疾走 第14話
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 教室に戻って最初にやったのは、昼食を口内に運ぶ作業ではなく、携帯を取り出すことだった。
 ポケットに突っ込んでおいた紙片を片手に、記載されたアドレスを入力する。
 生方先輩のメールのアドレスが、経緯は複雑だがこうして入手できたのだが……。
 どうしようという疑問が、脳内で暴れ回る。
 ――生方先輩に全ての事情を説明して……いたり先輩を説得してもらうか――っ?
 もう、阿良川瑛丞は谷川有華と付き合っているから、駄目だって。
 だがいたり先輩の『勘違い』は……異常が過ぎる。
 あれだけの罵倒と――最後の、俺から有華への告白。
 それを目前で眺めた後の……。

 

 私は……エースケくんの、彼女になるべき存在です。

 

 ずっと一緒です、エースケくん……っ。見てますから、私。

 

 ずっと……見てますから。うふっ、はは、ははっ……あはは、ははっ!

 

 

「――っ……!」
 廊下に視線を投げる。
 いたり先輩の言葉を思い出したら……寒気と同時に、『見られているかもしれない』という
 想像が生まれたのだ。
 もちろん――先輩の姿は、俺の視線が及ぶ範囲には見つけられない。
 だが……俺の席からうかがえる範囲なんて、絶対じゃないのだ。開け放たれたドアと窓からしか、
 廊下の側は見えない。
 死角は確かに存在する。

 

 死角。
 見えない……未知の範囲。

 

 その単語が、妙に恐ろしく感じられた。
 誰かが用意した料理の数々に、炊けていないはずの白米。
 まだ家にいるかもしれないから捜索した、ベッドの下に、クローゼットの奥。
 連続してよみがえる記憶が……憎たらしい。
 ――携帯の画面を、しばし睨む。
 俺が、いたり先輩の不法な侵入の一件を生方先輩に伝えたら……きっと、なにかが壊れてしまう。
 小僧の分際の俺なんかが壊しても構わないのだろうか――それは。
「駄目だ」
 首を振りながら、携帯を閉じる。
 全部が俺の問題だ。生方先輩を巻き込むなんて、間違っている。
 確かに……いたり先輩は諦めてくれなかったのかも、知れないと、それは認める。
 けれどいたり先輩なら、いつか理解できるって、信じよう。
 ――侵入されて以来神経が過敏だ。だから『見られているかもしれない』
 なんて自意識の過剰を引き起こす。
 パシッと、両の頬を手の平で叩き、気合を入れた。
「気のせいだ。きっと、うん、絶対に」
 そう。
 大丈夫だ。鍵だって取りかえした。
 これから異様に視線を感じても……それは、俺の気のせいなのだ。

 昼休みを越えた先の授業は、教室移動だった。
 音楽である。
 料理は得意だがかなりの不器用を誇る俺にとっては憂鬱だ。
 音痴だし楽器も猿のほうが上手だと言われるくらいに下手だし。
 そんな苦手な時間を乗り越えて、我らが教室に戻る途中に尿意を催す。
「おおい、エースケ。方向逆だぞ」
「トイレだよ。……ちょうど二年のが近いから、いってくる」
 あっそうと、さっさと振り返って友は立ち去る。毎度淡白な野郎である。
 まあいいや……それよりもいい加減限界だ。急ごう。

 ことを無事に済ませ、見慣れない廊下を歩いていると――。
「……っあ」
 思わず立ち止まる。声を吐き出してしまった。
 なにせ――いたり先輩と、ばったり鉢合わせてしまったのだから。
 随分と印象が変わっている。今の髪型のほうが、先輩には似合っていると素直に思えた。
 前髪でやや片目を隠している部分なんか、こうミステリアスというか……っ。
(無視だ、無視)
 胸中で首を左右に振るイメージで。
 俺が――言ったことだ。廊下で擦れ違っても、無視するって。
 痛む胸にも構う必要はない。いたって平静に俺は先輩の隣を素通りした。
「――っ……?」
 だが同時に、先輩も反転する。
 肩越しに振り返ると、じいっと、俺の背中に視線を固定したまま――ついて来ていた。
 ――正直に、苛立つ。そのまま真っ直ぐ歩いていって、俺の認識する空間から消えろよ……っ。
 とはもちろん言わずに、視線を痛いくらいに浴びながら……歩き続ける。
 時々は、俺も振り返る。どうしても先輩の行動は確認しておきたかったのだ。
 二度目の振り返り――っ。
 視線が、重なった。
 赤面して、にっこりと、微笑みを俺に返してくる、いたり先輩。

 話しかけるなと、エースケくんに命令されているので、話しかけません。
 愛しい彼の命令は破りません。
 ――っあ……っ。
 今、視線が重なりました。
 きゃ、きゃあっ……心構えが零だったので、か、顔が熱く……っ。
 顔の筋肉も一気に緩んで、だらしない笑みが勝手に浮かびます。
 こうしているだけで……結構な、幸福。
 けれど――っ。
 何処かに、確かに、物足りなさを抱いています。
 あの、女が――私の欠けている幸福を、奪ったままなのです。

 

 まあ……それもきっと今だけです。
 エースケくんは、ちゃんと気付いてくれます。
 ちゃんと、私の名前を――呼んでくれます。

 

 それに。
 最終的には――私が、気付かせてあげれば、いいだけのことですから。

 

 あは。
 はははっ……あはは。もう、本当に、駄目です。
 エースケくんが、傍にいないと。
 辛くて、辛くて――死にたくなって、きちゃうんですよ。

 知らず――俺は早足になっていた。
 なんだよ……っ。
 俺を監視するみたいに、さっきからぴったりと背後に。
 監視――っ?

 

 私はいつでも見てますから――っ。

 

 その言葉を思い出して……ぞくっと、背筋に悪寒が迸る。
 はは、ははっ。
 嘘だろう。
 まさか……実践は、しないよな。
 ――唾を、飲み下す。
 以後、一度も俺は振り返らなかったが……っ。
 俺が教室に戻るまで、確かに、先輩は俺を――っ。

 

 後ろから追って。
 じいっと、見ていた。


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