二等辺な三角関係 第12回
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 錆びた上に段差の急な階段を、身体を引き摺るように上がっていく。
 我ながら緩慢な動きでポケットから薬の小瓶を取り出した。蓋を開けて出した中身は数錠、
 一気に噛み砕く。それだけですーっと吹き抜けるような開放感が胸のざわめきを静めてくれた。
 歯にこびり付いた顆粒を舐め取りながら、辿り着いた古びたドアを無造作に引いた。
 ノックをしないのは、俺かどうかすぐにわからなくて焦れるそうだから。
 ――中毒にでもなってそうな発言だ。

「おかえりなさい。こ〜ちゃんっ」
 出迎えた雫は、今日も今日とて季節外れの向日葵のごとき笑顔だった。

「ただいま。……まったく、こっちがまいっちまうくらいに御機嫌だな」
 こうも熱烈な歓迎を受けると、『ただいま』ということくらい何でもないように思う。
「と〜ぜんだよ。だってこ〜ちゃんと一緒にいるんだもん」
 薄い黄緑色のフリル付きでお腹のところに無駄に大きなポケットが付いた、
 幾らか年代の低めの層を狙ったデザイン。。雫はそんな良くも悪くも
 お似合いのエプロンをひらりとはためかせて、さも当然かのように断言した。
 左手首に巻かれたグラスグリーンのリストバントが、濃淡のコントラストで映える。
 俺のサイフが痛まないギリギリの額。庶民用の弱小ブランドの品。
 傷跡を見て自傷を習慣化させることがあるということで買ってあげたものだが、
 感極まって泣くくらいに大喜びされたその時から、外したところを見たことがない。
 どうやらかなりのお気に入りにしてくれているようだ。

「ん? なあに?」
 俺の視線が一点に集まっているのに気付いたらしい。
「手首のほうはどうだ? できるなら見せてもらいたいんだけど……」
「ええと……あの……そのね? ……ごめん、こ〜ちゃん。わたし、見せたくないよ……」
 目に見えて消沈してしまった雫に、俺は二の句が告げられなくなる。
 ――別の意味では、外したところを見たことがないから、その下に傷跡が増えていても
 わからないということだ。雫が本格的に自傷症にかかっていないか確認するには、
 手首を見せてもらうのが一番なのだが、雫はそれを頑なに拒否し続けていた。
「……だってね、すごく醜いんだよ。こう、そこだけ人の肌じゃないみたいな……。
 薄気味悪い色のくっきりと残った跡がね……。消えない傷ってやつなのかな?
 だから、もしこ〜ちゃんに『こんな傷が付いてる女気持ち悪い』なんて思われたら、
 わたし……わたし……」
「……ゴメン、俺が悪かった。何度も訊いてホントにゴメンな」
 でも、女の子にとって身体に残った傷ってのは相当辛いものに違いない。
 俺が言えば頷く雫でさえ、その頼みを断るくらいに気にしている。
「違う……ちがうよ……? こ〜ちゃんが悪いわけじゃなくって……、
 わたしに傷が残ってるのがいけなくて……、もし見られたらいくらこ〜ちゃんでも
 わたしのこと嫌いになっちゃうから……」
「……気負いすぎなんだよ、雫は。俺は何があってもお前の味方だってよくわかってるだろ?」
「……うん」
 痞えがある肯定。俺を信じてくれていても、どうしても突破できない心の壁。
 身体に刻み込まれた苦痛の証。リストカットでなくとも、傷とはそういうものだ。
 それは身体・精神の両面の苦痛であり、だから俺は雫の気持ちと体調、
 どちらもなるだけ気遣いたい。
 ――それだけに、その壁は砕くには脆すぎ、越えるには高すぎるものとなっているが。
 打開策は――なかなか見つからない。

 

