疾走 第20話A
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「おぉうっ」
 高いなあ……流石に、八階から眼下を眺めれば、無理はなかった。
 同じマンションでも俺は一階だから、これは新鮮である。
 おおっ、ここから学校も見えるな、凄いぞっ。俺の家は、さて見えるかなあ、なんて。
 などとはしゃいでいる場合では断じて無かったり、する。
「よ、よしっ」
 表札には、『瀬口』の、文字。何度確認してもそれに間違いは、無い。
 到着してから五分は経過したか――いい加減尻込みしているのも女々しくして情けないっ。
 押せ、チャイムを鳴らすのだ……っ。
「え、ぇえいっ」
 指を伸ばした――瞬間である。
 ガチャリ。
「――ふえっ」
「ぃ、え……っ?」
 ドアが開いて。
 いたり先輩が、眼前に現れたのは……っ!?

「ど、どあっ――!」
 伸ばした右手を引っ込めつつ、奇声。
 なんたる、偶然か。
 まさか俺がいざチャイムを鳴らそうと決心し行動に移した瞬間に――
 あちらから、ドアが開くなんて。
 奇声も無理はない、決して俺がおかしいわけじゃないぞ。……多分、な。
「エ、……スケ、くんっ? あぅ、その、どぅして……っ」
 いたり先輩があたふたするのも無理からぬ反応だった。
「い、いや、その――ええっと、生方先輩に、届け物を、頼まれまして……っ」
「さくちゃんに、ですか」
「そうなんですっ。テスト近いから、いたり先輩風邪で三日も休んでたそうですし、
 ああ風邪って言えば、ビタミンCが、いいらしいですので……っ」
 お、俺はなにが言いたいんだ……っ。狼狽する自分がさっきより情けない。
 鞄から拙い動作で見舞いの品の果物と、生方先輩から預かった三冊のノートを取り出す。
「こ、ここ、これです、はいっ!」
「あ――りがとう、ございます」
 いたり先輩にそれらを持たせる。やや強制的に。
「そ、それじゃあ、俺はこれで――っ」
「……あ、ぅ」
 なにか言いたげないたり先輩の視線に背中を向けて、俺は……っ。
 そのまま、走って――っ。

 ち、違ぁ――うっ!
 なにを、決意したってのに、俺は今なにを考えて……っ?
 今日こそはちゃんといたり先輩に、理解してもらうって、決心したんだろう。俺よ。
「あ、いやぁ、それで、ですね……っ」
 ゆっくりと、振り返る。
 ――改めていたり先輩の顔色をうかがうと……、傍目でも、熱っぽいと判断できた。
 顔の全体がやや紅潮しているし、額も汗ばんでいる。
「あの、先輩……、体調は、どうなんですかっ?」
 というか。
 病人なのに、いたり先輩は――何処に、行こうとしていたのだろう。
 俺がチャイムを鳴らす、それ以前にドアを開けたということは……
 何処かに、出かけようとしていた、ということ。
「体調、ですか……ぁ?」
 常の以上に間延びしている、返答。
「だ、大丈夫ですよぉ、ちょっと熱っぽいだけで……その、だからエースケくんがお邪魔しても、
 まったく構わないというか……っ」
「――すいません。ちょっと、失礼しますね」
 今の状態で、大丈夫などと言われたってちっとも信用できない。ならば自分で確かめる。
 かみがた変えたんだよなあ、今のも似合ってる……なんて思いつつ、髪をのけてから、
 額に手の平を密着させた。
「あ、う、え、ええっ! ……は、ぅう」
「――あ、熱いですよ、それもかなりっ」
 手の平を離してから、しかりつけるように言い聞かせる。
 まったく……こんな体調で、外出しようなんて、許可できる道理は転がっていない。
「何処に行こうとしてたのかは、知りませんけど……駄目ですっ!
 寝てないと駄目じゃないですか」
「は、はい……ご、ごめんなさい」
 しゅんと、胸に袋とノートを抱えながら、いたり先輩は俯いた。
「それと――ちゃんとご飯、食べてるんですかっ?」
「ご、はんですか……っ?」
 しばし考え込まれてしまう。
「その、食欲がなくて、あんまり……っ」
「だ、駄目じゃないですかぁ――っ! 病人は、嫌でも栄養取らないと、
 そんなんじゃ治らないじゃないですかっ!」
 信じられない。
 まったく、ご両親は一体どんな扱い方を――っ……、あ。
 そっか……。
 俺と、一緒なんだよな、いたり先輩。
 病気って、言っても――片親で、家では孤独だから、誰も心配してくれなくて。
 俺はまだマシだった。有華がいたから。
 でも――少なくとも、今の先輩は……っ?
「いたり先輩……、あの、家、誰もいないんですかっ?」
「――ずっと、独りですけど」
 やっぱり……。こんな時でも、そうなのか。
 ひどく――俺は、悲しくなって。
「そ、うですか。とにかく……買出しとかだったら、俺がいってきますから、家で寝ててください」
「――あ、その、そ、そんなんじゃないんですっ! ほんと、大した用事じゃなかった、ですから」
「……っ? そうなんですか」
 まあ、問題はそんな用事なんかではなく……。
「とにかく栄養取りましょうっ! 消化しやすいの作りますんで、
 台所、借りますね――お邪魔しまぁ、す」
「う、うぇっ……? あ、あの、エースケくんっ!?」
 強引にお邪魔させて頂くっ。腕まくりしつつ。
「ああ、先輩は食材の場所とか教えてくれるだけで結構ですんで、横になって待っててください」
「あ、あああああの、それって……」
「はい。今日のところは、俺の料理で我慢してください……って、ことで」
 まあ――話すのは、それからでも、遅くないだろ。
 それにこれくらいのことはしてあげても……悪くは、ない。
「よぉし」
 そうと決まったら。
 まずは、気合入れて、先輩の舌に見合うモノを作らないと。

