沃野 Act.7
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 両手に花と人は言うが。俺にとっては花の牙に狙われ蔦に絡みつかれる秘境の密林な日々だった。

 随分とこちらにとって都合のいい提案をしてくれた荒木は、明くる朝に俺ん家を強襲した。
 夜中に突然電話を掛けてきといて、そのうえ自宅まで押しかけてくるとは。夜討ち朝駆けの精神か。
 チャイムの音に「は〜い」と玄関のドアを開けた母は、そこに外国人風の少女を見てたまげたことだろう。
 え、なに、宗教の勧誘? こんなちっちゃい子が? みたいな。
 彼女が息子の後輩と聞いて腑に落ちないながらも俺を呼びにきた。
 着替えもまだだったせいで対応に困り、「ちょっと待たせてやってくれ」と伝えたら母は気を利かせて
 しまったらしく「じゃあ、上がってもらいましょう」という運びに。
 そうして朝の食卓の席に荒木麻耶が鎮座ましましている。湯気の立つコーヒーを前に行儀良く、しかし
 物怖じせず。俺や両親の方がよっぽど落ち着かない。
「え、えーと、あの、その、なんだ……」
 動転したのか、父は目をキョロキョロさせながらあらぬことを口走った。
「きゃんゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」
 金縛りの呪文。
 ツッコミどころが多すぎて俺と母は絶句した。
「いえ、英語は不得意でして。日本語なら話せます」
 澄ました顔で答える荒木。目の前のコーヒーには手をつけない。
 と、そのときだった。
「ごめんください!」
 玄関のドアを荒々しく開けた胡桃が言い放った。姿は見えないが声で分かった。
 お隣さんだけあって両親ともに面識がある。これはさすがに遇しやすく、いささかホッとした面持ちで
「あら、胡桃ちゃん、いらっ……」「お邪魔します!」と迎え入れられた。
 普段、家に上がり込むことなんてないのに。やはり荒木の存在を感知したからか?
 胡桃の情報網はいったいどうなってるのだろうか。
 ズンズンと食堂に入ってきた胡桃は荒木を睨みつけた。父が「ひっ」と呻いて新聞紙を取り落とす。
 涼しげな目で見詰め返す荒木。すぐに興味なさげな仕草で目を逸らし、湯気の減ったコーヒーに
 ドボドボと牛乳を注いで啜った。ひょっとしてこいつ猫舌なのか。
「おばさん、わたしの分もコーヒーお願いします」
 言うや否や椅子を引き、座り込む。このまま粘って牽制を続けるつもりらしい。
 意識が完全に荒木へ向かっているせいか隠喩は何も見えない。そのことを幸いに思う。
 母は新しいコーヒーを用意しながら「あのね。母さん、二股はイケナイと思うなっ」と叱るような
 口調で囁いた。父も新聞を拾いながら頷いた。俺は半笑いで否定した。
 人間は追い詰められると半笑いになるらしい。
 できあがったコーヒーを渡されるや、胡桃はそのまま飲み始める。ブラック無糖、
 そして地獄の熱さがこいつの好みなのだ。辛いものは苦手なくせに。どんな舌をしているのやら。
 会話は絶えた。そらぞらしく話題を振る気にもなれず淡々と食事を取った。
 素で拷問みたいな朝だった。
 登校時間が近づいてきたので三人揃って外に出る。母は目で「ガンバレ!」と伝えた。いや何に頑張れと。
 歩き出す寸前、さっと右手を握られる。指と指とが絡み合う。胡桃恒例の「手繋ぎ刑」だ。
 やられたことのない奴には分からないと思うがこれは刑と呼びたくなるほど恥ずかしい。
 見せつける意味が強いのだろう、食虫花が満足げにゆらゆら揺れている。
「よーくん、遅刻しちゃうよ。要らない子は道端にほっぽっといてガッコいこ?」
 満面の笑顔で言えるあたり、肌寒い。

