疾走 第3話
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 的中してしまった有華の料理の出来を思い出して、腹を撫でた。
 時刻は十時を少し回ったくらい。
 有華と言えば、飯を食ってもしばらく居ついていたが、ようやくさっき帰宅したところである。
 まったく……テレビくらいお前の家にだってあるだろうに。わからん奴だなあ。
 などと思いながら、ソファに横たわってぐったりとしている俺だった。
「あん……?」
 耳障りなメロディが……ああ、携帯が鳴ってるのか。
 こんな時間に誰かと、テーブルに俺と同じく横たわるそれを取り上げる。
 番号は――非通知?
 面倒臭いが、一応出るか……。
「もしもし」
 お決まりの台詞で、相手からの返答を待つ。
 えらく静かだった。雑音すら耳朶に届かない。
 ――おいおい。なにか喋ってくれ、かけたのはあんただろう。
 内心で見知らぬ発信者に苛立ちつつ、「もしもし、すみません、誰でしょうか」と言う。
 しかし、十秒待っても――単語の一つも言ってはくれない。
「あの――切りますよ?」
 いい加減にしろ。
 一応断わってから、俺は躊躇せずボタンを押した。――なんだったんだ、一体?
 とにかく苛立つので勘弁してくれ。
「――寝るか」
 有華の料理の影響か、眠気が濃厚である。
 ソファから立ち上がり、テレビの電源を消してから、電気も消す。
 部屋に入るともうベッドに直行するだけだ。ああ――眠い。いこう。

 早めに眠った恩恵だ、目覚めが抜群に良かった。
 朝飯の支度に弁当の支度。万事時間的にも余裕で片付いていく。ばっちりな朝である。
 どうせなら今日はちょっと早めに登校して見るか――と言う殊勝な心がけを起こした俺は、
 忘れ物はないかとチェックしていた。
 教科書入れた。弁当入れた。宿題も大丈夫だし、提出のプリントなども……。
 あとは携帯だけか。昨日テーブルに置いたまま寝たっけ。
 出発する前に何気なく開く。
「――あら?」
 また非通知で、かかっている。時刻は三時。
 これまたえらい時間に電話を――。
「……待てよ」
 思い直して、着信の履歴をチェックする。

 22:36
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 24:46
 24:57

 ずらずらと。
 並ぶ、数字。
「なんだ……よ、これは……」
 何回かけてるんだ――変じゃないか、あまりにも、これは。
 まだ続いている……きっと、最後にかけた三時まで――かけつづけていると、俺は確信した。
 誰だよ。
 そもそも、俺になんの用事だよ?
 昨日の無言電話を思い出す。薄気味悪いほど静かだった、雑音すらない、電話の奥には――。
「――はははっ」
 とりあえず、笑っておこう。
 考えようによっては、これ――すっごい笑っちまうお話じゃないか?
 だって、馬鹿じゃないか。おかしすぎて笑えてくる。
 何時間かけてんだよって、突っ込みの入る所だろ、ここは。
「何時間、かけてんだよ」
 誰も突っ込まないから、俺が突っ込んだ。
 俺が突っ込みの役割だとしたら、なら――。
 ボケの相方は、誰なんだろうな……?

