疾走 第19話A
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 部屋は暗かった。
 それでも次第に、眼球が環境に適応して……おぼろげに、何かが、見えてくる。
「……、足元に、なにか」
 靴下を通して、僅かだが、フローリングとは違った感触。
 しゃがんで指先を床にさまよわせる、と。
「――は、ね……っ?」
 いや、違うか。羽毛、か。
 そこでようやく、その闇を見渡す。
「お、お……、ぅ?」
 なんだ、これは。
 羽毛がフローリングの床をおおっている。
 何故か。
 小奇麗な純白の布団と枕が、引き千切られているからだ。
「、うわ、わ、ぁ」
 まともな言語を吐き出せないくらいの、驚愕。
 ベッドにちかづいて、件の二つを、もっと観察して見る……、と、これは、ひどい。
 道具――包丁とか、とにかく刃物……引き裂かれていない箇所をさがすのが困難なくらい、
 表面を傷めつけている。
 そして中身を、全部取り出して、部屋のあちこちにばらまいて――っ?
(これ、いたり、先輩がっ……?)
 何故だろう。
 こんなことを、する理由……俺には、わからなかった。

 さっきから自分の鼓動がうるさい……、なんで、うるさい……っ?
「お、わぁっ……、と」
 なにかに、躓いてよろめく。
 見下ろすと――これは、ぬいぐるみ。
 色は、見えない……、ただ、なにか動物らしき……熊、かな。
 拾って、全身を確かめようと……、んっ?
「腕が……千切れてる、な、これ」
 いや、右腕だけじゃない。
 鼻は潰されて、片目は見当たらず……、眼窩の奥には、綿だけが、ある。
 その熊はそれでも――にっこり、笑っていて、逆に不気味だった。
「う、ぁ」
 びっくりして、壁に投げ飛ばす。
 叩きつけられた熊は、無機質な笑みを張り付かせたまま……、引き裂かれた布団に、沈んだ。
 まるで……ぬいぐるみで再現する、狂喜の、殺人、現場。
 おかしい。
 この部屋は――変だ。

 テレビは、横に倒されていて……いや、まるで蹴り飛ばされたというか。
 割れた花瓶らしき物体と萎れた一輪の花は、双方片付けられずに床にちらばっていたり。
 雑誌や、文庫の本などにいたっては……数多の頁が破られて、いた。
 まるで……、暴れ回った、事後の、まま。
 暴れ回ったという表現だけでは足りないくらいに、徹底的に、
 部屋のあらゆるモノに怒りを叩きつけて……、怒りっ?
 怒ってる、のか、先輩――っ?
 そもそも先輩がこれだけ荒らしつくした、という確証なんて、ないんだけど。
「机の、上も、ぐちゃぐちゃっ……、あれ」
 へし折れた文房具に埋もれるようにして……それは、あった。
 両手で、拾う。
「うん……っ? なんだろう」
 文字が見えづらい……手触りは上品な表紙。
 携帯の電源を入れなおし、液晶の僅かな明るみで、
 表紙の文字を読み取ろうと……っ、お、なになに。
「――あ、ぅあ……っ?」
 そこには、確かに、こう書かれている――。

 

 『私の、エースケくん』

 

 ぼうぜんと、しながら。
 俺は震える指先で……頁を、繰る。

 ○月○日 くもり
 今日のエースケくん。
 六時二分に帰宅する。
 いつもより、少し遅いのは……夕飯の買出しだろうか。
 知りたい。

 ○月○日 晴れ
 今日のエースケくん。
 六時十六分に帰宅する。
 まただ。また遅い。
 なにを、しているのかなあ、エースケくん。
 私はこうして、ずっと待っているのに、まだ名前を呼んでくれない。
 寂しいです。

 ○月○日 晴れ
 今日のエースケくん。
 五時には帰宅する。
 宿題でうんうんと悩んでいる様子は、抱き締めたいくらい、可愛い。
 思わず這い出したくなる衝動を抑えるのには、苦労する。
 はあっ……可愛いよ、エースケくん。

「な、ん、で……っ!?」
 冷静に――と、とにかく、落ち着けよ、俺……っ。
 こんな、こんな情報の量だぞ……っ!?
 妄想、はったり、そ、そうに、決まってるじゃないか。
 大体鍵は、鍵は、俺がちゃんと――っ?
(待て、よ……っ?)
 お、俺――ちゃんと、確かめたっけ……、え、ぇ。
 あの時は……冷静じゃなかったから、よく確かめないで、鍵、ひったくったような……、?
 握った感じは、鍵だったような……。
(俺、確かめるの、忘れてた……っ?)
 いたり先輩から鍵をひったくってから、……その鍵が、俺の家の鍵穴にちゃんと入るのか……
 俺は、確かめ、なかった。
 なら。
 ――あらゆる可能性が、脳裏に発生しては、ぐるぐると渦巻く。
 だとしたら、この日記は全部事実で、いたり先輩はじゃあ俺の様子を何処から、
 ばれないように、うかがう……っ?
 俺の把握していない未知の領域から、視線が、飛んでいた……は、はは、あははっ……ぁ?
(そんな、まさ、か……っ?)
 とにかくと、唾を嚥下してから……っ。
 頁を繰る作業を、再開する。