 いや、胡桃だって昔はいい子だったのだ。気遣いがあった。配慮があった。俺が他の女子と遊んでいても
 面罵せずそれらしい理由をつけてから追い払ったり俺の手を引っ張って連れ去ったりしていた。
 「もう、よーくん、メーッだよ」と冗談っぽく抓るに留めた。割合痛かったけど。花もよじれてたけど。
 ……あれ?
 なんか本質的には変わってなくない?
 気づいてちょっと憂鬱になった。
 一方、俺が胡桃と手を繋いでいる間もぐるぐると蔓を巻きつけてくることに余念がなかった荒木は、
 この攻撃にもへこたれていない様子だ。
「先輩、鞄をお持ちします」
 申し出るというより通告だった。巧みに取っ手から俺の指を引き剥がしてもぎ取る。
 持ち替えて左手に保持した。荒木自身の鞄は背負う方式になっているから両手フリーなのだ。
 ランドセルじみて余計に幼く見えるってことは、言わない方がいいんだろうな。
「あっ、こんなところに先輩の空いた手が。僭越ながら握らせていただきます」
 わざとらしい言い草とともにギュッとしてきた。小さな手だ。しかも白くてすべすべ。
 俺のと対比してみるとそのへんがいっそう際立つ。胡桃とはまた違った心地良さだ。
 あ、ヤバ、ちょっとドキドキする……
「よ・お・く・ん?」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ! 軋むっ、軋んでるっ、骨がっ!」
 絵に描いたような嫉妬っぷりだなぁ、おい! 顔は笑ってるけど目が笑ってないし口角引き攣ってるし
 食虫花さんもプンスカ湯気を発してるぞ。えらくコミカルな隠喩だ。
 そろそろこいつに名前つけたくなってきた。
「綾瀬さん、そういう怒り方はみっともないと思いますよ」
 猫系のスマイルを浮かべながら荒木が嘯く。しかし、こいつもこいつでギュウッときつく握ってきてる。
おいおい、実はお前も内心胡桃と一緒なんだろ……蔦の絡まり方が尋常じゃないぜ。
 なんかもう、他人事ならげらげら笑って指をさしたくなる情景だった。
「あはっ。ねえ荒木さん、さっさとよーくんから手を離してちょうだい?
 よーくんの手、汚れるじゃない」
「ふふ。お断りです。あなたが離したらどうですか。先輩、歩きにくそうですよ」
 それぞれ、自分が優位であることを示そうとする威嚇的笑声を交わす。
「えっとな、両方離してくれるとありがたいんだがな」
 提案にいらえはない。
 隠喩が消えている──どうやら本格的な睨み合いに発展してきたらしい。
 ふたりに挟まれながらふたりに無視される形となった俺。
 それは蔦や食虫花からも解放される、奇妙な安息だった。
「げええ、洋平が本妻と愛人を並べて仲良くおてて繋いでる!」
「なんてことだ、3Pへの黄金フラグか!?」
「いかん、このままでは洋平のハーレムが建立されてしまう……!」
 安息はすぐに掻き乱された。通学路なのだ。登校時間なのだ。人目はある。
 注目されるのは当たり前だった。
 ああ、もう、どうしよう。

 そうだ。
 諦めよう。

 即座に無の境地へ達することができた俺は我ながら見事なヘタレだった。
 「そばに女の子たちがいなかったら石を投げてやるのに」
 という目で睨めつけて来る男子のことごとくをスルー。
 下足場まで来ればもうゴールだ。胡桃とはクラスが違う。荒木とは学年からして違う。
 手を離した二人は残された僅かな時間を使ってガンをつけ合い、
 最後に何か語りかけるような目をして去る。
 ようやく、平穏な朝が訪れた。
 すぐに級友たちに囲まれてボコボコにされたり詰問されたりする儚い平穏だったが。

