沃野 Act.6
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「道を開けろ……! 本妻の出頭(おでまし)だ!」
「来たか、全クラスに勇名を轟かせる最強の世話女房!」
「現代に甦った那須与一!」
「浮気者は射殺すまでッ!!」
「見せてくれ、『情けなし』の心!」
「──二年三組、弓道部所属、綾瀬胡桃さん!」
「おおお──!」
 相変わらずこのクラスの方々は騒がしいことこの上ありません。
 当の綾瀬先輩は自分の名前を呼ばれたのも耳に入らないようで、
 奇妙に強張った笑みを顔に貼り付かせて立っています。
 手を握られたことがそんなにショックだったんでしょうか。たかだか手ぐらいで。
 ふふ、ショックですよね……私だってあなたと先輩が手を繋いでるの見たとき、結構キましたもの。
 きっと今、私の手首を切り落としたいとか思ってますよね。あははっ。
「く、くるみ……これ、は……その……」
 喉をひくつかせて呻く先輩。なんだか本当に浮気が見つかった亭主みたいです。
 むー。不満です。納得いきません。
 彼氏でもなんでもないんなら、もっと毅然とした態度を取ってほしいところですよ。
「よーくん、」
 つかつかと歩み寄ってきます。私と違って背が高いので迫力ありありです。
 なにげない手つきで髪を掻き上げましたが、指先が僅かに震えているのを
 動体視力のいい私は見逃しません。
 手にはお弁当袋があります。自分のに加え、先輩のも用意してきたんでしょう。
 と。いきなりでした。

 ゴッ

 私の腕を殴りつけたのです。肘のあたりを、こう、無造作にスイングした拳で。
 ジーンと痺れます。
 思わず力が抜けて離してしまった手──蠅でも叩くみたいに押しのけて、体を割り込ませました。
「おべんと、食べよ?」
 にっこり笑って先輩に向かい、私の方はアウト・オブ・サイト。
 存在を強制的に無視されてしまいました。いやはや。これは難敵ですね。
 でもこれしきで引く気はありません。逆襲してやります。
「先輩、一つお聞きしたいのですが」
「えっ?」
 彼はまだ混乱から立ち直っていない模様。
 一気にカタをつける必要がありそうです。畳み掛けましょう。
「綾瀬さんは、先輩の幼馴染みであって──別に恋人ではありませんよね?」
 ひくり。肘叩き女は片っぽの頬を痙攣させました。
 ここで否定されたら彼女は立つ瀬がなくなる……のですが、
「う……えーと……その……」
 先輩は言葉を濁すばかりで答えようとしませんでした。
 目から「恋人って言いなさい」ビームを放つ綾瀬胡桃の威容に恐れをなしたのでしょうか。
 む。あれだけ鈍い先輩ならズバッと確言するって思っていたのにあてが外れちゃいました。
 まあいいです。気長に攻めましょう。
 勝算はゼロじゃありませんし。
 何はともあれ今は。
「──お昼、ご一緒させてもらえませんか?」
 チャンスに食いつくのみ。

