二等辺な三角関係 第13回
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 麻衣実ちゃんの入院期間は一ヶ月弱。怪我自体は二週間足らずで完治したのだが、残りは病室に
実質軟禁状態にされていた。手間をかけさせられた腹いせに、彼女の父親が病院側に
そういう診断をさせたらしい。かといって麻衣実ちゃんも素直にそれを受け入れたわけでもなく、
父娘二者間で国際交渉さながらの緻密な駆け引きが行なわれたようだ。最終合意の協定には、
雫を殺した際のバックアップを取り付けられましたと涼しい顔をしていたから。
 その入院もただベットに臥せって安静にしていたはずもなく、父親が持て余していた
人材ではあるが現職の警官を借り入れて、絶えず俺の監視に当たらせていた。
加えてその手のことのプロとは言え、さすがに部外者が学校内部まで覗き見ることは不可能なので、
彼女は俺のクラスメイトに監視依頼を持ちかけ、そいつに俺の動向を報告までさせている。

 妥協もあるが、それは目的達成への段階的なもの。一連の対応に余念はない。
 そんなんで麻衣実ちゃんは、俺が学校では可能な限り常に雫と二人きりでいることも、
ほぼ毎日雫の家に通い詰めていることも、何一つ余すことなく把握している。
それに関しては週に一度のお見舞いに行く度に愚痴られるのだが、先行きが明るいせいか――
俺と雫にとっちゃどん底だが――特に怒鳴り散らされたり泣き叫ばれたりせずに済んでいる。
それは喜ぶべきことだろう。

 ――けど、終わりの時は確実に迫ってきていて、麻衣実ちゃんはそれだけを心待ちにしている。
 夜は雫が占有していて繋がらない回線。麻衣実ちゃんはそれが空くのを健気に待ち続ける。
携帯電話は使用禁止の病院のロビーで、ひたすらに公衆電話でダイヤルする。
十円玉を一枚入れては通話中。二枚入れても通話中。三度かけ直しても通話中。
四度受話器を置いても通話中。何十何百と同じ動作を繰り返し、やがてやっと繋がった電話で
彼女はこう言うのだ。日数だけが
磨り減っていく、死へのカウントダウンを。

「後、七日で幸平先輩は私だけを愛してくれますね」――と。

 ――でなけりゃ、雫との通話が終わった途端に毎度都合よく呼び出しはかからない。

 
 麻衣実ちゃんは告げている。『これは猶予期間です』と。
 それが、本当の意味での理由。麻衣実ちゃんが病室から出ないわけ。
 敵に送る塩はただの援助ではない。そこには遅効性の神経毒が仕込んである。最後の手向けとして
幸福を味わわせた後に、腑抜けたところを狙う寸法だ。
 事実、最近の雫はすっかり俺と二人きりの日々に酔い痴れてしまっている。
 件の騒動以来、遠巻きに避けられていることも関係しているが、ほとんど四六時中
べた付きっ放しだ。麻薬常用者並みに蕩けられ、依存的に心酔されるのが心地よいのは相変わらずだが、
これでは麻衣実ちゃんの存在を覚えているかどうかすら怪しい。こちらからその名前を出すと
また狂乱しかねないし。遠まわしに言わんとしても、無意識下で惚けられてるような節があって
どうしたものか。兎にも角にも警戒心がなさ過ぎる。全部が全部隙だらけなのだから。
 
 ――持て余す、という意味ではどっちもどっちか。少なくとも俺ごときの悩みが届く範囲に
いるような二人じゃない。指折り数えて殺人予定日を待つ麻衣身ちゃんも、
殺されかねないのにある意味泰然としている雫も。ましてやその殺し合いの結末なんて……
俺の知るところにはないのかもしれない。
 ……当然無責任にならない程度に俺も頑張るけどさ。身を挺すりゃ俺だって
雫の盾くらいにはなる。さすがに俺が怪我か重態か――あるいは死か――になりゃ、
麻衣実ちゃんも考え直してくれるだろう。昨日、必死で考えぬいてやっと思い付いた
奥の手がこれとは自分の自己犠牲の精神に嘲笑の一つでも送りたくなるけど。

