扉の向こう側、明り取りの小さなガラスの先の光景は悪夢より苦々しいです。
私は体の奥からこみ上げる衝動を既のところで耐えています。
張り裂けそうな胸の裡を惨めに晒すことがないようにしています。
取り繕った無表情で、だけど眼球は二人の接触部に釘付けになっています。
女の先輩が愚図っています。
男の先輩が困惑の表情を浮かべています。
それは、
―――――私の愛しい愛しい先輩に竹沢雫先輩が抱きついている。
そんな光景。
「こ〜ちゃん……」
舌足らずな呼称がくぐもりながらも確かに私の鼓膜を貫きました。
――こ〜ちゃん――幸平――、先輩の名前、私が一度も呼んだことのない――
「……っ!」
取っ手にかけた手が動きそうになるのを、爪を掌に食い込ませて耐えます。
もしこの扉を開いたら先輩に気付かれてしまうかもしれません。
気付かれたら先輩に嫌われてしまう。――それは許されません。許せません。
私は優秀で冷静で無感動な先輩の頼れるパートナー。
先輩の最大の味方にして、縋りつける拠り所。
その私が動揺して醜い姿を先輩に晒してしまうなんて、絶対に、絶対に許されないんです。
けれど、
噛み締めた歯がぎりりと鈍く擦れています。
全ては先輩に愛してもらうため。
そう思って悲嘆し憤る気持ちを固めて固めて閉じ込めてきました。
だけどいくら硬い結晶にしても、先輩不在の時間の圧倒的な鋭利さは、
いとも容易くその外壁を削り取るんです。
削り取られた残骸は、心の底で泥に塗れて輝きを失います。
輝きを失えば、尚更先輩が愛しくて堪らないんです。欠落を補充してもらいたいんです。
修復無しに傷付く期間が長引いているのも辛いんです。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
――だってもう半月になります。こうして心を抉られるようになってから。
一度も見咎められていないのは、受験教育のカリキュラムが等閑な県立高ならでは。
誰も彼もが自主的に勉学に励んでいるようです。
まあ、本校舎四階東側の全クラスが無人になっているのを確認し、扉と壁の凹凸で身を隠し、
さらに周囲の警戒には気を配ってますからそう簡単に下手は打ちませんが。
……それにしても仕方なしとは言え、先輩が誰か他の女の人とくっついているのは、
避けられるならやはり避けたいのに変わりはありません。
もしこれが天運でないのならば、あの月の始めの厄日を暦から消してくれないでしょうか。
それができないならせめて呪いをかけさせて欲しいです。
先輩と竹沢先輩の偶然の出会いを演出してくれた生徒会の冗長な反省会に。
他人事のように言いたい放題やっていた役員の非難のお蔭で先輩は帰りが遅くなり、
あの憐れな羊を見つけてしまいました。
先輩の性格上、一度関わってしまった以上はそのまま捨て置くなんてできないません。
出会ってしまえば避けようがなかったのです。
それが先輩の本質であり、長所なのですから。
――先輩、私はあなたのその類まれなる責任感を誰よりも評価していますから。
悪態をつき、愚痴を零し、怠惰を熱望し、無気力を演じても、私にはわかります。
照れ隠しや空気を和らげようとした振る舞いの裏に隠された先輩を、私だけがわかっています。
文書作成やコピーのような味気ない雑用を、膨大に押し付けられる日々。
職務怠慢な委員達を抱え、途方に暮れた委員長と副委員長。
何だかんだ言っても先輩はその立場から決して逃げたりはしませんでした。
責任を放り出したりはしませんでした。
それは、前年度生徒会役員で、仕事のノウハウを知っていた私に教えを請うほどです。
上級生が下級生に手取り足取りの指導をお願いしたんです。
文章のレイアウトや印刷機の使い方のような単純な知識でしたが、先輩は進んでそれを学び、
頼れる後輩として私に多大な感謝と信頼を寄せてくれました。
愚痴りながらも熱心にキーボードを叩き、同時に私を褒めてくれる。
そんなどこか抜けているアンバランスさも先輩の魅力だと思います。