 心休まるのは授業中だけ。高校生は「勉強なんてやってられるか」とほざくのが本分なのに泣ける話だ。
 休憩時間に入るとすかさず胡桃が乗り込んでくる。少し遅れて荒木も。
 距離と足の短さが反映されてるのか。
 ふたりはがっちりと俺の両脇を固め、互いに微笑みと毒の利いた言葉で牽制し合い、
 たっぷりと睨み合ってからチャイムの音で帰っていく。
 ちゃんと押しかけないと相手に抜け駆けされるとでも思っているように、
 毎時間毎時間律儀に同じことを繰り返すのだ。俺は恐怖のサンドイッチに心臓が縮こまって
「あ……その……」「う……えと……」など言葉を濁すしかない。ヘタレ人形だった。
 級友たちの好奇心と嫉妬心も最高潮だ。二人が帰ってから授業が始まるまで、ほんの一分足らずの間に
 俺に罵詈雑言を投げかけたり制裁を加えたりと忙しない。おかげで心と体がボロボロだ。
 世界中が敵になったと誇大妄想に陥っているうち、昼休憩がやってくる。
 およそ学校生活において誰もが待ち詫びるオアシスの時は、しかし俺には殺伐たるラブコメ地獄だった。
 三組側の戸から胡桃が。階段側の戸から荒木が。僅かな時間差でやってくる。
 ふたりとも、お弁当を二つ持って。花と蔦が嵐をスパークさせながら。
「小学校の頃から食べ慣れた味だもんね、『幼馴染みの味』だからね、当然わたしの方を取るよね?
 薄汚い雌狐の何を材料にしたか分かんないよーなごはんもどきはゴミ箱にポイしてさ?」
「小学校からじゃいい加減食べ飽きてますよね? 波風立たないよう仕方なく口にしてるだけですよね?
 そんな腐れ縁の糸引き飯よりかは拙作の弁当がまだマシであると断固謙遜いたします」
 隠喩じゃなく表現として火花が散る争いの後に突き出される二つの弁当箱を「どっちも美味しいから」
 とフォローしつつ食す俺は、なるほど男子たちの「殺したい」「代わりたい」
 という杭の視線を向けられるに足るどっちつかずの態度だった。
 どちらを優遇することもなく、答えをはぐらかす。余計に事態がねじれていくばかりで
 収束する気配がない。無論、この事態を楽しんでいるわけではない。
 可愛い女の子に囲まれるなんてウハウハだなぁ、なんてことは、まったくとは言えないが
 それほど感じていない。心痛と胃痛に苛まれて食欲も減るばかりだ。
 要するに、どちらかを選ばなければならない。荒木が言った通りの二択めいた状況。これだけ好意を
 受け取っておいて「やっぱどっちとも付き合わない」と切り出すのは
 当人も周りも納得しない雰囲気が築かれてきた。
 数年来の幼馴染みを取るか、知り合って二ヶ月足らずの下級生を取るか。
 もし「両方くれ」と言ったら包丁を二本、腹にもらうことになるだろう。
 天邪鬼な抜け道としては「第三者を取る」って手もあるが、これだと騒ぎが拡大するだけか。
 いや、そもそも第三者に当たる子なんていないけどさ……いないよな?
 のらりくらりと答えをはぐらかしていられるのも今だけだ。やがて決断を迫られる日が来る。
 そのとき、俺はどっちを選ぶのか……
 はっきり言って、全然目算が立っていなかった。俺は女子に欲情したことがあっても、
 恋心を抱いたことなんて一度もない。胡桃に付きまとわれながらも、
 男女交際なんて異次元の行為だと思っていた。
 告白すれば俺は胡桃を異性として強烈に意識した時期がある。
 覚えたてのオナニーに夢中になっていた中坊の頃、いつだって脳裡に思い描くのは
 あいつの裸体だった。中学に上がってからも仲良くやっていた俺らだが、
 冗談めかしてヘッドロックを仕掛けた日の夜に胡桃の髪から伝わってきた匂いを思い出して
 自慰に耽った。膨らみ始めた胸をチラチラ横目にして、何度あいつの風呂を覗きに行きたいと
 悶々としたことか。ヤりたいって頭下げたら、案外簡単にヤらせてくれるんじゃないか、
 と思い詰めたこともあった。
 性欲を持て余しながらも踏み切れずにいた理由の一つは、胡桃の異常なまでの嫉妬深さや執着心。
 一線を越えてしまえば二度と後戻りできなくなると直感していた。
 もう一つは、あいつの胸に揺れる隠喩──毒々しくてケバい色合いの花を、それでも自分の欲望で
 踏み躙りたくはなかったのだ。むしろ、かつて咲いていた野の花の白さを取り戻したかった。
 あまりにも困難で、どんな手を使えばいいのかもよく分かりはしないのだけれど。
 ひょっとすると俺は、失われたあの花にこそ恋をしかけていたのかもしれないから。

