恋と盲目 第1回
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「も〜い〜かい?」
コンクリートに額を押し付けながら、一人の男の子が大きな声でそう呼んだ。
これは夢だ、そして一生忘れてはならない記憶だ。
私は……小学生低学年の私はその子のすぐ後ろで息を殺し身構えていた。
毎年夏休みになると遠い田舎からやって来る従兄弟の男の子。
それは恋と呼ぶにはあまりにも未熟すぎる感情だったが、それでもこの子と一緒に居ると
楽しいと感じていたのは覚えている。
いつまで経っても返事が無い事を知ると、その男の子はゆっくりと振り返り始めた……
その先に何が待っているのかを知らずに。
私は知っている、この先に何が待っているのかを。
何度も思い出した、何度も泣いた、何度も後悔した、何度も苦しんだ。
もしも一生に一度だけタイムワープができるのなら、私は迷わずこの瞬間に来るだろう。
そんな私の思いとは裏腹に、私は静かに腰を落とす。
隠れているとみせかけ、振り向いた瞬間に飛びついて驚かせようという魂胆である。
「……っえ!?」
飛んだ……いや、跳躍した……
全てがスローモーションの様に感じる、この記憶が蘇る時はいつもこうだ。
そして飛びついた……そして男の子はバランスを崩し……
 ゴッ……
鈍い音を感じた、何か硬い物同士がぶつかりあったような音だ。
何の音かはわかっている、男の子の後頭部がコンクリートに強くぶつかった音だ。
見える物は紅、まるで壁に紅い華でも咲いたかのような鮮やかな色彩。
触れる物は腕、一瞬にしてその動きを止め、ただ大地に向かって伸びる腕。
その子の瞳は、ただ虚空を見つめていた。
「きゃあああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!!」
私は叫んだ、何もわからずに。
何もわからないからこそ、その恐怖に怯え叫んだ。
私は死という概念を理解してはいなかった。
それでも本能からか直感からか、私はその子が二度と動かなくなると感じていた。

 ジリリリリリリリ……
「う……ん……」
 ……ガチャッ
「タダイマ、6ガツ5ニチ6ジ01フン、デス」
間の抜けた電子音声が聞こえる。
目覚まし時計のボタンを押すたびに聞こえるこの電子音、もう何年聞き続けた事だろう。
吐き気がする……最悪の目覚めだ。
無理もないか、あんな嫌な夢を見たんだ。
最近は段々と見る頻度が減ってきたんだけど……見た後の嫌悪感は何度見ても慣れる事はない。
ふと隣に目をやる、誰も居ない。
いつもなら私が起こすまですやすやと寝息をたてている人物が居るのだが、
今日は掛け布団だけが目に入った。
どこだろう……まだくらくらする頭であの人の姿を求める。
寝室には居ない、居間かな?
ぼやけた視界で襖を探し、開ける。
……居た。
「緑かい?」
私の最愛の人は、ただ虚空を見つめながらソファーに座っていた。
「他に誰が居るのよ」
おぼつかない思考でなんとかそれだけ答える。
「ああ、そうだったね」
そういいながら優しく微笑んだ。
……視線を虚空に向けたまま。
「もしかして、昨日からずっと起きてたの?」
「まあね、気になって寝付けなかったよ」
「呆れた……」
この人は昔からいつもそうだった、宿題だとか約束だとかが残っていると
翌日はたいてい寝不足になる。
気持ちはわかるけど、できれば休める時に休んでほしいとは思う。
「だが、そのかいはあったよ」
そんな思考も一瞬にして途切れる。
「それじゃあ、もしかして……」
昨日の日付、そしてこの人の表情から察するに、私の予感が正しければ……
「ついさっき連絡があったよ。大賞は逃したけどね、審査員特別賞が正式に決まったよ」
あの日からもう15年。
私の最愛の人、私の従兄弟の男の子だった人は、現在小説家をやっている。


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