 そういえば、何考えてるのか読めないことがもう一つ。
 普通、殺しの計画や監視していることを、殺しのターゲットの恋人同然であり、
また監視の対象である男に包み隠さず話すかね? 『幸平先輩の許可を取っておきたいので』って
言われてもさ、ピンとこないというか……、ああやっぱり俺には量り切れねえな。
それが愛の形ってことだけは、陳腐ながらも理解できるんだけど。

 微妙に話がズレているような気がするが、つまりそれは俺が一ヶ月の間自らの監視役に
選ばれた相手と自由に交流できたということである。対象が女子ゆえに雫絡みで
そのタイミングは限定されていたが。――けど、仲間意識くらいは湧いてもおかしくない期間だった。

 

 

「アナタってつくづくどうしようもない男なのね」
 急用とやらで教師の消えた自習時間、そんな言葉をかけられた。
 受験コース別に分けられた特別編成授業では各クラスは分解され、
バラバラに振り分けられるので、この教室に雫はいない。いたら近寄るだけで
涙目で睨まれるだろうから俺に話しかけるような猛者はいないはずだ。
それが例え、性悪の権化であっても。
「今は静かにしとくべき時間じゃないのか?」
「そう思うならベランダにでも出たらどう? 気を利かせられないようじゃアナタも同罪よ」
 まさしく止まることを知らない減らず口にイラつく。人の神経を逆撫ですることにかけちゃ、
コイツは俺の知り合いの中でも随一だ。
 任期が切れて肩書きが前会長に変わったことでいよいよもって好き勝手し始めたのか、
その底意地の悪さが表に出る機会が増大している。
 だが、クラス中が目線は向けずとも耳で様子を窺っているのは事実なので、やむなく表に出た。
 見上げた空は日差しを曇天が遮り、涼風が肌を刺す。少し、冷え過ぎているかもしれない。
「嫌われ者同士仲良くしているようで面白くないな」
「同感ね。でも今更何を思われたって関係ないんでしょう?」
「そりゃそうだ。そうでなけりゃ俺は今頃とっくに雫を見放してる」
「それをどうしようもない男って言うのよ。アタシは目立っても別にいいけど、
アナタはちゃんと竹沢にフォローしておきなさいよ。叩けば割れるガラスのように脆いみたいだから」
 俺の言い切りと同じくらいはっきりとした嫌味が返される。どうしようもないのはお互い様だが、
反応して無益な言い争いの火種を蒔くほど俺も馬鹿じゃない。つーか、ガラスは脆くないぞ。
それを叩いたお人の精神が相当に強靭だからな。
「図星かしら?」
「うるさい違う」
 ニヤニヤ笑うな。見なくてもわかる。

 

 くだらない応酬をしながら、ベランダの端まで移動した。一番端の部屋は空き教室、
ここなら誰の眼も気にすることはない。
 「しかしロクでもないな……。雫を除けば俺の話し相手はもうオマエくらいしか残ってない。
嫌いで嫌いで仕方がない性悪女しかさ」
 ふと思い当たったことを口に出す。口に出してからしまったと思った。
 「リストカットがチャームポイントの地雷女を好きになった愚図に言われたくないわね。
それにこっちだって好きでアナタの相手なんかしてるわけじゃないの。
これ、結構ストレス溜まるのよ?」
 「予想を全く裏切らない辛辣なお言葉をアリガトウ。……それで、そこまでして手に入れた
推薦枠の調子はどうなのさ?」
 麻衣実ちゃんが取引をした相手。大学と警察の仲は基本的に険悪のはずなのだが、
父親が自慢のパイプとやらで口利きをしてやったそうだ。つまり、この前会長――神林久美――は、
合格決定の出来レースを条件に、俺の監視を引き受けた。
 都合は悪くない。俺もコイツも雫も含めて、学年中で浮いてるし。前会長の場合は
その性格のせいだから好きでそうしてるんだろうが。まあ、似た者同士仲良く、
という先程の会話はそういう点では外れているわけでもない。
 「別に……まだ小論文の指導を受け始めただけだし」
 あまり関心がなさそうに答える。
 初めは上位の大学合格だけがコイツの生き甲斐だと思っていたが、ここ暫らく色々と
憎まれ口を叩き合う内に、案外そこまで学歴主義者なわけじゃないと知った。
邪道を用いるのに罪悪感ではなく無気力感を抱く辺り、悪人であることは間違いないだろうが。
 もしかしてわざと悪ぶって見せているのだろうか?
 「何? その安っぽい同情の眼差しは? 人を見て勝手に優越感に浸らないで頂戴」
 小さく浮かんだ疑問はあっさり一笑に付せられる。その皮肉げな笑みがまた似合っていて
不気味だ。無駄に容姿の出来がいいから、妖艶の魔女の微笑にも似た色っぽさがある。
 「そもそも、アナタのせいで、こっちの気苦労が、絶えないんだけど?」
 強調されまくった苛立ちの刺々しさは何時ものことで、俺は平然と聞き流すと
落下防止の手摺りに寄りかかった。
 舌打ちが聞こえた。素行悪いぞ。