 気合を入れるとは豪語したものの……まあ、おかゆなんだが。
 先輩はいまだに信じられないという表情を張り付かせたまま、俺に食材の場所を教えると、
「き、着替えてきますっ。部屋には絶対に入らないでっ! お願いしますっ!」
 かなり真剣な視線と声で俺に厳命すると、自分の部屋に戻り、次に出てきたときは、
 なんとパジャマの格好だった。
 ピンクの、サイズが合っていないのか、ややだぼだぼな……っ。
「あ、のう……部屋で寝てて、結構ですよ、出来たら持っていきますから」
「嫌ですっ! ――エースケくんがお料理してるところ、見たいです。……駄目ですか?」
 別に面白くないのになあ……。
 そして、おかゆが出来上がるまで――物凄くニコニコと、ねつっぽそうにしながら、
 いたり先輩は俺の背後にぽつんと立って、俺の調理を眺めていた。
「出来ましたよ……あの、だから、テーブルいきましょう、ね、先輩っ」
「うへっ、えへっ……料理、エースケくんが、私だけに――えへへへっ、あうぅっ!」
 真っ赤な顔で、弛緩しきった両方の頬を両手で押さえながら、
 やんやんと首をしきりに振っている……っ。
「あ、あのぉ……聞いてますか、先輩」
「――ふぁっ!?」
 ぱっと、真っ赤なお顔が俺とようやく対峙する。
「座ってください、出来ましたから」
「は、ははは、はいぃ。それはもう、はい、座りますよ、私っ!」
 テーブルまで疾走すると、先輩はきっちり背筋を伸ばして、なんと正座する。
 ……正直、そこまで気合入れて座ってもらえるとは、思いませんでした。
「器、熱いですから、注意してくださいね……はい、スプーン」
 置いて、木製のスプーンを手渡す。
「は、ははは、はい、はい」
 受け取って、しきりに頷く先輩。
 さっきから様子がかなりおかしいが……む、そんなに出来栄えが悪かったかなあ。
 少しショックだったり。
「そ、それでは、あの、いただきます」
「どうぞ」
 だが味は、悪くないはずですよ、うん。
 まずは少量すくい……っ、あれ? 手の、動きが止まった……っ?
 見ると――ぼうっと、すくったおかゆを見つめたまま、半口を開けて動かない、いたり先輩。
「ど、どうかしましたかっ!?」
 そ――そんなに、不味そうですかぁっ!? 食べるのを躊躇うなんて……っ!
 少しではなく、多大なショックに俺はうちひしがれる。まだまだ、だな、俺ってやつは……。
「だ、めです……も、……い、です」
「――えっ」
 なにか言ったのが、僅かに聞こえる。
 ……何かが。
 ぽとりと、おかゆの、上に……落下した。

 涙が。
 その、何かの正体だと理解するのには……、結構な時間を要したように、思う。
「勿体無くて……ぅ、ひっ、ぐ……た、食べれないです、私、えぅ……ぅ、あ」
「せ、せんぱ――いっ?」
 なんで。
 そんなに、嬉しそうに――泣くんですか。
 いたり、先輩。
「う、ぁ……あ、ぁ……」
「え、えっと、その、いたり先輩……」
 とまどうことしか出来ない、俺を尻目に。

 

 あ――ん、うあぁ――ん……っ。

 