「それで……今日の晩飯は何を作ってくれたんだ?」
 すっかりしょぼくれてしまった雫を抱き寄せ、頭を撫でながら尋ねる。
 この流れは最初から変わっていない。左右の髪留めを外し、バラけた房を手櫛で梳いて纏める。
 ショートになった前髪を掬い上げて、砂を零すようにサラサラと流した。
「今日は山菜のおひたしとえび天丼……それにしても、こ〜ちゃんの手……大きいよね」
 声に張りが戻り、あからさまなくらいに恐怖心が薄らいでいく。
 俺は雫をちゃんと癒せている。それがこうして実感できるのが心に染み渡るくらいに嬉しい。
「そりゃお前に比べればな……。でもそれだけで、他に何の取り柄もねえよ。
 撫でるのだって未だにおっかなびっくりやってるところがあるし……」
「でも優しい動きだよ。――だからわたしこ〜ちゃんに撫でられるの好きなんだぁ」
 真っ直ぐすぎる言葉に久しぶりに照れを覚えてしまった俺は、そこで早々に雫を解放した。
 「あっ……。終わり……?」
 円らな瞳でそうも未練がましく見上げられると正直困るんだけどな……。
「……折角の飯が冷めるから、その後にな」
「うん……わかったよ。じゃあ、はい。食べよう?」
 向かい合って食べられるように位置を調整して、改めて座布団を勧めてくる。

 二部屋しかない雫の住処は、その外観を裏切らずにどちらも狭い。
 敷き詰めるように置かれた調度品もほとんどが悪い意味で年代物だ。
 当然今、雫がにこにこ叩いて客人の着座を心待ちにしているしている座布団も、
 ところどころカバーが破けている痛んだ品なのだが、座れさえすれば俺は何の文句もない。
 ただ、食卓の上の料理を見るに、家計の状況はそれほど切迫はしていないようだ。
 銀行振り込み。月一の。――何処にいるのか知らないが、雫の父親の生存は確定している。

「こ〜ちゃん、こ〜ちゃん」
「ん?」
「はやく、はやく」
 何の気兼ねもなしに口を広げ、左右の八重歯を反り立てる。
 警戒心の欠片もない。親鳥にエサを請う雛鳥そのものだ。
 怯えの感情はあっても羞恥心はないのだろうかと思いながら、
 適当に皿から箸でぜんまいを一本摘む。単純そうに見えるメニューだが、
 きっと半端なく気合を入れて作ってくれているのだろう。
「いただきまぁ〜す」
 言い終わると同時に捻じ込んだ。
 雫は至福の時間だとでも言いたげに、たかだか草一本を数十秒かけてじっくりと咀嚼して、
 咥えたままの俺の箸までベロベロに嘗め回してくれた。
「……こ〜ちゃんに食べさせてもらうと美味しさが何十倍にも感じられるなぁ。
 あっ……勿論そうでなくても美味しいと思うよ? こ〜ちゃんに満足してもらうために
 わたし頑張ったから」
「お前の料理の腕はよくわかってるって……。食べるまでもない。今日も美味いに決まってるさ」
 雫は以前俺が天野の弁当を褒めたのが余程悔しかったらしく、直接口に出しては言わないが
 晩飯の度に俺に褒められたがる。
 実際、竹沢家の家事全般を担っていたのは雫のようで、その腕は文句なしに高い。
 ならどうしてあの時それを俺に言わなかったのかといえば、
 家庭事情で俺に無駄な心配をさせたくなかったのだろう。
 その気持ちは俺も何となく理解できる。だから、それには触れず、
 今の雫を大事にしてやればいい話だ。

 けど……。
「けどな……」
「こ〜ちゃん、次つぎ。えび食べたいな?」
「……わかったよ」
 丼にでんと乗せてあるそれを、衣を崩さぬように慎重に持ち上げる。
「あーん」
 余りにも無防備で、あどけなさすぎて見ていられない。こんなんで、こんなんで本当に――
「あふっ! あふいっ! あふいほ、ほ〜ふぁんっ! ふぉんなにほくまふぇひれちゃやぁ……」
「あっ……悪い」
 ――考えすぎてもロクなことがないし、素直に可愛がってやれよ。
 ――うっさいな。その開き直りが正しいかで悩んでんだよ。

 