 結局いつもの時間に、家を出た。
 ちょうど隣の前田さんが、俺と同じく黒い袋を持って出てきていた。今日は、燃えるゴミの日だからな。
 白髪の、今年七十八だったか……とにかく高齢の、気難しいおじいさんだ。
 追いつくとまずは挨拶する。今朝は機嫌がよろしいのか、ニコニコと返事をしてくれた。
 昨日のこと、謝っとかないと。
「あの……昨日はやかましくしてすみませんでした。有華にも言っときますんで」
「――? はて、特にうるさくはなかったが」
 きょとんと、首を傾げられた。
 まさかその動作がかえってくるとは思わず、俺も首を傾げ返したくなる。
「だって、あの、ドア蹴ったから、怒ってるなあって思ったんですけど」
「わしがドアを、蹴った?」
 すると前田さんは、はははとお年の割にはやたらと快活に笑って。
「そんなことしてないよ、わしは。なにせもうこの体――まともに歩くだけで精一杯でね、
 お恥ずかしいが」
「――あっ」
 そうだ。前田さんは、今年で七十八……。
 あんなに、力強くドアを蹴るなんて――そもそも無理だったんだよ。気付けなかった。
「そ、そうですよね。変なこと言って、すいません」
 袋を放り投げながら、笑う。
 誰だよ。
 じゃあ誰が――あの時、俺の家のドアを、蹴ったんだよ……?
 何度も携帯を鳴らす、誰か。
 昨日ドアを蹴った、誰か。
 俺にはどうしても、この二つが、繋がってしまう。
(けど……相変わらずわからない。なにが、目的なんだ?)
 そう、それだけは、謎と言う殻に閉じ篭って、直視できない。
 それ故に俺は不安だった。
 なにか――未知は、恐怖に直結するのだ、俺の場合。
「……学校行くか」
 まあ、日常の生活してれば、忘れるか。
 こんなことも今日までだろうし、うん――。
 今日までだと、俺は信じたかった。

 考え事をしながらだと、歩みは遅くなるらしく。
「エー兄っ! 歩くの遅いぞ――っ!」
 朝っぱらからの大音量と同時に、背中を叩かれる。
「おわっ。――なんだ、有華かよ」
「なんだとはなんだよぉ」
 中学校の制服姿で、有華が俺に並んだ。顔を膨らませるな、面白いから。
「途中まで道、一緒なんだよなあ……忘れてたよ」
「そ、そだねっ!」
 何故そこで俯く。
 まあ、いいか。とにかくこいつと会話しとけば、余計なことに思考を割かなくて済むし。
「だからさ、あの、その――」
「エースケくん」
 有華の言葉が、遮られる。
 この間延びした声と、『エースケくん』という呼び方。
 振り返る。
「いたり、先輩……?」
 そう――会うのは、二日ぶりか。
 小柄な彼女が、そこにいる。

「おはよう……ございます」
「――は、はい。あの、おはようございます、先輩」
「はい。……どうしましたか? なにか、慌ててるみたいですけど」
 そりゃ慌てますって。
 もう一生会わないかも……そこまで思ってたのだからな、俺は。
 迷惑ですって、あんな酷いことも、言ってしまったし。
「ねえエー兄……。――誰だっけ、その人」
 有華の質問に、ハッとする。
 そうだな、有華は知らないに決まっている。
「ああ……えっと、俺の高校の先輩で、瀬口至理さん」
「――ふうん」
 あからさまに興味なさそうな事を言うなっ! ふうんって。
「それで先輩。こいつは俺の幼馴染みで、谷川有華って言います」
「谷川……有華、さん」
 噛み締めるように、ゆっくりと先輩は言った。
「はじめまして――よろしくお願いしますね、有華さん」
「――至理さん、でした、よね?」
「はい?」
「なんか眠そうですけど、大丈夫ですか?」
 そうは言っても、有華。お前の口調に心配の成分は微塵も混じってなさそうだが。
 しかし指摘したことは真実で、体はなにかふらついているし――くまも少しあるか?
「寝不足ですか?」
「あははっ……ちょっと、やることがあったんですよ」
 宿題とかかな。先輩ぼんやりしてるから、寝ようとしたら思い出した――っ! とかね。ありそうだ。
「あふ」
「おわっ! アブねっ!」
 ついには倒れかける始末だった。
「――眠いです。あふ、あふ」
「いつまでやってたんですか、まったく……」
「四時くらい、です」
 全然寝てないなあ、それじゃあ。
 このまま単身で学校に到達できるとは思えない。
「危ないですから、俺と一緒に行きましょう。教室まで送ります」
「でも、悪いですよ」
「いいんですよ、これくらい」
 先日の振り払い方は、酷かったし。
 これくらいさせてもらっても、償えないかもしれないけど。
「じゃあ有華。お前ここ、左だろ」
「――ああ。……うん」
 なんか元気が磨り減ってるな。
「なんだよ、お前も寝不足か?」
「ち、違うよっ! あたしは健康的に生きてるからね、うん」
「そうかい。それじゃな」
 俺たちは真っ直ぐに。
 有華はその場に立ち止まって、しばらく手を振っていた。……恥ずかしいからやめてくれ。