 自習はもうどうでもよくなってしまって、そのまま鉄柵の冷えた感触を味わう。
遠目に見える街並みに麻衣実ちゃんがいる病院を探そうとしたが、その方向の大部分は
正面にそびえる本校舎別館が埋め尽くしていた。
「……で、どうするわけ? このまま竹沢を見殺しにする気?」
 少しの間を置いて、前会長が訊いた。どうせそれを訊くために話しかけてきたのだろうに、
なかなかどうして切り出すのが遅い。そんなことにもその高慢なプライドが邪魔をするとでも言うのか。
「オマエが訊くか? それ。麻衣実ちゃんの意向に逆らったら折角手に入れたエリートコースが
一瞬でパーになっちまうじゃねえか」
「だから訊いてるのよ。アナタが竹沢を生かすつもりなら、こっちの苦労が全部水の泡になるから。
もしそうなら気に食わないし、ここでアナタの足を掬ってあげるのもいいかと思って」
 あまりに意地悪く笑うので逆に演出だとわかりやすい。極めて不快ではあるが、これは人一人が
精一杯になって見せている悪意なんだぞと思うと、怒りまでは起きない。
「脅すようだが……多分殺されるぞ。そんなことやったら」
 それでも一応は真面目に答えた。
 恋敵を殺すと宣言した彼女が、俺自身の死に対して何のアクションも取らないはずがない。
恐らくは、その日の内に東京湾にバラバラ死体を実演してくれることだろう。
「……馬鹿馬鹿しいわね。……ミスったわ。取引相手にしてはヤバ過ぎた」
どんな捻くれ者も純然たる狂気の前では無力に等しい。前会長は珍しく弱音を吐くと、
背中を丸めてコンクリートの上に座り込んだ。
 二進も三進も行かなくなって焦る気持ちはよくわかる。ましてやコイツはほとんど部外者だ。
表面だけ関わって死人が出るなんて相当目覚めが悪いだろうさ。
「説得……はできないの?」
 震えかけた言葉を気力で戻した。その意地に敬意を払って気付かないフリをする。
「次のお見舞いで頼めるだけ頼むつもりだ。ただ……」
 麻衣実ちゃんは絶対に首を縦に振りはしないだろう。できるならとっくの昔にやってる。
俺の雫が死んだら彼女に乗り換える薄情な性質を知っているから、尚更口先だけの言葉に力はない。
「わかってるわよ……。期待はしないわ」
 揃って気落ちしたところで、隣接する建造物の合間を縫い、一陣の風が横殴りに吹き付けた。
「うわっ」
 とっさに風下を向く。
 乾いてしまった眼を潤そうと瞬かせると、パタパタとはためくスカートが見えた。
陸上の短距離選手のようなしなやさと長さを持ちながら、何故か女性的な柔らかさのある美脚。
悔しいが眼がいってしまうそれを無遠慮に折り込んだ姿勢で、前会長はそれを押さえることなく
屈んだままだ。
「恥じらいくらいは残しとこうぜ……。オマエを嫌ってる俺が言っても信じられない
かもしれないけど、オマエは一応美人の区分に入るわけで。そんな豪快だとタダ見され放題だぞ」