「いはい……、まらひりひりする……」
 ちろちろと舌を出しては氷水に浸す。涙目でそれをやられると、
 思わず胸を掻き毟りたくなるくらいにいじらしい。
 多少のドタバタはあったが、晩飯は無事美味しく食べ終わり、後片付けも済ませた。
 それから暫らくは食休みも兼ねて雫にいいようにベタ付かれながら、
 解く気もないクイズ番組を流し見などして、その後は受験生の本分を果たすべく
 参考書をカリカリやった。
 それも一段落着いた現在、部屋の隅に蹲るように置かれた小型テレビが映し出すのは
 どのチャンネルもCMばかり。時間帯が変わる。いい加減退き頃だな。
「じゃあ俺、もうそろそろ帰るわ」
 胡坐をかいた俺の太股を枕にして、日向ぼっこ中の猫みたいにごろごろしていた雫を退ける。
 これだけサービスしてやれば火傷させた分はチャラになったと考えていいだろう。
 つーかお前はその格好になってから勉強放棄しっぱなしじゃないか。
 それと泣くか和むかどっちかに絞れ。ああそんなにコップを傾けるなよ、
 零れたら俺が被害を受けるんだから。
 内心で愚痴を言いつつ、ノタノタと帰り支度を始めたが――

「帰っちゃうの……?」

 

 ――その一言で余計な雑念を全部吹き飛ばされる辺り、俺はとことん雫に弱くなった。
 ずっと押さえ込んでいた衝動が暴発しそうになる。荒れ狂う激情が理性を飲み込みそうになる。
 この瞬間だけは――どうしても慣れない。
 無意識に手が瓶の入ったポケットを握り締めていた。
「一応親は何も言わないんだけどな。むしろ積極的に推奨してるし。
 ……でも、あんまり遅くまでいると冗談抜きで帰れなくなるから」
 ……落ち着け、冷静になれ。心配することはない。お前には薬がちゃんと効いている。
 一般的な精神安定剤にそこまでの効果を期待していいのかは知らない。
 でも、この呪いだけでずっと気が楽になる。偽薬効果というものだろう。
 要するに大半は思い込みの力だ。
「……そっか」
 こう言えば雫も大人しく引いてくれる。
 でも、お互いが節度を守っているからこそ、耐え難い欲望と自制心への反動は
 大きくなるばかりで、俺達は返って更なる深みに堕ちてしまっているんじゃないだろうか。

「それじゃあ……はいっ……」
 瞳を閉じ、静かに雫は顔を上向きにした。

 我慢の概念が一瞬で崩壊して、そのまま吸い寄せられるように雫の唇を奪う。
 心地よい弾力性と乾いた大地さえも潤せそうなくらいの瑞々しさを併せ持つそれに、
 存分に音を立てて吸い付く。つるつるとした表面に舌の裏を滑らせる。
 勢いに任せる俺は、得体の知れない魅力に誘いこまれて、下唇を何度も甘咬みした。
 こうなると箍が外れてしまうのは雫も同じだ。
 縫うように俺の口内に侵入してきたその舌は、縦横無尽に蹂躙を始める。
 火傷の痛みをかき消そうとでもしているのだろうか、
 ザラザラした感触の先端がその先陣を切った。
 歯茎を撫で回し、舌下腺を散々に弄繰り回したと思ったら、
 次の瞬間には奥まで舌を差し込まれたせいで身動きの取れなくなっていた俺の舌を押し返し、
 執拗に絡み付かせては滲み出る唾液を隈なく舐め取ろうとする。
 恥も外聞もない。ただ眼前の相手が欲しい。その衝動を押し殺さんがためには、
 一心不乱で舌を動かすしか術がないのだ。けれど、どれだけこの行為に慣れていっても、
 得られる快感が増していっても、決して満杯までは満たされていない残心がある。
 ちゅぱりちゅぱちゅぱと厭らしいくらいに響き渡る吸引音を聞き流すこと数分。
 俺と雫は艶かしいけど切なさだけが募る、そんな無意味に甘美な二枚舌の演舞を堪能し続けた。
 やがて雫の舌が舌根まで伸びてきそうになったのに俺が噎せ返ったことで、
 ようやく長いお別れのキスが終わる。
 過激さと時間が日増しになっているのは気のせいじゃないだろう。
 俺の息遣いがやけに荒いのも、雫の眼が異常に潤んでいるのも、
 到底無視できるレベルじゃなくなってきている。
 それでもこの先にいかないのは、俺の意志が予想以上に奮戦しているのか、はたまた――
「……それじゃあまた明日だね。それと、寝る前には電話してね……? 絶対にだよ……?」
 雫が意外に我慢強いのか。
 擬似的な薬漬けでようやく平静を保っている俺と違い、
 雫が別段これといってしていることはない。
 一日中甘えていても物足りなく思うような生粋の甘えん坊で、暇さえあれば擦り寄ってくる、
 加えて今更しつこいが完全無欠の重度の依存症。
 そんな雫がここまで我慢できるなんて俺は全然予想していなかった。

