雪桜の舞う時に 第8回
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 虎から解放されてから、幾つかの月日が流れた。
 瑠依との関係は今まで通りに晩飯を食べに来る程度で曖昧な関係はすでに終わっている。
 そのせいか、ここ最近は家に食べに来る日数が極端に減っている。
 この前は1週間に4日来ていたのに、今となっては週に一回ぐらいしか
 俺の家に訪れないようになった。
 少し寂しいような気もするが仕方ないことだ。俺がいつまでも瑠依の傍にいることはできない。

 もし、彼氏とかできれば何もかも今まで通りにやっていけないので、
 俺達の近すぎて遠い関係はいつ破綻するのかわからないあやふな物だったということだ。
 雪桜さんとの関係は恋人未満友人の関係が続いている。
 付き合っているとか交際したとこまでは進展してはいない。
 別にそういう訳で雪桜さんに近付こうとは考えたことがなかった。
 昼休みに俺の特製のお弁当をご馳走したり、放課後には一緒に商店街やゲームセンタとかに
 寄っている。

 ただ、それだけだ。
 でも、雪桜さんは出会った当時に比べて、とても明るくなった。
 以前のような陰気な少女を思わせるな雰囲気が見事に消え去っている。
 これも頑張って俺がお弁当を作って、栄養を付けたおかげかな。
 そんな去年と変わった日常を過ごして、季節は7月を迎える。

 期末テストという悪夢のような期間を無事に通り過ごして俺はようやく安堵の息をつく。
 補習で夏休みを無駄にするってのはできる勘弁したいものだ。
「とりあえず、礼を言っておくぜ内山田」
「あはっはははっっ。愛するつよちゃんのためなら、学校に忍び込んでテスト用紙を盗むぐらい
 朝飯前だよ」
 友人である内山田は可愛い仕草で微笑する。窃盗発言を教室で高らかに叫んでいても、
 他のクラスメイト達は別に驚かないだろう。
 その事を尋ねる勇気も持たないのだから仕方ない。

「これで担任のお見合いを成功させる秘訣っていうわけわからんレポートを
 出す必要がなくなるからな」
「本当だよね。今、黒岩先生の見合いが連敗新記録を樹立しているおかげで株も安定しているけど、
 いい加減にあきらめて出家したらいいのに」
「いやいや。黒岩先生の事だから、しっとマスクの仮面を被ってカップルを妨害する
 偉大な人間になっているかもしれないぞ」
「あはははあっ。そんなことになったら、黒岩先生が何組のカップルを破綻させるのかが
 賭けの対象になっちゃうよ」

 まあ、実際にそんな事になったら、こいつは喜んで黒岩先生に校内のカップルの情報を
 躊躇なく売り渡すんだろうな。
 この腹黒女男めっ。

「でも、先のことを考えて黒岩先生が変貌するまえに手を打っておく必要があるわね。
 例えば、わたしとつよちゃんが今期最高のカップルだと学校中に広めて、
 黒岩先生の様子を見れば、わたしたちのことをうらやましそうに見ているなら。
 コンディション・レッド発令!。対モビルスーツ戦闘。パイロットはただちにコクピットに
 待機してください。って感じ?」
「あの誰と誰がカップルって?」
「嫌だな。わたしとつよちゃんに決まっているじゃない」
「なんやてっっ!!」
「瑠依ちゃんには悪いけど、すでに結婚式場は予約しているの」

 この女男は今ここで始末したほうが世の中のためになるかもしれん。

「さてと、わたしはウェディングドレスを買いにいくから先に帰るね」
「とっと、帰ってくださいお願いします」

 立ち去る内山田に一言。
 男がウェディングドレスを買いにいってどうするんだよっっ!!
 もはや、狂気の沙汰ではない。

 内山田の存在に怯えながらも、俺は癒されるオアシスへと直行した。
 言うまでもなく、雪桜さんのいるクラスだ。
 期末テスト終了おめでとう記念の打ち上げパーティを含めて、雪桜さんと遊ぶ約束をしているのだ。
 以前なら、他の女の子とこうやって遊ぶことなんて滅多になかったような気がする。

 そう、虎が何かと理由を付けて妨害してきたからである。
 女の子にちょっかいを出すだけでとても不機嫌になってしまい、
 家の米の貯蔵量を大量に減らすという大技を見事に成し遂げるのだ。
 生活費と俺の小遣いの減額を恐れた俺は虎の機嫌を損ねないようにいろいろと努力の日々が続いたが。

