疾走 第8話
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 見上げれば曇天……一雨到来しそうな雰囲気である。
 そして。
 いつかの告白の光景と重なる――先輩は、同じ位置で立って、待っていた。
 ドアが開く物音に気付いて、ポニーテールを揺らしながらこちらを振り向く。
「あっ。エースケく……っ!?」
 ――そりゃ驚くだろうなあ。
 信じられないと言外に叫んでいるみたいに……いたり先輩の両目は、見開いていた。
 金魚みたいに、口をぱくぱくさせている。
 彼女の視線は……もちろん、俺の背後に。
「なん、で……っ? 有華さんが、いるんですか」
「――それよりも、いたり先輩。……まずは、返してくれませんか」
 有華にはしばらく動くなよと前もって言ってある。俺は、片手を差し出しながら、先輩に歩み寄った。
 質問したのに答えてくれない俺の強硬さに、いささか困惑しつつも。
「……返すって、なにをですか」
「――とぼけないでくださいよっ……! 俺の、家の鍵ですよっ!」
 息を呑む気配が、背中に響いてくる。
 有華は今どんな表情を浮かべているのか……考えながら、さらに近寄った。
「それとも、他にも返すものがありましたかっ……? 例えば、シャツとかっ!」
「――っ……うっ? エ、エースケくん……っ」
 口を塞いで、いかにも動揺した様子で後ずさる。
 今のは激情に任せたハッタリだったのだが――この反応だと、どうやら真実みたいだ。
 できればそれこそとぼけてもらいたかったです……っ。いたり先輩。
 それにしても、わからない……っ。
 何故シャツの一件に関しては明らかな動揺を滲み出すのに……鍵については、
 なんで持っていることに疑問を感じていないっ……?
 そのギャップがまた、異常とも捉えられるんだよ、俺には。
「わ、私、知りませんよっ!? シャツって、いきなり、なんなんです……っ?」
「……じゃあ、質問を変えます」
「あふっ……? エ、エースケくん……質問じゃなくて、もっとなにか、私に言うことが
 あったんじゃないんで――」
「いいから黙って聞けよ――ぉっ!」
 一喝する。
 びくっと、石化でもしたみたいに、先輩は喋るのをやめた。

 ……地面がこんにゃくみたいだ。不安定で……頭は馬鹿みたいに熱している。
 抑えが効かないっ……!
「俺は……俺の記憶違いじゃなければ、俺はっ……!
 先輩には、一言も、携帯の番号教えてないですよね……っ?」
「――知らない、ですよ」
「俺の勝手な妄想かもしれませんけど……っ。先輩は……俺の携帯に、
 何度もかけてきてませんかっ!? その……む、無言のっ!」
 これは根拠のない発言だと思う。
 けれど……いたり先輩が不法に侵入してきた事実が在る以上……俺は、この二つを
 異常と言う共通点で、繋がっていると思い込んでしまうっ……!
「そんな――はははっ。証拠もないのに、勝手なこと、言わないで……くださいよ」
「……そうですか。わかりました。――じゃあ、次です」
 俺の特に親しい友人らに問い合わせても……いたり先輩からなにか聞かれたとか、
 そんなことはなかったし……っ。
 ただ誰かに聞く事だけが手段ではない。他にも方法があったのかもしれない。
 のどが渇くのを自覚しながら、言葉をなんとか紡ぐ。
「――先輩。俺の後ろを……歩いて追いかけたこと、ありますよねっ……?」
 やや声が震えてしまう。ちくしょうっ……情けない。
 これは……ある光景をきっかけに、至れた疑問だった。
 すなわち……今朝の、光景だ。
 たぶん鍵は有華が落とした――これはもう間違いが、ない。なんなら後で有華に聞いたらいい――
 俺の家から飛び出した後に、いたり先輩に会わなかったか、って……っ。
 落とした鍵が何故俺の家の鍵だとわかったのかは……可能性として、俺の家の鍵かもしれないと
 わかる手段は、幾つかある。
 有華が言ったのかもしれないし……確か親父は、前田さんにもそんな事を笑いながら
 言っていた――一応有華ちゃんに鍵渡してますけど、なにかあったら前田さんも
 よろしくお願いします……と。
 とにかく知れたのなら……試して見ようと思えたのだ、十分に。
 鍵は手に――残るのはその鍵穴の居所……俺の、住所だ。
 もちろんこれだって知りえる手段はたくさんあるのだが……ここで思い出すのは、
 いつかの帰り道、背中を這った違和感っ……。
 だから俺は……こんな質問を、再びはったりを、先輩にふっかけている。
「私が、エースケくんを……追いかけるっ? 後ろから……こっそり、ですかっ?」
「はい――先輩だったんですね、あれ」
 道の両側は植え込みと木々に囲まれていた。……そもそも最初から、その植え込みの向こうから
 歩いていたのなら……俺が振り返っても、容易に見つけられるはずがない。
 ただしこれも目視で確認したわけではない――状況だけの早急な断定だ。
「――あはっ。はははっ……そんな、まるでストーカーじゃないですかっ、それって。
 もうっ……エースケくんってば、酷いですよっ? 怒っちゃいますよ、私」
 その笑顔が……酷く脆そうに見えるのは、俺の錯覚かっ?
 ――そうだ。そうやってとぼけるのが……この状況を切り抜ける最善だからなっ……。
 あんたが昼休みに……あんなことを言わなけりゃ、完璧だった。
「そうやって、ドアを蹴ったことも……とぼけるんですね、きっと」
「……意味がわかりませんよ。エースケくん……それよりも、もっと、私に、
 言うべきことがあるんじゃないですかっ!?」
 最後のはったりにも、語気を荒げて予想の反応をしてくれる先輩だった。
 俺は……ただ、無感動に……すがるような視線を浴びていた。
「――わかりました。もういいです……なにを言ったって、無駄だってわかりました」
「む、無駄って……なんなんですかっ!?」
 もう距離は零にすら近い。
 俺は鞄から――ビニールの袋に入れた、今朝のおかずを取り出した。


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