ブラッド・フォース 第3回
[bottom]

 カチ

 カチ

 それは歯の噛み鳴る音。ほんの一瞬だけ歪な半月を描く唇。最愛の幼馴染でさえ知らないシグナル。
 折原千早という女の、それはスイッチだった。

 

 

 帰りのHRが終わると、千早は一緒に帰ろうと言うために一目散に智の席へ駆ける。
 教科書を鞄へ片付けるのは後回しだ。
 例え一緒に帰るのが10年来の決まりごとだったとしても、千早は必ずこうして誘いをかける。
 一々言わなくても一緒に帰るのにと智は言うが、『ちゃんと形式を取るのは大切なことなの』と
 千早は返している。

 そう、形式は大切だ。最早限りなく夫婦に近い自分たちだけど、言わずとも互いの気持ちは
 分かりきっている自分たちだけど。
 ちゃんと改まって「好きだ」と言って欲しいのが千早の気持ちだ。受け止める用意は
 いつだって出来ているのだから。
 それに、この帰りの誘いは今や決定事項の確認とは限らなくなってしまった。
 あの暗い――を通り越して、邪悪とさえ言える気配を纏った女の所為で。
 カチカチという音を鳴らす頻度が、この数ヶ月で異常なまでに上がっている。

「智ちゃん、一緒に帰ろっ」
「悪い千早、今日も部活なんだ」

 カチ

「また・・・? ここのところ毎日だよね。以前はそんなことなかったのに・・・」
 そう。正式に所属しているわけではないものの、智はオカルト研究会に参加している。
 大抵週に1回か2回、多くて3回というところだ。
 本人曰く「巷のインチキなオカルト番組の100倍は面白い」ということだが、
 千早にとっては共に居られる時間を害する、悪魔の誘いでしかない。
 最初は、当然のように千早も共に行こうとしたのだが、
『先輩が秘密厳守っていうんだ。ごめんな』と智に申し訳なさそうに謝られては、
 引き下がらざるを得なかった。

 悪魔の名前は神川藍香。様々な風聞を持つ先輩だが、千早の認識は悪魔の一言だ。
 それも比喩ではなく、文字通りの意味で。
 霊感があるなどというつもりはない。だが、その女とすれ違った時に千早は恐怖を感じたのだ。
 人間を害する存在に抱く、本能的な警戒心や敵愾心を。
 その悪魔が、大事な智に目を付けた。それも、智を堕落させようとする淫瘍な空気を纏って。
 他の誰も気づいてないようだが、自分の目だけは誤魔化せない。

「どうしても! いいから先に帰ってろ! じゃあな!」

 カチリ

 智ちゃんが怒鳴った。怒鳴られたのは初めてじゃない。
 でも、智ちゃんはこんな理不尽な怒鳴り方は絶対にしない。
 あんな風に目を逸らして逃げるように去っていくことは、絶対にしない。
 智ちゃんは取り込まれようとしているのだろうか。魔に魅入られてしまったのだろうか。
 私の智ちゃんが、私を残してどこかに行ってしまうなどあり得ない。
 あの悪魔が――人に仇なす淫魔が、智ちゃんの心を蝕んでいるんだ。

 カチ カチ カチ 

 助けなきゃ、智ちゃんを。唯一無二の、パートナーとして。

 

 千早の歯鳴らしの癖は、周囲の誰も知らないものである上、千早自身意識して
 行っているものではない。
 この行為が初めて為されたのは小学校3年生、8歳の時。体育でケガをした
 クラスメートの女子に智が手当てをしているところを見た時だ。

「あんっ・・・!」
「ごっ、ごめん・・・。その、くすぐったかった?」
「う、うん、ちょっと。でもイヤなわけじゃないから。続けて、高村くん」

 ・・・カチ

 保健の先生がいない時だったのだが、保健委員だった智は見よう見まねでその女子の膝を洗い、
 消毒をした。その時の、太股に触られていることに頬を赤らめる少女と、
 同じく頬を赤らめながらも必死に意識していないふりをして手当てに集中する
 少年の姿を見た瞬間、千早の唇は笑みの形に歪み、歯が本人にしか聞こえない音で
 カチリと鳴り響いたのだ。
 それは、恐ろしく早い覚醒を迎えた『女の嫉妬』だった。

 元々、千早は智が自分以外の女の子と話すことにとても焼きもちを焼く少女だった。
 しかしそれは、飼い主に構ってもらえない犬のような、弟妹が生まれたため
 親に構ってもらえない姉のようなものであり、ストレートな感情の発露だった。
『智ちゃん、他の女の子となかよくしちゃやだぁ〜!』と子供じみた癇癪を起こして
 幼馴染に纏わり付く様は、周囲をして「わんこ」の通称を戴かせたほどだ。
 だがその時の千早はただ見ているだけだった。ユラァ、と唇を歪め、
 カチカチカチカチと加速度的に増して行く歯鳴らしの音は、
 真冬の風に凍えているのかと思わせるほど。
 そして、見開かれた目は瞬き一つしない。まるで、目の前の光景を一瞬たりとも逃すことなく
 その網膜に焼き付けんというばかりに。
 30秒ほどして智たちはようやく千早に気づいたのだが、その時にはいつも通りの千早がいた。
 笑みは自然な流線型を取り、歯が鳴っていることも当然ない。
『ケガは大丈夫?』と小走りで二人の下へ近づいていった。
 平気だよとか気をつけろよと笑いあう少年少女の姿は、どう見ても仲の良い
 クラスメートの談笑だった。

 ・・・その数日後、膝に絆創膏を貼った三年生の少女が、階段で足を滑らせて転倒、
 数ヶ月入院するほどの重傷を負ったのはまた別の話である。

 

 普段から智を目で追っている千早なので、歯鳴らしの癖が嫉妬心の発露だと自覚するのは早かった。
 ふと我に返って歯が鳴っているのに気づいた時、視線の先には智がクラスの女子と
 話している光景があったからだ。音が鳴るたびに泥が肺に堆積していくような感覚に陥り、
 吐き気さえ催すようにさえなった。
 そして、そんな思わず顔を歪めたくなるような苦しさを訴える内面とは裏腹に、
 虚ろな笑みを浮かべた表情は、口元の笑みの曲線を不自然なまでに深くしていくのだ。
 泥の堆積は堤防の決壊に似ていた。溜まりに溜まった鬱屈は、
 いつか暴発して全てを押し流してしまうかもしれない。

 しかし、堤防が崩れることはなかった。千早にとってそうであるように、
 智にとっても千早以上に大切な存在がなかったから。
 向けられる声、笑顔。触れる指先、抱く腕―――その全ては千早のものだったからだ。
 智が友人の一人、クラスメートの一人ではなく、特定の個人を意識してそれらを向けるのは
 千早が唯一の存在だった。
 積み重なる泥濘全てを覆い隠すほどの愛情に包まれて育った少女は、故に自覚していない。
 己の中の独占欲がどれほど肥大化しているかを。
 満たされることに慣れきった心がどれほど脆いかを。

 堆積した泥は、隠されることはあっても無くなることはない。今や天高く積みあがったそれは、
 智の更なる愛情を求めて決壊を必死に耐えていた。


[top] [Back][list][Next: ブラッド・フォース 第4回]

ブラッド・フォース 第3回 inserted by FC2 system