 荒木に関しては特に性欲を覚えない。そっちの趣味はない。
 ただ、下級生の女の子としては可愛いと思っている。できれば恋だの愛だのといった事柄が絡まない
 仲で適度な距離を保って付き合いたかった。そうしているうちに俺の感情が変化して、もしかしたら
 荒木に気持ちが傾くこともあったかもしれないが、今となっては虚しい推測でしかない。
 だから荒木にはどうあれ断りの返答をすることになるだろう。けど、そのタイミングを計るのが難しい。
 今の三角関係は「どっちかを選ぶ」ことが大前提になっているので荒木をさっくりフったら
「じゃあ綾瀬さんと付き合うんだな」って言われて結論を急がれることになる。
「もうちょっと考えさせて欲しい」と申し出ても胡桃が聞き分けてくれるかどうか。
 そうならないための時間稼ぎとして、荒木への返答は先送りにする。
 下手な対応をすれば胡桃と荒木、今は侍らせているかに見える二人を一気に両方失いかねない。
 ──俺の本音を腑分けすると、行き着く先にあるのはそこだった。
 つまり、俺は恋愛云々なんてよく分からなくて。
 以前の、胡桃がいて図書館に行けば荒木と会える状態をなるべく取り戻したいだけなんだ。
 虫が良すぎる。分かっている。そんな自分に折り合うためにも、今は時間が必要だった。

「……なんてことを考えるうちに放課後だ」
 今日の授業は終わっていた。周りに妬まれるほどの少女二名に心を決めかねて、無為に時間が過ぎた。
 ふと思う。本当に時間は必要なのだろうか。俺はただ逃げてるだけで、
 結論なんて一秒で出せるような性質なのではないか。
 さっさと胡桃と付き合うなり荒木と付き合うなり、サイコロでも振ってケリをつけてしまえば早い。
 一天地六、賽の目に運を任せるのも人生だろう。
 まあ、そんな都合良くダイスなんて持ってないけど。時間を稼ぐことばかり考えててもいけないし、
ここは順当に誰かに相談でもするかな。
「……というわけで数年来の幼馴染みか知り合って二ヶ月足らずの下級生を選ばなくちゃならんのだが」
「死ね」
 非常に簡潔な返事をおっしゃる。
「いや、こう、なるべく生きる方向で発言を増やしてくれるとだな、」
「死んでしまえ」
 増えたが内容は一緒だった。
 図書館の奥まった席に座り、図書委員の中でも特に親しい男子をつかまえて相談を持ちかけたら
 この体たらく。 あてが外れてしまった。
「我らが図書委員のアイドルにして金のふわふわ髪を持つ現ロリ神と、全学年男子に『えてしがな』と
 言わしめる嫁カーストの最高位にして煩悩無限生産な肢体を持つ女子を秤にかける行為自体が
 貴様の如きヘタレ愚凡には万死に値する。考えるだけ無駄につき今すぐそこから飛び降りろ。
 お前は死ぬかもしれんが、少なくとも世界はちょっとだけ平和になるぞ」
 と、マジな目をしながら窓を指す。隠喩はゴム紐……バンジージャンプか?
 本当に死んでほしいとは思っていないが、「飛び降りろ」という言葉に篭もった怒りは本物らしい。
 ホッとしていいのか、嘆くべきなのか。なんであれ参考にはならなかった。図書館を辞し、帰路に就く。

「よーくん、今帰り? 奇遇だね、わたしもなんだー」
 あっという間に捕捉されて手を繋がれた。本当に、こいつはどこかで俺を見張っているのか?
 付き合ってない段階でこれなんだから、いざ彼氏彼女の関係になったらって考えるとゾッとする。
 どれだけ拘束が厳しくなるか、想像もつかない。最悪、高校を出たら「同棲」と称して部屋に飼われる
 ハメになるかも。こう、首輪とか付けられたりして……いや、さすがにそれはギャグか。ははは。
「よーくんってチョーカーとか似合うかもね! 今度買ってみない?」
 散歩なのか、飼い主に引っ張られていく犬の首元あたりをにこにこしながら見てそう聞く胡桃に対し、
 ちょっと笑いが渇き始めたが、い、いや、まだギャグの範疇だよな。
 隠喩に座敷牢が視えたのは気のせいだろう、きっと。
 きっとね。


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