「……、っ、む、ぁ……っ」
酷い頭痛だった。
内側から、がんがんと、鈍器でなぐられているかのよう……、ぅ、っ?
鈍器で、なぐられる、……っ!
そ、うだ、俺は……っ。
意識が――はっきりと、してくる。
ぼんやりとしていた光景も、確かな線を、結ぶ。
「む、ぅ……ん、んっ!?」
壁には真っ赤な文字で、……憎悪の言葉が刻まれている。
先輩の部屋だ。
(喋れ、ない……っ? 声が、ぅ、嘘、は、ぁ……っ!)
口元に違和感が、ある。
なんだよっ……? ぴったりとした、この感触、は。
ガムテープ――、かな、これは。とにかく、剥がして……、?
(あ、れ……ぇ)
両腕が――動いてくれない。
見ると、俺は椅子に座らされていて……両方の手首が、椅子の脚の部分に、
縄みたいなモノで縛られていた。
足首も同様に……さながら、罪人の、ようだ。
(は、はは、ははっ)
――動けよ、俺の、両腕。
ぎしぎしと、椅子が揺れるだけで、びくともしない。
頭痛が悪化する。
ふと、壁の、真紅の文字を、見て……ぁ、ああっ。
「む、ぅぅうう――っ! んん、ぅ、ん――っ!」
嫌だ。ああ、ああああああああっ!
死ぬ、し、ししししし死ぬ、ぅ、あ、ぅあっ!
外れろよ、外れ、外れろよぉぉおおおおおおぉぉぉぉ――っ!?
「むぅぅ――ぅっ! う、ん、んぅぅうううっ、んぐぅっ」
バランスが崩れ……椅子と一緒に、仰向けに倒れてしまう。
「ぐ、ぅ……っ」
――駄目だ。
声は出せない。身動きも、封じられた。
俺は……、いたり先輩になぐられて、気絶して……、そして、今。
監禁されている、のかっ……?
時計を見上げると……、もう十時、か。
だいぶ気絶してたみたいだな……はは、情けないなあ、俺って。
きゅる、るるぅ。
――腹から、耳障りな、音。
(腹、減った……な、ぁ)
呆れる。
こんな状況なのに、俺は、なにを……。
(……っ、! あ、足音……っ?)
やばい。
に、逃げないと、でも縛られてる、無理、無理だ、でもいたり先輩が、このままじゃ――っ。
無意味だとどこかで悟りつつも、それでも両腕と両足を精一杯動かそうとする。
椅子の脚がぎしぎしと鳴るだけの、無駄な、行為。
足音が止まって――ドアが、開く。
「あ、エースケくん、起きてる」
「……む、……ぅ」
パジャマのままの、いたり先輩が……。
にこっと、……罪悪感など欠片も滲ませない、純粋な嬉しさだけの笑顔を、浮かべた。
怖い。
じ、自分が、今、なにを、やってるのか……、わかって、ないのかよっ……!?
異常だ……っ。興奮した様子さえ見せない、その平静さが、逆に。
「んふ、ふふっ……、そんな、仰向けに転がっちゃって……可愛いんだぁ」
「……っ、ぅ……」
にこにこしながら、先輩は屈んで、椅子を立たせてくれた。
「そろそろ起きるかなあって、思って、お夕飯用意してたんです。えへへっ……、持ってきますね」
(夕飯……っ?)