 かくしてギスギスした昼食会に出席することと相成りました。
 綾瀬胡桃の放つオーラが重いです。「あっち行け」系の圧力を無言でのしかけてきます。
 それでも先輩の心は離したくないからか、顔は懸命に装ってにこやかな表情を浮かべています。
 よっぽどつくり笑い慣れしてるんでしょう。倒すべき牝犬ながら、尻尾振りにかける情熱は見事だと
感心させられます。お爺さんの時計並みに何年も休まずパタパタと振り続けてきたに違いありません。
 ご苦労様です。もうすぐ千切ってあげますからね、その尻尾。
「でね、よーくん、さっきの休憩時間に梓が緑茶噴いちゃって……」
 巧みに私の存在を無視しつつ雑談を披露する牝犬。
 私は黙々と食事。今ここで先輩に話しかけても、牝犬に妨害されるのがオチです。時間の無駄。
 仕掛けるのはもう少し先です。
 そろそろ。そろそろ来る頃ですよ……。
「よーくん」
「ん?」
「はい、あ〜ん」
 出ました! ダダ甘幼馴染み流必殺の型、「食べさせてあげる」の構え!
 左手を添え、おかずをグリップした箸を周りの目も気にせず悠然と突き出しています。
 この態勢から繰り出される一撃はあらゆる殿方を骨抜きにし、ことごとく幼児化せしめる威力を持つとか。
 口を半開きにして「あ〜ん」とかほざく女は同性から見ればキモいだけですが、異性には違うみたいです。
 というかこの女、相当「あ〜ん」慣れしてますね……口の半開き具合が絶妙ですよ。
「う……あ〜ん」
 逆らっても無駄だと学習している先輩は素直に従っています。
 親鳥から餌を受ける雛のように口を開けて。
 ああっ……悔しいっ。起こると分かってても間近で見ると毛が逆立ちそうになりますよ、これ!
 周りにどんなに人がいても構わずふたりだけのラブ時空──
 衆人環視の密室をつくりだす威力は傍から眺めてると「おへえ」とか呻きたくなります。
 脳がムズムズする感じで、目の裏が痒くなってきます。
 ぐぐぐ。牝犬め、毎日毎日来る日も来る日もこんな不埒の悪行三昧に及んでいたとは。
 即座に予定を変更して彼女のお弁当を引っ掴み、窓の向こうへダイブさせたくなりました。
 我慢……ここは我慢の子ですよ、麻耶! あなたは我慢のできる人です! 耐えよ!!
 己に言い聞かせて必死に自制をかけます。傍らで行われるおぞましい儀式からも目を背けません。
 既に彼女が使って唾液が付着している箸を、先輩の唇に触れるよう動かされても我慢。
 先輩の伸ばした舌がねっとりと箸や具材に絡みつくのを傍観させられても我慢。
 そもそもお弁当自体があの女のつくったもので、材料に腐れた愛情が混じっている件も我慢。
 綾瀬胡桃が勝ち誇ったような視線をこちらに投げて含み笑いするのにも我慢──
 すみません、やっぱり屠殺していいですか、この牝犬?
「どう? おいしい、よーくん?」
「あー、塩加減がちょうどいいな、うん」
 にこっ。照れっ。阿吽の呼吸で遣り取りされる常習犯スマイル&はにかみ。
 がああ……っ! 腸が煮えくり返るとはこのことですか……っ!
 無理、もう無理! これ以上は耐えられません! 反撃の狼煙を上げさせていただきます!
「せ、せんぱいっ!」
「な、何?」
 いけません、緊張と憎悪でつい声が裏返ってしまいました。
 コホン、と一つ空咳をしてから。
「……はい、あ、あ〜ん……」
 やられたんだからやり返します。私も先輩に食べさせてあげるのです。
 座高でも差がありますから、ちょっと腰を浮かせていますよ。手もプルプルですよ。
 恥ずかしいせいで口も半開きどころか四分の一開きですよ。
 ええきっと傍から見れば不恰好で無様ですよ。
 でも私だって必死なんです。必死になってる乙女を笑わないでいただきたい。
 摘むは丹精を込めてつくりあげた、彩りも鮮やかな塩茹でブロッコリー。
 今、先輩の口元へ参ります……!

 と見せたのはフェイントですよ、綾瀬胡桃!
「…………ッ!!」
 一瞬物凄い形相を覗かせた牝犬めが机の下から蹴りつけてきます。
 はははっ、引っ掛かりましたね、罠とも知らず!
 あらかじめ読んでいた私は難なく避けます。
「あっ!?」
 そしてバランスを崩したかのようにフラついてみせるわけです。
 少しだけ持ちこたえるフリをしてから先輩めがけて倒れ込みます。
 ここで先輩が避けたりしたら私はただのイタい子というか椅子に激突して痛い目見る子になりますが、
 先輩は避けません。これには確信があります。はじめから分かっていて賭けたのです。
「わっ……荒木!」
 ほうら、狙い通りに腕の中へぽすん、です。
 このときばかりは小さくて軽くて受け止めやすい我が身を幸いに思うことしきりでございます。
 一連の所作においてもグリップしたブロッコリーを取りこぼさなかったのは執念の為せる技。
 抱き止められ、見上げる形になった私はすかさず箸を先輩の口に向け、食べてもらいます。
「どうですか?」
「もぐっ……ああ、これも塩加減がなかなか……ハッ!?」
 殺意が篭もった視線に気づいて振り返る先輩。
 綾瀬胡桃は慌てて嫉妬まみれの表情を消しますが、一瞬チラッと見えたはずです。
 ふふ、先輩、あれがあの女の本性ですよ。付き合うには重過ぎる奴って分かりますよね。ふふ。
 今度は私が勝ち誇る番です。お箸を持ったまま先輩の腰に腕を回しギュッと抱きつきます。
 鼻孔に伝わってくる汗の混じった匂い。これが先輩の体臭──嗅覚に刻み込みました。
 容姿のせいか「気紛れな猫」と言われたりする私ですが、むしろ心性は犬に近いと自覚しています。
 匂いには敏感なんです。今後はこの匂いを「ご主人様」と認識して帰巣する所存にございます。
 こっそりしたつもりでしたが鼻をスンスンさせている私の仕草に綾瀬胡桃は気づいた模様です。
 敵もさる犬。「匂い」に関しては鋭敏なんでしょう。マーキングされることも警戒してるはずです。
「よーくん……ちょっと、聞いてくれるかな」
 いよいよ腹に据えかねたのか、彼女は重々しい口振りになりました。
 ゴクリと喉を動かす先輩。周りの方々も固唾を呑んで見守っています。