そして、先輩のその姿勢はもうすぐ任期の終わるこの時期になっても変わりません。
そうやって、私と先輩は、私が先輩をリードする形でひたすら二人三脚を頑張ってきたんです。
だからわからないはずがないんです。
無遅刻無欠席は最早義務、毎日放課後まで雑務に追われ、自宅でも持ち帰ったデータを検討し、
受験生なのに夏季休業の大部分を犠牲にしてまで身を粉にして働いている。
そもそも三学年は勉強に専念していいことになっており、参加は個人の自由なんです。
そこまでしていて、
私が先輩のお粗末な欺瞞を見抜けないはずがないじゃないですか。
先輩の真の姿に魅せられないはずがないじゃないですか。
先輩が好きにならないはずがないじゃないですか。
信頼しあった二人が恋に落ちるのは自然な流れです。
職場結婚は常に婚姻理由のトップになっています。
……この間見たテレビでは二位に転落してましたがそれは何かの間違いです。
そう、職場で頼れる上司に部下がころっといってしまうのは恋のお約束。
立場が逆になってますが、私に先輩が転んでくれるのは決定事項。
――しかしそれだけに、先輩の責任感を悪用するような遣り方を承知できるはずもありません。
騒々しく、まるで開戦を勧告するサイレンのように。
合成音声のチャイムが学校中に木霊しました。
――先輩に約束を反故にされたのはこれが初めてです。
定例会議はとっくに始まってしまっています。
……この合図でも無理なら、恐らく今日はもう先輩は私のことを思い出してはくれないでしょう。
どうしようもありません。いくら先輩だって混乱状態では正常な判断は難しいに決まってます。
全てはあの人の責任なのです。
一抹の寂しさと未練さえも外面から覆い隠し、私は踵を返してこの場を離れます。
――――けれど、それは決して負けを意味するものじゃないですよ。
先輩せんぱい幸平先輩。
まずは名前で呼ばせてくださいな。
あなたの優秀な部下は、あなたの唯一のパートナーは、あなたの親愛なる後輩は、
あなたに依存するだけのあの人の存在を許容できません。
先輩を悩ませるだけの人なんていなくなっちゃえばいいんです。
先輩に負担をかけるだけの人なんて消えちゃえばいいんです。
心からそう願います。他の誰でもない、私が先輩の隣で役に立ちたいんです。
だけど私は沈黙します。沈黙してあなたを見守り続けます。
先輩は苦しみの中で何時も私に助けを求めてくれました。信頼を置いてくれました。
あなたに必要とされる事が、私の存在意義なんです。
あなたが求めてくれるなら、例えこの身さえも喜んで投げ出すのが私なんです。
依存は愛じゃありません。そんな愛は認めません。
だから先輩があの人を見捨てようと、それは責任の放棄ではありません。
世界の真理です。世間の常識です。社会の通念です。気にしてはいけません。
私は待っています。
先輩が、そんな枷を放り捨て、私を愛してくれるのを。求めてくれるのを。必要としてくれるのを。
私は竹沢先輩と先輩、二人の役者の依存と憐憫が織り成す茶番劇のたった一人の観客です。
開幕に心から震え上がり、成り行きを固唾を飲んで見守り、閉幕に大仰な拍手を捧げます。
劇中から排除された、ただ沈黙するだけの外部の存在。
しかし全てが終わったとき、疲労困憊の役者が駆け寄るのは私なんです。
歪んだ関係の末路で、あなたを受け止めてあげるのは私なんです。
―――――それは、間違えないでくださいね。
リノリウムを淡く照らす西日が、まるで天から降り注ぐ祝福に思えます。
私との約束を忘れてしまうくらい竹沢先輩の依存は悪化しているようです。
そろそろ先輩がそれに関して相談を持ちかけてきてくれることでしょう。
先輩が私に堕ちてくれる第一歩です。
ここまで半月もかかってしまいましたが、ようやく成果が出始めようとしているんです。
覆い隠した感情を凌ぐほど、今にも小躍りを始めそうなほどにうきうきが溢れています。
――折角ですから、痛んだ心の空洞を塞いでくれる手段も合わせて探しておきましょう。
私は無人の廊下で、初めて無表情を崩して微笑みを浮かべました。