「……それこそ今更よ。推薦枠の争奪戦で勝つために選考委員の教師に色仕掛けをしたってウワサ、
知ってるでしょ? よくあるタイプだけど、我ながらイイ線ついてると思うわ。副委員長さんから
話を持ちかけられなかったら、きっとアタシはそうしてただろうし」
 何でそこまで大学に固執するのかは私的な問題だろう。首を突っ込むことじゃない。
俺が言えるのは、こんなダウナーな状態のヤツに欲情できるわけもないし、
したくもないってことのみだ。
 雰囲気をさらに重くしただけで、傍迷惑な秋風は凪いだ。
「麻衣実ちゃんは今は委員長だよ。前任が受験期に入ったってことで辞退したから。
後は入院患者を名指しで指名してそのまま多数決。ロクでなしの集団も悪知恵だけは働く」
 沈黙に息が詰まるのが嫌で、瑣末な間違いを指摘した。中央委員の堕落ぶりに手を焼いていたのは
何も内部の人間に限ったことじゃない。相手は仮にも前生徒会長なのだから、そこらの事情は
既知に決まっていた。
「どーでもいいわよ。疲れるから無駄な揚げ足取らないで」
「そうだな。どーでもいいことだったな」
 結局沈黙してしまう。
 話せば話すだけ機嫌を損ねるだけの気がしてきたので、俺は潔く味気ないパノラマ観賞に戻った。
こちら側から見えるのは棟の廊下側だ。誰かに見られる心配はない。最下段の端に映る
白いカーテンの部屋を見付けて、二人分の流血の後片付けをさせられた掃除当番に黙礼した。

「……昨日会いに行ったのよ」
 とうとう堪えきれずに震えた声。誰に会いに行ったかは訊くまでもない。
「中間報告? 何時もお勤めご苦労様だな」
 監視者とその依頼主、どちらの言動も丸々教えてもらえる俺が果たして監視されてると
言えるのかは疑問ではあるが。麻衣実ちゃんはそんなに正直者でいたいんだろうか。
「茶化さないでっ! ふざけてる場合じゃないでしょう!」
「そう、テンパるなよ。会いに行ったってだけじゃ何もわからねえだろ」
 不肖の俺が雫ならともかく前会長を宥める術をそう都合よく思いつくわけがない。
ヒステリックに詰られても、こちらのペースを乱されないように気を配るぐらいしかなかった。
 背中にキツイ視線が突き刺さったが、小さな逡巡の後、前会長の怒りの気配が鎮まるのを感じた。
代わりに、身体を縛り付けるような重苦しい困惑の念が伝わってくる。
 やがて、前会長はそれを告げた。

