよ、店長も行き先は知らないみたいだけど、何処に言ったんだろうね?」
「すいませーん」
「おっと、仕事仕事…」
鈴木さんはレジへと向かった。
微妙どころか…完全に肩透かしをもらってしまったな…
「………」
「………」
「…陽子、一応聞くがどうする?」
「とりあえず、仕事しよっか…」
「そうだな…」
結局、閉店時間が過ぎて大槻が自宅に帰るまで英知が帰って来る事はなかった。

「…で、結局英知は何処に行ってたんだ?」
夕食時、俺は英知に尋ねてみた。
「はい、不死鳥学園に転入手続きをしに行ってました」
…What!
「明日からは私も兄上と同じ学校に通いますので」
なんですとっ!
「………」
「………」
「………」
…あっ、親父も固まってる。
「…て、ちょっと待て、お前確か15だったよな?」
「はい、戸籍の事なら既に偽造済みです」
「………」
「………」
「………」
戸籍を偽造できる奴なんて一人しか居ない。
しかも英知と知り合いでも何の疑問も無い。
「マジか…?」
「マジです」
俺も親父もこれ以上何も喋れなかった。
この騒動は、当分の間は収まりそうもないと…俺は悟った。


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