これは――チャンスだ。
食事なのだから、ガムテープは当然剥がしてもらえるだろう。
(つまり、会話ができるって、こと……っ)
とにかく話すんだ。
そうすることで、制限された身動きをとりもどす。……無理だと思うな。
や、やらないと、どうなるか、……わからないんだぞ。
静かに……生唾を、嚥下する。――再び、足音がちかづいてきた。
「じゃあ、外しますね……ん、しょっ」
「っ、……ぁ、はあ、っ」
呼吸がだいぶ楽になった。
「さっきは、エースケくんが食べさせてくれたので……今度は、私が食べさせてあげますっ」
「ぅえ……っ? ぁ、ああ……っ」
スプーンで、持ってきた皿から何かをすくう先輩。……シチューだろうか。
――泣きたくなった。
料理はとても温かそうで……、なのに、いたり先輩は、こんな、こと……っ。
変わってしまった。
俺が、……悪いんだろうか。
(い、今は……そんなことより、も)
後悔している場合じゃない。
「ぁ、の、先輩」
「ふぅ、ふぅう――っ。あ、はい、冷ましましたよっ」
ずい、と口元に突き出される、スプーン。
「はいっ。あ――ん……うふ、ふふっ」
「ぅあ……そ、の」
――、っ! そ、そうだ。
「あ、そ、そう、自分で食べますよ」
「……えっ?」
きょとんと、心底不思議そうに、先輩は首を傾げる。
「だ、から……あの、その、手と足を縛ってる、やつ、外してくれませんか……っ?」
「……、は、ぁ……っ?」
一度突き出した銀色の先端を、皿に戻して。
「エースケ、くん?」
「は、ぃ……っ」
いたり先輩は、両手で、優しく俺の髪を撫でながら……っ。
「そんなの……ぁ、はは、ぁっ。――駄目に、決まってるじゃないですか」
そう、言い切った。
「ぇ、え……っ?」
俺は――まことに最低だと思うが、先輩なら、優しいいたり先輩なら。
他人からお願いされると、きっと断われないって……、勝手に、信じ切っていた。
(いや、いや、いやいやっ! 違う、違うだろ)
言葉は自身に返る。
――無理なことは無理っ! 嫌なら嫌ってはっきり拒絶するっ! わかりましたね、先輩っ!
俺が……、言ったことだ。は、ははっ……?
「大体、食べるだけなら両手で十分じゃないですかぁ。
……なんで、足も外してほしいんですか、ん、んっ?」
両手で俺の顔面を固定したまま……先輩の、顔が、迫る。
視線すら逃げられない。濁った眼球が、俺の汗だくの表情を、映していた。
「なんで、って、ぇ、えっと、ぅ……」
「歩けるように、なったら……、エースケくん、きっと逃げるんでしょう……っ!?
そうですよねっ? 違いますかっ!?」
「ぁ、う……っ」
今にも、殺すぞといわんばかりの尖った眼差しに……言葉を、失った。
「エースケくん、見ちゃいましたから、私の部屋。――絶対に入っちゃ駄目だって、私はっ!
言った、のに……ねえ」
先輩の細い指先が、俺の頬で、蠕動する。
「ご、ごめん、なさい」
「あはははっ。――必死に謝ってるエースケくん、可愛いぃ……ぁ、む」
「ぅ、むぁ――っ」
口を、口で塞がれる。
いたり先輩からの、キス。
「ん、むぁ……ん、ん」
貪るみたいに……先輩が、舌を、絡めてくる。頭が、熱く、なる。
されるがまま――ぴちゃぴちゃと、ぬめる音だけを、聞いていた。
「ぅ、んぁむ……せん、ぱ、い、やめ……っ!」
「ぁむ、ん――なんで、エースケくんは、嫌がるんです……っ?」
「こ、こんなことは、恋人同士が、やることで……、っ」
「じゃあ付き合えばいいんです、私たちっ! ね、エースケくん、大丈夫です、
前のことは忘れてあげますから、私と――っ」
「、っ……こ、の、いい加減にしろよぉ――っ!」
限界だった。存分に溜め込んだ怒声を、一気に迸らせる。
びくっと、また俺の口を塞ごうとしていた先輩の動きが止まって……一歩、俺から、後退する。