「……副委員長さん、拳銃持ってたわ」
「そうか……」
 そこまでするか。麻衣実ちゃんよ。

「最近のアナタの様子を話し終えるなり、いきなりこっちに向けて一発。……当然、弾は外れたし
銃声もしなかったわ。でも、確かに本物だった。後ろの壁に穴が開いてたのよ……。
……それで顔色一つ変えずに『試し撃ちですよ。最近イライラが溜まっているものでつい。
どの報告でも竹沢先輩が幸平先輩を独占しているから弱っちゃいますよ。……ああでも、
先輩にはくれぐれも気にしないように伝えておいてください。私は冷静ですし、それにこれは
あくまで最終手段ですよ。消音の加工こそありますが、これじゃあ偽装が無理ですので』って……。
――狂ってるわよっ!」
「俺は何度も忠告したぞ。――その度に鼻で笑われて話も聞いてもらえなかったけどな」
 前会長が怯えだして聞き出した頃にはもう抜け出せなくなっていたのだ。
「黙って! 元凶のアナタが白々しい態度とってんじゃないわよっ! 馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しい
馬鹿馬鹿しいっ! 何でアンタ一人のためにそこまでするわけ!? アンタの何がそんないいわけ?
 竹沢はそんなことで殺されなくちゃいけないわけ!?」
 麻衣実ちゃんは正直過ぎるから、その狂気が本物に見えなかった。自意識過剰な演出に見えた。
剥製だと思っていたライオンに跨って遊んでいたら実は生きてましたなんてどれほど
恐ろしいことか。事実を知ってしまってはそこから飛び降りる勇気を持つのは並大抵のことではない。
 全てを受け入れている俺と違い、前会長は寸前になって事の重大さを認識した。
そしてそれに恐怖した。殺人という言葉の重み。細かい理屈なんて要らない。
人一人が取り返しのつかなくない世界に行ってしまうことへの拭い去りようのない不安。
そういうのに直面させられているんだ。
「アタシはっ……、ここまでヤバイなんて思ってなかったのよ……。最初は、今までこき使った
仕返しに嵌めようとしてるのかと思った。でも、先払いで推薦枠に入れてくれたからは
このまま利用してやればいいやって……。それでそのまま続けてたらこんな……」
「……ゴメン」
 コイツは口も性格も悪いし、関わっても気分が悪くなるだけだし、嘘でもなく友達として
やっていける自信さえない。けど、だからといってコイツが深入りさせてしまった責任は俺にある。
本人が乗り気だったので止めなかったところもあるが、それはコイツならどんな荒事でも
平気だろうと決め付けていた裏返しでもある。

「……アナタが謝ったって何にもならないわ。わかってるわよ、自業自得だって。引き受けたのは
アタシ。思い違いをしていたのもアタシ。……だから同情の余地なんてこれっぽっちもないわ」
「気丈だな……。その調子で頑張ってくれ。麻衣実ちゃんのほうは俺が何とかするさ」
 それこそ死ぬ気で。
「アナタに頼って祈ってろって……? ……余計なお世話よ。馬鹿にしないで頂戴」
 他人の心配をどうしてそう無下にするかね。
 けどようやく立ち上がってスカートの汚れを落とす前会長の仏頂面を見る限り、何はともあれ
復活してくれたようだ。関わりのある人間が不調になられると、どうにも気分が悪い。
「そうだ……忘れてたわ。今日の放課後も生徒指導室に来るようにって、梶山が」
 教室に戻ろうとした怒り足が、はたと動きを止めて振り返る。
「またか? もう十回超えてるんじゃないか? ……たくっ、そんなに俺を雫に
構わせたくないのかね? 何言われても聞く気なんてサラサラないのに」
「こっちに言われても困るんだけど? アタシはただの伝言係よ。
むしろ、指導を担当してるからって小間使いにされて嫌になってるのはこっちのほう」
 不満げに睨むのも最もだが、これでまた帰り際に雫がごねる。生徒指導というのならそれこそ
雫共々すべきだと思うが……、雫を問題児扱いして相手にせず、馬の俺から射ようとしてるのが
バレバレだ。正直教育者としてどうかと思う。受験期で効率重視とでも言うつもりかよ。
 前会長は呆れ顔の俺にまるで中小企業の下請け役員のように年季の入った溜息を吐くと、
「……まあ、精々可愛い彼女さんの手首にこれ以上傷が増えないように
ご機嫌とってあげなさいな。壊れないように丁重に。縋ってくるわよいくらでも。
……それしか希望がないんだから」
 皮肉でも嫌味でもない。彼女がするなと俺を叱り付けた感情を。吹けば消えるような安っぽい
同情心を露にして見せた。「殺させないでよ」との呟きが聞こえたのは空耳と思いたくはない。
 どうしようもないのはお互い様。それでも前会長は正面きって俺を悪く言ってきた分、
遠巻きのする噂のような陰湿さはなかったし、何よりほんの少しだけだけど、
雫に優しいような気がした。

 ――それだけに結局最後まで良好な友人関係を築けなかったことを思うと、
この時が唯一のチャンスだった気がして、俺は悔やんでも悔やみきれなかった。


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