 ○月○日 晴れ
 今日のエースケくん。
 五時には帰宅。
 帰宅してから五分後に、チャイムがなる。
 あの女だ。
 部屋に入ってくると、エースケくんと一緒に勉強を始める……。
 ずうずうしい……私とエースケくんだけの聖域を、勝手に侵さないで、ほしい。
 夕飯まで食べていく。
 お前は路傍の雑草でも齧っていろ。それがお似合いです。

 ○月○日 晴れ
 今日のエースケくん。
 五時には帰宅。
 が、今日は着替えると、またすぐに外出する。
 ――なんの、用事なんだろう。
 ぐつぐつと煮え滾るこの感情は……うん、殺意ですね。
 エースケくんの、弁当箱をこっそり抜き取って、お箸をなめました。
 エースケくんの味がするよ。

 ○月○日 晴れ
 今日のエースケくん。
 またあの女がのこのこと来訪する。
 しかも、今日の夕飯はあの女が用意するらしい……。
 大変。
 そんな汚物を無理矢理食べさせられるエースケくんが、とてもかわいそうです……。
 私の名前を呼んでくれたら、すぐに助けて、あげますのに。

 ○月○日 晴れ
 今日のあの女。
 またお前か。
 いい加減に、して、ほしい。
 自分の食事くらい己で用意しろ、阿呆みたいに口を開けて待つばかりの雛ですか、そうですか。
 ……お前が雛だったら、私が軽く、握り潰して、やれるのに。
 それだけが、本当に残念です。……潰したい、潰してやりたい、むしろ潰れろ。

 ○月○日 晴れ
 今日のあの女。
 また来た。お前は寄生虫か。
 今日から、呼称を害虫と、する。
 世界の害虫さん、ごめんなさい。でも踏み潰したいくらい憎たらしいから、許して下さいね。
 あと、今日もエースケくんの寝顔は最高に可愛い。
 キスしようと思ったけど、やめました。
 やっぱり、エースケくんから、されたいから。

 ○月○日 晴れ
 今日の害虫。
 くたばれ、の一言に尽きる。
 ――包丁。ベッドの下に、常備しておこう。

「――、……、――っ」
 ベッドの……下。
 ははっ、あはは――嘘だろ、そんな、まさか。
 内心を否定の言葉で満たしつつ、急かされる様に、俺は頁を繰っていく。

 ○月○日 くもり
 今日の害虫。
 やって来ない。
 とても、いいことだ。
 もう来るな、部屋が腐る。

 ○月○日 晴れ 私の天気は、血の雨
 リビングから楽しそうな話し声。
 十中八九、あいつだ。
 一緒に夕食。
 ――空腹だった。
 物理的にも、精神的にも……飢えている。
 なんで。
 あの、あの忌々しい女が居座っている位置に、私は、存在しないんだろう。
 死ねよ。
 消えろ、消えろ、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね――。

 ○月○日 死ねくたばれ
 エースケくん、帰ってくるのが、遅いですよ。
 早く名前呼ばないと。
 ――這い出します、よ。ふ、ふふ。
 あと、疲れてるからって、テレビをつけっぱなしで寝るのは、駄目ですよ。電気、勿体無い。
 そんな、不意に見せるだらしなさも……可愛いんですけどね。

 ○月○日 殺そうと、思った
 ああ、ああああああああああああああ――っ!
 このぬいぐるみが、あの女、女だったら、ああ、糞、千切れろ、千切れろっ!
 部屋が半壊した。
 それくらい、しないと、収まらない。……あんな、害虫と、繋がる、なんてっ……!
 ――少し、落ち着きましょう。

 一ヶ月が、経過しました。
 エースケくんは、とっても可愛いです。
 椅子の上で背筋を伸ばしていたらバランスを崩して転げかけたり、
 苦手な教科の宿題に、うんうん唸りながら苦戦する様子とか。
 欠伸のときの声なんか、もう……駄目です。とにかく大好きです。
 けれど、近くて、遠い。
 名前を――呼んでください。
 寂しい。
 寂しいです、死にそうなくらい寂しいです。
 いやだ、いやだいやだいやだ――。
 いやだから。
 もう、ベッドの下から這い出そうという衝動は、抑えられません。
 そうです。
 いっそのこと、占領しましょうか。
 エースケくんの四肢を封じます。
 鍵は全部閉めます。カーテンも。電話も邪魔です、断絶させましょう。
 あの女がたずねてきたら――はは、そうです。
 殺す。
 そして。
 エースケくんと、私の、二人だけの空間が。
 エースケくん。待っててくださいね。
 ちょっと、この頃体調悪いですけど……これしき、軽いです。
 エースケくん。
 待ってて、エースケくん、エースケくんエースケくんエースケくんエースケくん
 エースケくん――。