「俺は、有華が好きなんですよっ! だからいたり先輩とは、キスなんて、したく、ないし……、」
それでも。
「けど、いたり先輩が、俺の一件で体調崩してるかもしれないって思ったら、
すごく、心配で、ぇ……っ」
嘘じゃないんだ……そこには、偽りは、ないんだ。
「なのに……こんなの、酷いですよぉ……いたり、せんぱ、いぃ……ぅ、う」
……俺が、悪いんだよ。
入っちゃ駄目って言われたのに、勝手に部屋に入ったり……、いや、もっと、それ以前から。
恐らくは……、あの、屋上での、日から。
「ごめんなさい、俺が悪いんです、ごめん、ごめんなさい、ごめん……、なさい」
情けない。
謝罪しか――この口からは、飛び出さないなんて。
「ふざけないで、くださいよ――ぉっ!」
「ぅあ、痛ぅっ」
熱い。
……シチューを、投げつけられた。
「わ、わた、私は、ぁ、エースケくんに、謝ってもらっても、ちっとも、納得できませんっ!」
肩を、揺さ振られた。
「すきって、いたり先輩が好きだよって、言って、い、言って、くださいよ、ねえっ」
ぐらぐらと。首だけ、上下する。
「あんな、がさつそうな、料理だってまともに出来ない小娘なんかよりも、
わ、わわ、私の、方が、いいです、絶対にっ!」
「……無理だって、言いましたよ、俺は」
わからせてやる。
もう、本当に駄目なんだって……俺が縛られてでも、理解させないと。
「む、り、ぃ……ぇ、えっ? エースケくん、ほ、本当に、ぇ、ぅえ……っ」
「俺は――有華と、付き合ってるんです」
「ぅ、ぁあ……は、ぁあっ! いや、いやです、駄目です無理です、ぅあ、ははははははっ!」
「ぐ、ぁ……っ」
やばい。
く、首が……絞められて、ぁ、がっ……。
「嘘だ、嘘だ、嘘嘘嘘嘘です絶対嘘嘘、嘘吐きエースケくんの嘘吐き、ぅ、へ、へっ」
「い、たり、せんぱ……く、るし、ぃ」
「嘘って、今の全部嘘って……い、言って、エースケくん、言って、くださいっ!
ほら、ほら、言わないと、死に、死ぬ、よぉ……っ?」
あ、ぅあ。
そうだ、首、ゆるめないと……喋れないですもんね、はは、は。
「ほら、これで喋れますよね、はやく、言って、ください」
手をはなす。
さあ、これで、ちゃんと喋れますよ……はや、はやく、ぅ。
「ぐ、ぇ……げ、ほっ……、む、り、ですよ、ぅえ……っ」
苦しげに。
けれど確実に……エースケくんは、そう、言った。
ふ、ふふ、ふぅ……ん。
そうですか。
――そこまで、私に、意地悪しますか。
だったら。
私も、……やり返しちゃいます、からね。
「……ひ、ひ、ひぃ……ぅぁあは、はっ」
机の上の、ガムテープを、手に。
それで、再びエースケくんの口を封じる。
「む、ぅ、ん……っ!?」
これで、もう、エースケくんから悲しい言葉を聞くことは、ない。
……騒がれて、隣室に異常を察知されては、いけない。
続いて、縛りがゆるんでいないかをチェックする。……問題は無いと思うが、
もう一度、思い切り絞めなおす。
「ん、ぅんっ」
「ぁ、ああ……痛かったですかぁ? ふ、ふふ、ごめんね、エースケくん」
けれど。
先に痛めつけたのは、エースケくんなんだから……当然の、むくい、なんですよっ?
そこ、わかってるんですか……っ!?
苛立ちを抑え付けながら、エースケくんの正面に、回る。
頬に、触れながら。
「諦めませんよ」
「む、ぅ――んっ……!?」
時間は、たくさん、あります。
「あんな害虫が好きだ、なんて……ああ、かわいそうな、エースケくん」
「ん、……っ!?」
「きっと病気なんです。とても、悪い……でも、大丈夫、
は、ははぁ、だい、じょう、ぶ、だよぉ?」
少し、荒療治に、なりますけど。
「なにを、してでも……エースケくんの、気持ち」
「私に、振り向かせ――ますから」
だから、エースケくん。
――覚悟して、ください、ね……っ?