 あの出来事を経て虎の許しが出たので、俺は自由の身になった。
 雪桜さんのクラスに辿り着くとすでにクラスルームは終了して、
 雪桜さんは自分の席でぽつんと待ってくれていた。
 髪留めに使われている大きな黄色なリボンが嬉しそうに左右にパタパタと動いているように
 見えるのは錯覚だろうか。
 子犬が愛しいご主人様を待っているように思えた。
「雪桜さん。待った?」
「いえ、全然。待ってないですよ」
「じゃあ、行こうか」
「はい」
 雪桜さんの笑顔は俺にとっては真夏の太陽よりも眩しかった。

 学園を出ると近くにある商店街を俺と雪桜さんと仲良く手を繋いで歩いていた。
 勘違いして欲しくないのだが、雪桜さんとは付き合っていない。彼女彼氏の関係ではない。
 ただ。
「桧山さん。手を繋いでください」

 と、つぶらな瞳で上目遣いで見つめられるとどんな頑強で堅い男でも手を繋ぎたくなるのが
 男の業である。
 この俺ですら、お持ち帰りしたくなるぐらいに心が揺れてしまっていた。
 そんな風に衝動を抑えながら、雪桜さんと俺はゲームセンタ−やショッピングセンタ−などに
 立ち寄っては買物やゲームを楽しんでいた。
 充分に楽しい時間であったが、雪桜さんの一言で俺は地獄の底に落とされていた。
「あの私、胸が大きくなってしまったので新しいブラジャーを買わなければ
 ならなかったんですけど。桧山さんも一緒に付き合ってくれますよね?」
「なんですと」

 ランジェリーショップへと強制的に誘導されている事に全く気付かなかった俺は
 その言葉に驚愕していた。
 ランジェリ−ショップとは、男が踏み入れることができない禁断の領域。
 男一人で入ることは法律的に制限されてはいないが、女性陣から冷たい目で見られて
 変態扱いされるのがオチだ。
 ここに立っているだけでも警察で通報されそうで恐いというのに。
 雪桜さんはトマトのように頬を真っ赤に染めて、更に衝撃的な一言を言う。
「桧山さんに選んで欲しいんです」
 首まで真っ赤にして、オドオドしている健気の姿はぜひお持ち帰りしたい。
 って驚くところはそこじゃないぞ俺。

「だ、だめですか?」
 無表情で硬直している俺の反応がないのか、真っ赤に染まった顔から泣きそうに目に涙を溜めてゆく。
 もし、丁寧に断ったとしても雪桜さんは泣きだしてしまいそうだ。
 ランジェリーショップの前で女の子を泣かす俺の存在は世間的では大人しい女の子に
 派手な下着をはけと強要している最低男と位置付けされておかしくはない。
 それだけは避けねばならない。人として。
「わ、わかったよ。とことん付き合うよ」
「わ〜い。桧山さん。ありがとうございます。じゃあ、行きましょうか」
 逃げられないように雪桜さんは俺の腕にぎっちしと組んでランジェリーショップに突入する。

 店内にはもちろん男性などいなかった。年頃の女の子やご婦人など言うまでもなく
 女性しかいなかった。
 様々な種類の下着が置かれているので、目の移る場所には本当に困る。
 雪桜さんのお目当てのブラジャー売場に辿り着いた。
 俺は周囲の突き刺さる冷たい女性陣の視線を無視をして、雪桜さんが楽しそうに
 ブラジャーの売場で選んでいる姿を見ていた。
 後ろを振り返ると恐いので、現実逃避をしないと精神が壊れそうだ。
「桧山さん。これどうですか?」
 差し出されたのはピンク色のブラジャーで、サイズは少し大きめである。
 あの小柄な雪桜さんは結構胸があるんだといけない妄想を考えていると。

「ひーやーまーさん?」
「ううん。いいんじゃないか……?」
 可愛らしく延びた声が発する意味は『嫌らしいことを考えないでください』であろう。 
 一体何をどういう風にコメントしたらいいんだろうか。女性の下着に関する知識なんて
 持っているはずもない。
 だが、雪桜さんは蔓延なる笑顔を浮かべていた。
「そ、そうですかぁ」
 嬉しそうに頬が弛んでいる雪桜さんはえへへと笑っていた。
 その天使の姿を拝見するだけでこのような地獄にいることすらも忘れさせて癒してくれるのだ。

