疾走 第5話
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 初めて交わした会話は、果たしてなんだったか……もう、憶えていない。
 あいつは昔、ちょっと人見知りだったからなあ。
 今でこそ活発な性格に変貌してしまったが――まあ、結構なことである。
 やっぱりあいつには、笑顔がとても似合っていると思うからな。
「はあ……っ」
 ソファに横たわりながら、天井を凝視する。
 自分の愚行を、あれから何度も思い出しては、溜め息ばかり吐き出していた。
 有華の視点からあれを再現してみろよ……。
 俺は、時間を逆行できるなら、真っ先に己を殴りに出発するな。
 ふざけるな。状況を考えろ――先輩からの告白には、あんな反応などしなかったくせに。
「だって、な……。あの有華が、俺を」
 すきなんて。
 お前……よっぽど中学にはときめく男子はいないのか?
 俺なんか、料理が趣味の……やわな、平凡高校生だぜ。
 それに――正直言うと、俺にとっての有華って存在は、今日まで……。
 やかましい幼馴染みだとか。
 妹みたいな、感じだったんだよ……正直な。
 そんなくだらない固定的な観念が、俺の脳裏にこびりついてたから。
 冗談だろって、思っちまった……っ。
「謝らないと……」
 そして言わないと。
 俺の、有華に対する――ちゃんとした返答を。

 夕焼けが眩しい。鬱陶しい。
 あれから公園まで疾走して、一時間くらいか。
 ベンチに座り込んだら、立てなくなってしまって、ずっとこのままでいる。
 時折遊歩道を歩く男女の組み合わせが――腹立たしい。
「なんで……っ」
 あんなふうに、エー兄と歩きたいのに。
 肝心の彼は受け止めてくれなかった。
 冗談だろうと――私の勇気を、その単語だけで、払い除けた。
「エー兄の……あほぉ……っ」
 思い出したら、また泣きそうになってしまう。
 誰かにこんな脆さを見咎められるのがひどく恐ろしくて、あたしは俯いた。
 地面を睨みながら……色々考える。
(もしかして……エー兄は……)
 そうだ。
 エー兄が嘘を吐いている可能性が――ある。
 あたしの、付き合ってんの? という問いかけに、エー兄は否定を返してくれたけど。
 あれはまさか――嘘だったんじゃ、ないのかな……。
(嫌だよっ……そんなの、絶対に……っ!)
 想像するだけで死にたくなるが、逃げてはいけない。立ち向かわないと……っ!
 あの女――瀬口至理。
 仮にあいつとエー兄が付き合っていたとして……エー兄が、それを否定する必然性は、あるのかな……?
 ……なんだ。あるじゃない。そんなの、簡単だった。
「優しいから……」
 声に出して、その真実を紡ぐ。
 ――優しいから。あたしを傷つけたくなかったから……嘘を、吐いたんだ、きっと。
 この恋慕は決して届かないから――遠ざけるように、冗談だって、思ってくれた……っ?
 エー兄は……何にも、悪くない……っ?
「そうだよね……。うん。悪いのは、全部」
 涙腺が引き締まってくる。泣いている暇は無い。
 排泄すべきふしだらな悪を――あたしは見定めた。
 あの糞女が――奪い取ったっ!
 あたしの、あたしだけのエー兄を……あたしがいない領域で、かすめとったっ!
 ――消してやる。
 こんなに悲惨な状況に陥ってしまったのは、全部あの、あの――。
「こんにちわ、有華さん……。奇遇ですね」
 ハッとする。
 膝の上で握り締めていた拳を解放して、即座に見上げると。
「瀬口……さん……っ」
 諸悪の、根源。
 あたしにとっての絶対の悪が――そこにいた。

 どうにかして、エースケくんの女性への価値観を矯正しなきゃいけません。
 例えば怪我をさせる……もちろん私は間接的にしか関われませんが。
 エースケくんの家族は、エースケくんとそのお父さんの二人だけ。
 そして今。お父さんは長期の出張で帰ってこない……まさに、天啓です。今こそ、という天啓。
 怪我をすれば不安になりますよね……。しかも家では独り。
 そこで私がさりげなく、電話するんです。大丈夫ですかって。
 なんで番号を知ってるんですかって聞かれたら、エースケくんのクラスの親しい友人に
 偶然聞いたとでも言えばいいのです。
 後は駆けつけて、色々と不自由なエースケくんのお世話をして――本当の女性という在りかたを、
 見せ付けます。
 そうすればきっと、エースケくんも気づいてくれます。……あたしの、ありのままの愛に。
 それはそうと、前田さんでしたか――あのお方には感謝してもしきれません。
 私がなにを聞いてもほいほい答えてくれて……っ。
 ボケてるんじゃないですか? まあそれを狙って、高齢なあの人に聞き込んだんですけど。
 あは、はははっ。
 とにかく今後を色々と思考しながら、私はエースケくんのマンションに向かっていました。
 別に押しかけようとはしませんよ……。今はまだ、エースケくんに近付くだけで、満足ですから。
 いつまで理性が保てるか、ちょっと自信はありませんけど……。
「あれ……っ?」
 ちょうど公園に入った時です。
 忌々しい小娘の姿が……見えたのは。
 最初は無視しようと思ったんですけど、なにか様子がおかしいんですね。
 近付くとすぐにわかりました。――泣いてるんですよ、彼女。
 そこで私の直感が脳裏を走りました。
 ひどく彼女に共感したのです――そう。私がエースケくんに拒絶されたときと、
 今の有華さんは酷似します。
 吹き出しそうですっ。……はは、はははっ! そうですか……振られたんですね、有華さんっ。
 所詮はガキです。調子に乗るから、そんな負わなくてもよかったきずあとを背負うんですっ。
 ああ、滑稽だなあ。
 私はきっと、三日月みたいに口を開けて、笑っていることでしょう。
 ここは止めを渡しておきましょう。幸運です。最大の障害が取り除けそうですから。
「こんにちわ、有華さん……。奇遇ですね」
 そうして私は、諸悪の根源に、引導を渡すのです。

