疾走 第9話
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「そ、それは……っ」
「まずは俺から返します。――置きますから、あとで勝手に拾ってください」
 なんで、そんな……言外に、信じられないと叫んでいる表情を浮かべるんだ。
 一瞬叩きつけようかと考えたが……やめておく。屈んで、床にちゃんと置いた。
 ……錯乱して投げつけてしまったので、それらの原形はとどまっていない。それでも……持ってきた。
「次は俺の番ですよ……っ。鍵を……返して、くださいっ」
「――あ、あの、でも……返したら、エースケくんの朝ごはんとかお弁当とか、
 置いておけなくなっちゃいます、から」
 愕然とした。
 あんたは俺がついさっき置いたモノが……見えてないのかっ?
「誰がいつそんなこと頼んだんですかっ! おかしいですよ、いたり先輩はっ!」
 怒鳴ることを躊躇わない。
 例え先輩が泣きそうな表情を浮かべても……止まっては、いけない。
「なにしてるかわかってるんですかっ……? 不法に侵入したら犯罪ですよ、わかれよ、
 それくらい自分でっ!」
「ご、ごご、ごめんなさいっ! 返します、返しますから、だからっ……!」
 ポケットから即座に取り出してきたそれを、乱暴に奪い取る。
 手の平に銀色の硬い感触――それを握り締めながら、何度もぺこぺこお辞儀する先輩を、見下す。
「金輪際……俺には、話しかけるなっ……!」
「――えっ……!?」
「廊下で擦れ違っても無視するっ。家にも近付かないっ……わかり、ましたねっ!?」
 俺の言葉が……威力を伴って直撃したみたい。
 いたり先輩は冷や汗と一緒に……地面に、座り込んだ。俺を――見上げながら。
 視線をぶつけてはいけない。有華のほうへ体を反転させ、歩き出す。
「まっ……まって、まって、エースケくん、待ってっ……!」
「――本当に悪かった。ごめん……有華」
「……エー兄っ……?」
 ――止めを、さしてやる。
 背中から投げ飛ばされる悲哀の叫びは無視して――俺は、有華に頭を下げた。

 エー兄は……あの女とは、付き合って、いなかったっ……!
 次々と流れ出すエー兄の怒号に戸惑いながらも……あたしがそれを理解した瞬間、
 疑問は綺麗に砕けて散った。
 やった……っ! よかった、本当によかったっ! 嬉しすぎる誤算だよっ……!
 そして今――エー兄が、あたしに頭を下げてくれている。
「冗談なんて言葉で簡単に片付けようとして……悪かった。ごめん」
「――っ……ううんっ。それは……もう、いいの」
 本当はよくないけど……っ。ここは、きっとこんな反応を見せ付けて、
 あんなストーカー女とは違うって、アピールしないとっ……!
「あ、あたしこそ、その……散々暴れたり、あほって言って……ごめんなさい」
「い、いや……まあ、あほって言うのは、あながち間違ってないだろ、ははは……っ」
 そんなこと絶対にないよ。
 勝手に勘違いして……あんな女と付き合ってるなんて、あたしがエー兄を信じきれてなかったのが
 原因なんだし……。
 あははっ……あたしってば、ほんと、馬鹿じゃんっ……? 軽く、自己嫌悪してしまう。
「それに、お前は昔から俺にあほって言ってたからなあ……。もう慣れた、うん」
「なによそれっ……エー兄の、あほぉ」
「あははっ……。うん、でもお前に言われるのは……嫌いじゃないな」
 それって――いかん……顔が熱い。
 あれ……エー兄が、あたしに、近寄ってくるっ……?