「わたしね、よーくんのことが──好き」

「愛してる。ずっと、ずうっと昔から。口にするのは初めてだけど、気持ちは最初からあったよ」

「だから、ね。お願い。早くその目障りな子をフッてくれないかな──?」

 ああ……言っちゃいましたね。
 いいんですか、綾瀬さん。覆せませんよ。
 あなたがそれなりに大切に思っているかもしれない、幼馴染みとしての距離。
 二度と取り戻せないのかもしれませんよ……?

 脱幼馴染みを目指す牝犬から宣戦布告が為されてより七時間後。
 夕食も終わって寛いでいるところです。
 遂にあの女との全面戦争が始まったとなると気持ちもそわそわしがちですが、
 適度な弛緩もなければ勝ち抜けません。気を張るばかりがすべてではない。
 肩の力を抜いたまま携帯を取り出し、先輩の番号へ掛けます。既に短縮に登録済。
 でも掛けるのはこれが初めて。先輩の方には見知らぬ番号が表示されているはず。
 名乗らなくては、と思うのにドキドキして第一声がなかなか出ません。初TELって緊張しますねー。
『……荒木か?』
「な、なんで分かったんですっ!?」
『蔦が……いやなんでもない』
「はぁ」
 なんか別の意味でドキドキしました。
『ていうか、なんでお前が俺の番号知ってるんだよ?』
「秘密です」
『えっ、秘密?』
「はい」
『秘密って、え?』
「秘密です」
 断固として口を割るつもりはありません。
『まあいいや……で、どうしたんだ』
「単刀直入に言うとですね、私の告白の返事を延ばしていただきたいんです」
『延ばすって、なんでまた』
「牝い……コホン、綾瀬胡桃さんまで告白したせいで事態がもつれているからです。
仮に先輩が私を受け入れてくれたとしても今の段階で彼女が聞き分けてくれるとも思えません。
必ず荒れます。既に荒れ気味ですが、もっと荒れること請け合いです。
少し時間を置いて私たちの気持ちが整理できるまで保留すべきでしょう。
でないとこの三角関係は血を見ることになりかねません」
『あのな、荒木。気を持たせないように言っておくが、俺はお前のこと……』
「先輩に恋愛感情がないのは承知してます。でもですね、考えてみてください。現在の状況はほぼ二択に
なっているんです。つまり、先輩が私をフッたら自動的に綾瀬さんと付き合うことになりますね。
『あの子を捨てたってことはわたしを選んでくれるのね! 嬉しい……!』
って彼女は絶対に言ってきますよ」
 これまでは想いを口にしなかったので曖昧な関係でもすんだわけです。
 しかし、一度明言してしまったからには彼女も後に引けません。吐いた唾は飲めないのです。
 そう仕向けることが私にとって、か細い勝機を掴むことに繋がる──
「私を選べとは言いません。先輩に考える時間をつくってほしいだけです。
私をフッたせいでなし崩しに綾瀬さんと付き合うことになるとか、
そうした流れにはなってほしくありません。消去法ではなく、あくまで先輩が自分で考えて
どちらを選ぶか決断する、そのための猶予として返事を保留していただきたい」
 逡巡の時間は一分とかかりませんでした。今日のこともあったからでしょうか。
 彼も、綾瀬胡桃には危惧すべきところがあると分かったみたいです。
『……分かった。それでいいんだな』
「ええ」
 二、三言交わした後、通話を切りました。途端に静寂が身を包みます。
 なんて淋しいんでしょう……先輩の声が聞こえなくなっただけで、こんなにも。
 ふふ、強く持とう、強く持とうと願っていても、剥き出しの心は脆いみたいですね。
 私は強くありません、ちっとも強くありません、強いフリをしていただけです、痛感せざるをえません。
 一人だけの体温がひどく心細いです。殻を脱いでしまったせいか寒さが芯まで沁みてきます。

 せんぱい。はやく、あなたが私の殻になってください──

 情けない欲求と、それを許そうとする憐憫の中で、静かに頬を濡らしました。
 私はこの弱さを肯定し、強さに変えられるまで、負けるつもりはありません。
 たとえ相手があの綾瀬胡桃であっても。吐いた唾が飲めないのは私もです。
 一度孵化してしまったからには。
 殻の中へ戻ることなどできません。


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