「どうも……。本当に、その……奇遇ですよね」
 努めて冷静に……煮えたぎる殺意を心の奥底にしまいこみながら、言葉を返す。
 にこにこと無駄に笑顔を振りまきやがって……。
 皮膚を蟻の行列が闊歩するくらいに、不愉快なんだよ……っ!
 あたしにとっての、お前って存在は……っ。
「――どうかしたんですか? 泣いているみたいに、見えたんですけど……」
「……別に。あなたに話す必要は、ありませんから」
 視線を外して、言った。
 ――嫌な、眼球だ。
 全部見透かされてるみたいで……だからあたしは、こいつの視線から逃れてしまった。
「そうですかぁ……? だったらいいんですけど。すみません、余計な質問でしたねっ」
「……用件は、それだけですか?」
 なら……さっさと失せろ。
「泣いちゃうの、仕方ないですよねっ」
「はあ……っ?」
「私もそうでしたから。……必死にお願いしたんですけど、駄目だって……。それもこれも、
 全部誰かさんのせいなんですけどね」
「なにを、言ってるんで――」

「エースケくんに、振られちゃったんですよねっ……有華さん。あはは、はははっ!」

 哄笑しながら。
 このどうしようもないコソドロは……あたしに、そう断言した。

 あはは、はははっ! はは……駄目です、おかしすぎますっ!
 だって……あまりにも、有華さんが、惨めでっ……ぷぷっ。
 一度爆笑したらなかなか止められませんね……自分の意志では、特に。
 体がくの字に曲がってしまいました。
「ははは、はは、はははっ! あはは、ははっ!」
「黙れ……っ」
 有華さんが立ち上がる気配。
 あはは……さっきまでは怯えたみたいに視線をそらしていたのに、今じゃすっごい睨んできてるって、
 わかっちゃいます。
「ご、ごめんなさいっ……。でも、あははっ……! だって、あまりにも私の直感が的中したもので、
 つい……っくく、あははっ」
「いいから、さっさと黙れっ……!」
「あはは、うは、ははっ! あははははははははははははっ!」
「この――黙れってっ!」
 ひぶっ。
 ……右のほっぺた、痛いですぅ。
 耳朶にこだまするのは、パンっ――という、皮膚が揺れる、綺麗な音。
 あはっ……ビンタ、されちゃいました……てへっ。
 ありがとう有華さん。この衝撃のおかげで、ようやく無限に連鎖する笑いが、ストップしてくれました。
「なに笑ってんのよ……っ!」
「あはは、ははっ。すみません……生来、こんな面なんです、私」
 そんな殺意メラメラの両目で睨まないでください……。
 私は抑えてるんですからね――有華さんへの、巨大な憎悪を。
「どうやってエー兄をたぶらかしたかは知らないけどね……っ! あたしは、絶対に諦めないっ!」
「ははあ……そうですか。あなたみたいな乱暴な、女の子らしくない人を……エースケくんが選ぶとは、
 思えませんけどね」
「――ぐうっ……!」
 手を出したのは、有華さん、あなたですから。
 乱暴って表現されても……どこもおかしくありませんよね?
「あたしは……絶対に、認めないからっ……! 覚悟、しときなさいよね……っ!」
「勝手にしてください。あなたがどう転んでも――私は、エースケくんと、幸せになりますから」
「……ほざけっ! 勝手に妄想してればいいのよ、馬鹿がっ!」
 言うが即座に、有華さんは反転して、走り出しました。
 あはは……まるで敗残兵ですよ。みっともないんだ……うふふっ。
「――あれ。落し物ですか」
 きらりと、何かが光を反射して、私にその存在をアピールします。
 有華さんが座っていた、ベンチの上ですか……。
 摘み上げます。
 銀色の――これは……。


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