「――殺す、ぇ?」
 誰を。
 ……誰、がっ……?
(ぁ、嘘、ぇ、え、うぁ……っ?)
 とにかく。
 とにかく――まずい。
 ここは、開くべきじゃなかった。俺は最悪の、一等の地雷を、完璧に踏んでしまった。
 それだけは……理解する。
「、あれ、ぇ?」
 瞬間。
 かちりと物音――同時に、部屋が。
 明るく、なった。

 

「――エースケくん」

「っ、は、ぁ……っ!?」
 背後から、声。
 しまっ、た……っ。
 誰かなんて……振り返らないでも、わかる。
「絶対に入るなって……言いました、よね」
「ぁ、う」
 言った。
 そして――俺がそれを破ってしまったのは、事実だ。
 ……改めて、振り返らずに、明るくなった部屋を見回す。
 散らばる羽毛に千切れた頁。
 解体するように抉られている、布団と枕、ぬいぐるみ。
 ――ぞっと、する。
(……ぁ、れ)
 壁を、横目でうかがった。
 さっきまでは暗かったのでわからなかったが、なにか、文字が、書いてある……っ?
 赤い、太い、字で。
 部屋の壁の、天井を除くあらゆる部分に――。

 

 死、死ね潰れろ死ね死ね消えろ殺す千切る死、死死死死死――。

 

 呪詛が。
 刻まれていた。

「あ、ぅああああああああ――っ!?」
 悲鳴は、自分の声だった。
 その場で、腰から座り込んでしまう。……日記が、床に落ちた。
 今まで、こんな呪われたみたいな、部屋に、お、俺……っ?
 血みたいに、赤い、これ、これ……っ!?
「だから入っちゃ駄目ですよって、言ったんです」
 首だけ、振り返る。
 嬉しそうに……笑う、先輩。
「ぁ、の、お、俺……っ」
「でも、ちょっと嬉しいんですよ、私……大好きなエースケくんに、
 部屋に忍び込まれて、あは、はっ」
 屈んで……俺が落とした、日記を、拾う、いたり先輩。
 片手でそれを抱きながら。
「駄目じゃないですかぁ。もぉ……勝手に読んじゃったら、ねえ、ふ、ふふ、ふ」
「ご、ごめん、ごめん、なさ……ぃ、あ、ぅ」
 謝っている場合じゃない。
 謝罪なんて――いくら重ねても、今のいたり先輩には……無意味、だ。
「許して、すみ、ま、せん、ごめん、ごめんなさ――」
「駄目です」
 一言で、切り伏せられる。……やっぱり。
 ゆっくりと……近付かれる。後ずさる。
 ――やがて、背中が壁と衝突し、退路が、零に。
「大丈夫です。ちょっと痛いかも、ですけど。私がちゃんと、エースケくんを、
 正気に戻しますから」
「ま、って、くださいっ。落ち着いて、ちゃんと、話しを、」
「わた、わわわわたしは落ち着いてます。おかしいのはエースケくんですっ!
 大丈夫、大丈夫です、ちょっと、ちょっと寝るだけ、眠るだけ――」
 言いながら、背中に回していた片手を、正面に……。
 フライパン……っ?
 あは、はは、ははっ……あ、あれで、殴られたら……痛い、痛いよな。
 ――冗談じゃ、ないぞ。
「ぅ、あ――っが」

 

 がごん、……。
 砕け……、ぁ、が、いた、ぃ……ぁたま、ぃた……っ。
 タテナイ。
 たたないと……ぃたい、やめて、なんかいも、ぁたまを、たたか、ない、で……っ。

 

 しかいが、とじる。
 ハアハアと、あらいこきゅうの、せんぱいが。
 にやりと、わらった、ような、……。
 ぐ、がっ。

「や、った……ぁ……っ?」
 ぐったりと、床に倒れこんだまま動かないエースケくんを見下ろして……呟く。
 一発じゃ、やっぱり気絶してくれない……結果、何回も、蹲って痛がるエースケくんに、
 何回も、やっちゃった、けど。
「は、ぁ……はあ、ああ、ああ、はっ」
 顎を伝う汗を拭いながら、武器をベッドに放り投げる。
 やった。
 ――思ったより、容易かった、です、けど……とにかく。
「エースケ、くん……」
 これで。
 私の、私の、モノです。
 ど、どどどどどうだ、あの、あああああああの害虫女、はは、あははははははっ!
 だだだ大丈夫、ゆっくり時間をかけて、せ、せせせ説得すれば、エースケくんも、
 き、気付いてくれるっ!
 うふ、ふ、はは、ははぁ――あ、ははっ!
「あぅ……う、うふ、ふふふ、ふふふふ――エースケ、くん」
 これから。
 は。

 

「私が、いっぱい、いっぱい……愛して、あげます、から……ね」


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