 スプーンは、落とし。
 泣き顔も隠さずに、……転んだ、幼い子供みたいに。
 いたり先輩は――純粋に、泣き出したのだった。

 いたり先輩が泣き止んだのは……おかゆが、冷めてしまって、それでも足りないくらいの、
 時間が経過してから。
 その間に俺はどんな行動に至っていたのかと、問われると――。
「そ、そんなに不味そうでしたか、す、すみませぇ――んっ!」
 テーブルに額をこすり付けつつ何故か謝ってみたり。
「そ、そんなに泣いちゃったら死にますって、だから泣き止んでくださいよぉっ!
 お願いですからぁっ! す、すみませぇ――んっ!」
 テーブルに額をこすり付けつつ何故か謝ってみたり。
「な、なんでも言うこと聞きますから、お願いです、泣くのは勘弁してくださいっ!
 俺が悪いんです、す、すみませぇ――んっ!」
 ……テーブルに額をこすり付けつつ何故か謝ってみたり。
 ともかく馬鹿としか形容できない、謝罪の連発。……もっと上手に語りかけることが、
 出来ないのか、俺には。
「ひどいこと、いっぱい言っちゃって、本当に、ごめんなさいっ!」
 ここからは土下座である。……いや、俺が悪いのだから、これは当然なのだ。
「だから、だから、その……っ!」
「――、……て、ください」
 うんっ?
 おお、やっと先輩が泣き止んでくれたかっ!? ま、まあ、まだ若干拗ねたような声色だけどね。
 俺は安堵しつつ顔を持ち上げて。
「は、はいっ。なんですか、先輩っ!」
「食べさせて、ください」
「そ、そうですかっ! なるほど、食べさせてください……ぅ、んっ?」
 何ですと……っ?
 泣き腫らして、潤んだ双眸が、俺のそれと衝突する。
「……なんでも言うこと聞くって、言いました。ですから、あ、あ――ん、って、
 食べさせて、ください」
 人差し指が、冷え切ったおかゆを示している。
 ――スプーンが、俺に、手渡される。
「え、ぇ、と」
 確かに、そんなことも、言いましたけど……っ。
 そ、そんな、行為は……。
 恋人、同士が――やること、なのでは。
「そ、れは……っ」
「――なんでも、言うこと聞くって、言いました」
 う、ぐぅ……っ!
 頬をふくらませて、そんな事を、言われたら……。
「わ、わかりましたっ! でもっ! も、もう泣いたりしないで、くださいよっ!」
「……そんなの、わかりません、ぷん」
 そ、そんなぁ……っ、俺の心労も限界だって、これじゃあ。
 先輩は器を持って立ち上がると――俺のすぐ真横に、座りなおす。
 肩と、肩とが触れ合う……そんな、距離で。
「はい。ちゃんと、全部食べますからね……、早く、してください」
「ぅ、あ……ぃ、はい、はい」
 なんつう展開に、なってしまったんだ。
 俺は――スプーンを、構えるしかない。

「は、はい、いたり先輩……、あ、ぁ――ん」
「あ――んっ」
 もぐもぐと、そしゃく。
 実に笑顔で――先輩は、もぐもぐと、美味しそうに食べてくれていた。
 あ、あと、もう何口かだ、もうちょっと……っ。
 ――俺は駄目だ。
 今日の目的と、今のこの行為は……あまりにも、相反すると理解しているのに……。
 結局は折れて先輩のお願いを、叶えてしまっている。
「……はい、おしまいです」
「はいっ。ごちそう、様でした。――とっても、美味しかったですよ」
 その賞賛も、笑顔も。
 俺には――ひどく、不釣合いにすら、思えてきている。
「そ、うですか」
「エースケくんに食べさせてもらったんですから……当たり前ですよ、……ぇへ」
 そんなに……幸せそうに、俯かないで、くださいよ。
 俺はこれから――あなたに、きちんと説明しないと、いけないことが。
 あるのに。
「――す、すみません。ちょっと、トイレお借りして、よろしいですかっ」
 いたたまれなくなった。
「あ、すみません、我慢させちゃいましたね……そこ、突き当りです」
「ど、どうも、はは、あははっ」
 早々に角を曲がり……まるで、逃げ出すように、だ。
 個室に入ると、鍵を閉めて――考える。
(ちゃんと、話さないと、な……うん)
 そもそも――それが、目的なのだ。
 また先輩は泣き出してしまうかもしれないけれど……、それは、俺が覚悟するべき、当然の事項。
(よ、っし)
 ……こもったのは、二分くらい。
 俺は再度の決意を固めると、そこから出て、先輩のいるリビングに戻ろうと廊下を逆行し――っ。
 それを、発見した。

 ――僅かに隙間のあいている、ドアが、見えた。
(確か……先輩の、部屋か)
 絶対に、入るなと厳命された空間の入り口。そこが僅かに開いている。
 ひどく……、俺は、不謹慎だが、気に、なった。
 女の子の部屋に興味津々、という、理由ではなく。
 俺はなにか、ひどい勘違いを、しているのだと。
 ここをあければ――その勘違いに気付けるんだぞと……、俺という存在の内側に存在する、
 誰かが、告げている……ような、気が、したんだ。
 そして同時に……。

 

 絶対に、開けてはいけない。
 入るなと厳命されたのだから……開くという行為に至ったら、
 見合った代償が貴様に降り注ぐのだぞ。

 

 なんて警告も……聞こえたような、気が、……したような。
 でも。
 ドアは、ちゃんと閉まってないと、落ち着かないじゃないか。うん。
 ドアを閉める、そのついでだって……ちょこっと中をうかがってしまった理由として、
 それは成立するよな、うん。
 自分を必死に正当化しながら。
 ドアに、近付き。
 ノブを回す。
 ――汗ばんだ右手で、俺は、それを……。

 

 開ける。


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