「念のために試着してきますね」

 ブラジャー売場のすぐ近くにある試着室に駆け込むと禁断のカーテンを閉めて外部から遮断される。
 ぽつんと残された俺は雪桜さんが出てくるまでにその辺で暇を潰そうと思った途端に
 ここがランジェリーショップだと思い出される。
 完全に無視していたと思っていた女性達の冷たい視線が次々と突き刺さってゆく。
 社員と思われる人達が睨んでいるが、さすがに問題を起こしていない俺に制止する声はない。
 ただ、何か問題を起こしたらすぐに警察を呼びますよという意思表示は
 内山田に期末テストの用紙を盗んでもらわないとこの夏を乗り越えることができない学力の
 俺でもわかった。
 長い長い沈黙が流れる。
 疑惑の判定よりも心の抗議の声が多そうだ。
 居心地の悪い場所から抜け出したいが、雪桜さんの事を考えると逃げるという選択肢はない。

「桧山さん。ちょっと来てください」
 この地獄から抜け出す天使の声が聞こえると俺は躊躇なく雪桜さんがいる試着室に向かった。
 雪桜さんが困っているとならば、そこが幻の大地や平行世界の果てでも
 真っ先に飛んでゆくことだろう。
 カーテンの隙間から手を差し出して、早く来てくださいと手を勢いよく振っているのは
 滑稽のように思えるが、そこが雪桜さんの可愛いところである。
「どうしたんですか?」
 返事が返ってくる間もなく、俺は胸倉を掴まれて無理矢理に試着室へと連れ込まれる。
 状況を判断できない俺は雪桜さんの顔を見た。ランジェリーショップに誘い込む以上に
 顔を赤面させている。

 本当にどういう状態になっているんだ?
 と冷静に状況を把握した途端に俺は背筋に冷たい汗が流れたのを確認した。
 学園の制服を半脱ぎしている状態の雪桜さんが俺にぎっちしとしがみついて抱きしめているのだ。
 雪桜さんの胸元にははだけた白いブラジャーから胸の谷間がしっかりと見えている。

 更に俺の体に押しつけるように抱き締めているので柔らかい膨らみを先程から感じているのだ。
 まさに天国はこの試着室にあった。
 と、単純に喜べる状況ではない。あの大人しい雪桜さんが過激な行動を取るなんて考えられないのだ。

「雪桜さん、どうしてこんなことを?」
「しっ。静かにしてください。大声を出したら人が来ちゃいますよ」

 狭い試着室の中で男女が抱き合っている姿を赤の他人に目撃させるわけにはいかない。
 雪桜さんが少しだけ悲鳴の声をあげるだけで俺が変質者として、
 その場で逮捕される可能性が一番高いのだ。
「えへへへ。桧山さんといっしょ」
 小悪魔的笑顔を浮かべる雪桜さんの可愛いさに俺は昇天しそうになった。
「キスしてください」
「なんですと?」
「私とするのは嫌なんですか?」

 喜んでキスさせていただきます。じゃなくて。恋人関係じゃないのにそんな行為は
 雪桜を汚す行為に等しいものである。
 俺は喉から手が出るほど雪桜さんの好意に甘えたかったが残念ながら辞退するしかないだろう。
「そういうわけじゃないんだけど」
「人呼びますよー」
 俺には選択権とか拒否権は存在していなかった。
「わかった。キスするから呼ばないでくれ」
「じゃあ、お願いしますね」

 雪桜さんは目を瞑って、唇を差し出てくる。
 その唇は小刻みに震えているが、俺の胸の鼓動もドクンと高鳴っている。
 ただ触れるだけの稚拙なキス。
 それでも、二人にとっては大切な初めてキスであった。

 試着室から出てから、真っ向にランジェリーショップを逃げるように抜け出した。
 雪桜さんは顔を真っ赤にして、俺に視線を合わすこともなく。
 今日はありがとうと言って帰っていた。恥ずかしいのは俺も同じであった。
 雪桜さんを女性として意識し始めている。
 彼女に男女の関係を求めているのだ。
 キスの事を思い出すだけで、頬が弛んでしまう。
 今年の夏は楽しい夏になると俺はこの時は思っていた。

 でも、世の中はそう思い通りに行くはずがないと……。
 後で思い知らされることになる。


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