 ――いや、予想できるはずもない。

「ああ……絶対にするよ」
 正気の内に一刻も早くこの場を離れるべく、それだけ言って足早に部屋を出た。

 

 

 秋も半ば、過ごし易い季節の変わり目は実感できるほど長くはなく、
 夜風は大分冷たくなってしまっている。ここ一月ばかりの雫との生活が、
 余計に体感時間を早めているのかもしれない。雫と過ごす時間は、穏やかなようで危うい、
 そんな不安定な時間だから。
 偶にすれ違う車のヘッドライトが照らし出す銀杏並木の葉の色は黄色に色づいている。
 それでも時間が経っているのは動かしようのない事実。
 ――この無能者。頭の中から野次が飛ぶ。
 俺は雫を救えちゃいない。守れちゃいない。支えになるだけじゃダメなんだ。
 それだけじゃ破滅が待ってるだけなんだ。堕落が待ってるだけなんだ。
 このままじゃあ何もかもダメなんだ。
 薬を口に含む。服用期間が短いが、それほど害はないはずだ。
 だって俺は例え飲むのがビタミン剤だろうと頑張れる。
 口内で錠剤を転がしながら、雫の舌の感触を思い出すだけなんだから。
 ……それが中毒症状じゃなければ何だってんだ。
 何時から平静を保つための偽薬は麻薬と化した?
 これでは、共依存とは思わないが、俺も雫も完全にお互いに溺れてしまっている。
 その意味が性的なものにに変わってしまう日も間近に違いない。もうここいらが限界だろう。
 そもそも雫の性質上、距離を置くという手段が取れなかった時点で、
 曖昧な関係を維持するなんて土台無理な話だったのかもしれない。
 だが、それにしたって俺が上手く立ち振る舞えばまだ何とかできる余地があったんじゃないか?
 雫の手を引いてやるべき俺が率先して川の深みに落ちてしまってどうする?
 それに、雫の苦しみが一向に取り除かれていないのも俺のせいだ。緩和している自信はある。
 けど、それはあくまで俺が雫と一緒にいられる時に限ってであって、
 雫が独りきりの時にどれだけ苦しんでいるかは定かじゃない。
 現に、毎晩の就寝前の遣り取りで雫は心底心細そうに話している。
 しかも、中途半端に笑って誤魔化そうとするから聞いてるこっちが居た堪れなくなってくる。
 雫の苦しみ――本人は必死に隠そうとしているが、大体の見当は付く。その内容も原因も。
 でもそれは伝聞と推測の積み重ねでしかなく、
 それだけで微細なバランスで成り立っている雫に踏み込むにはあまりに心もとない。
 間違っていましたでは済まされないのだ。雫を傷付けることは誰よりも俺が許さない。

 そのようにして、結局俺は雫を救うことも突き放すこともできず、
 挙句の果てに雫への気持ちを封印するのに失敗したようだった。
 俺はハリボテの虚勢を張ることすらできない。――彼女の狂気を止めうる唯一の方法が
 失敗してしまった。それはつまり、俺の前に目下のところ最大の悩み事が
 待ち構えていることを意味する。

 ――麻衣実ちゃんの退院が一週間後に迫っている――

 俺はどうやったら、彼女の手から雫を守れるのだろう?
 一月かけてもその答えが出ないことが、何より俺の精神を蝕んでいた。


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