 そのまま。
 抱き締められた。

「ごめんっ……有華。お前のこと、好きだ、俺」

 そんな一言が……っ。
 耳元で、囁かれた。

 良かれと……思って、やったんです。
 エースケくんの為にって、いつでも考えていたら……こうなったんです。
 なのに――私の愛は届きません。
「帰ろうか、有華」
 滲む目の前の光景。
 寄り添っている二人の人間が、います。
 エースケくんと――谷川、有華。
「……まって、まって……っ! エースケくん、駄目ですよっ! そんな女なんかと、
 行っちゃ駄目ですよっ……!?」」
 立ち上がることすら、今の私には辛いことでした。
 けれどここで座り込んだまま、エースケくんの背中を見送ってしまったら……終わりだと、
 思ったんです。
 エースケくんは、立ち止まって、ちゃんと振り向いてくれました。
「もうっ……! もう、勝手におうちに入ったり、しませんからっ……絶対にっ」
 あは、ははっ。
 そうです……悪い所は、全部、治しちゃうんですから、わたしっ……!
「何でも、エースケくんの言うこと、何でも聞いちゃいますよっ!?」
 ひ、ひひっ!
 胸に手を当てて……ゆっくりと、歩きます。
「それこそ、死ねと言われれば喜んで死にますしっ……お料理も、お洗濯もっ」
 あびゃ、びゃっ……。
 亀裂が……心臓に、亀裂が……。エースケくん、なんで、そんな蔑むみたいな視線なんですっ……?
「――っ! そ、そうですっ! そこの女なんかより、ずっとっ……エースケくんを
 気持ちよくできます、わたしっ」
 駆け出す。
 エースケくんの胸に飛び込んで、手を――エースケくんの、ズボンに。
 わたしが、今すぐ、出してあげます、うふ、ふふふっ……。
「いい加減にしなさいよっ!」
「――きゃうっ」
 鈍い、そして重い痛みが……頬から駆け抜ける。
 気付けば……わたしは倒れていました。
 ――あの害虫に、殴られた、みたいですね……っ?
「あぐぅっ……。邪魔しないで、くださいよっ」
「邪魔なのは、あんたじゃないのっ……! このストーカーっ!」
 さっきから、うるさいなあ。
「ストーカーだなんて……あははっ。私は、違いますよぉ……っ?」
「じゃあ……なんだって、言うの」
 頬が痛い、エースケくんに撫でてもらいたい。
 ……ゴムを外して、髪をばらします。
 この髪型やめます……普通のロングにしましょう、今日から。
「私は……エースケくんの、彼女になるべき存在です」
「はあっ……!?」
「――いたり、先輩っ……?」
「だから」
 ふらつきながら、立ち上がります。
 垂れた前髪で片目が隠れました……見にくいなあ、エースケくんが。害虫はどうでもいいですけど。
 あはっ……自然に、笑みが出ちゃいます。
「ずっと一緒です、エースケくん……っ。見てますから、私」
「――えっ」
「ずっと……見てますから。うふっ、はは、ははっ……あはは、ははっ!」
 あは、ははは、はははっ――!

 にやぁ――り。
 三日月に歪む、口元。

「これは断言……もしくは宣言。または予言、預言と思ってくださいねっ……?」

「私とエースケくんは幸せになれます」

「けれど――有華さんとは、なれませんよっ……絶対に」

 雨が――降出した。
 髪を濡らしながら、少女は告げる。

「だからエースケくん……私はいつでも見てますからっ……」

「幸せになりたかったら――いつでも、私の名前を、呼んでくださいねっ……?」

 雨足は、激しさを増していく。
 響くのは――哄笑でもない、嘲笑でもない……っ。
 何処にもゆかない……純粋な嗤いだけ。

 

 あははははははははははははははははははははははははははははははは
 はははははははははははははははははははははははははははははははは
 はははははははははははははははははははははははははははははははは
 ひゃははははははうははひゃはぐひゃははああはひゃひゃひゃっ――!

 幸せになりたかったら――いつでも、私の名前を、呼んでくださいねっ……?
 狂気を垣間見えさせる笑みを張り付かせ……雨に打たれながら、慟哭もしないで言った、先輩。
 ……振り返る。
 ドアは閉まっている。――僅かに響いて聞こえるのは……っ。
 笑い声……なのかっ……?
 なんでだよっ。有華を連れてきて、目の前で有華の気持ちに答えてまで、
 先輩の気持ちを否定したのに……っ!
 諦めるって言葉を……知らないのかよ、いたり先輩はっ……!?
「――エー兄ぃ……っ!」
「おわっ」
 有華に抱きつかれて、危うく転びかけた。
 見下ろすと、濡れた頭頂部。……震えている?
「ひっく……えぐぅ……っ。酷いこと、いっぱい……言っちゃって、ごめんねっ……」
「あ、えっと……っ」
 あほとか、うるさいとか、俺にしたら言われ慣れてるんだけどな……。
 こうやって改めて抱きつかれると、か弱いんだなって、再認識する。――こんな俺の言葉で、震えて。
「あははっ……。ら、らしくないぞ有華っ……?」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……ひぐっ」
「いいんだよ、俺が悪かったんだから」
 努めて微笑を浮かべながら、頭を撫でてやる。
「うん……っ。ありがとうエー兄……あたし、すごく嬉しいっ……」
 有華が――俺を見上げて、微笑んだ。
 ともかく……あそこまで言ったんだ。
 もうこれで終わりだ。そう信じよう……いや、きっとそうなるっ……。
 内心まだ青ざめながら……俺も、ゆっくり微笑みを返した。


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