 見えなくなるまで、ずっと背中を見ていた。
 ――考えるべきは色々ある。あの女についてだ。
 あたしが指摘したのだから、寝不足だったのは真実。
 ただしそれを利用して、エー兄のほうに倒れこんだのは――あれは多分、演技。
 エー兄に公然と抱きつくための手段として、自分の状態を上手く使ったのだ。
 奥歯が、ぎりぎりと唸って、仕方ない。
 あの行為は、あれはあたしだけの行為だと――特権だったのに。
 それを今日。あのとろそうな女に、汚されたっ……!
(ふざけんな……。ふざけんなっ!)
 畜生が。
 べたべたと、エー兄に、触れやがって。
 朝っぱらから、気分が悪い。
(エー兄は、あの人と……付き合ってるの、かな)
 ふと、そんな恐怖に至ってしまう。
 声をかけられたときも、エー兄、ちょっと様子がおかしかったし……。
 学校が違うから、あたしはそこまで把握できていない。
 これは――まずい。
(とにかく……確かめないと)
 確認することは、大事だから。
 目視での判断は意味がない。やっぱり、エー兄に直接聞いてみるしかないだろう。
 それに確認するのは、絶好の機会かもしれないし。
「こうやって、エー兄に女の子が近寄るだけでイラつくのは、もう嫌だし……」
 そうだ。言ってしまおう。
 エー兄なら、きっと、受け止めてくれる。
「すきだって……言っちゃうんだからね、エー兄」
 ぽつりと。誓うように、あたしは呟いた。

 六月ってのは蒸し暑いよなあ。体育の後なんて、死ねる……。
 授業を終えて教室に戻ってきた我ら男子は、早々に着替えを開始する。
 ああ……。汗で脱ぎにくい。イラつくなあ。
 登校してくるので、すでにシャツは汗まみれなのに――あれ?
「シャツがないぞ」
 声に出すと、周りの奴らが反応する。
「よく探してみろよ」
「いやいや……鞄をひっくり返しても、床を見回しても、ないんだけど」
「教室は授業中、鍵かかってるんだぞ?」
 そうなんだよなあ……。
「大体誰がお前のシャツ欲しがるんだよ、馬鹿」
「そうそうっ! お前の臭いなんか嗅いでも興奮しないって」
「――うるさいなあ。わかってるから変なこと言うなっ」
 その後数分探してみるが、見つからん。
 結局諦めた俺は、下のシャツは無視して、そのままワイシャツをひっかけた。
 多少涼しいが……いつもと違う感触に、そわそわしてしまう。
(それにしても――どこに言ったんだ、俺のシャツ)
 まあいいか……たかが、シャツの一枚。
 それよりも考えるべきことがあるだろうが。次の授業に当てられたらどうしよう、とかな。

 屋上。
 いつも私と、エースケくんだけの世界だった、場所。
 今朝会ったのが偶然と思われて、本当に幸いでした。
 だって本来なら、私は、校門までずっとエースケくんの背中を見ていたはずだったのですから。
 ――ここ数日で気付いたことですけど、私は、怒りっぽいみたいです。
 私を追い越して、エースケくんの背中を気軽に叩いた、あの女。
 エースケくんに……私の大好きなエースケくんに、あんな乱暴な挨拶を、して――っ!
 殺しますよ。
 内心だけで叫んだんですけど、それが正解でした、本当に……。口塞がなかったら、
 今頃どうだったでしょうか。
 谷川有華。
 料理が下手で、エースケくんの女性の価値観を崩壊させた――諸悪の、根源です。
 中学生の分際で……エースケくんの幼馴染み、なんて。
 生意気ですよ。その椅子は、私に譲るべきだと思います。
 幼馴染みのくせに料理が下手なのは――笑えますけど。狙ってやってるんでしょうか、
 それとも本当に駄目か。
 どちらにせよ、私にとっては、邪魔にしかなりえません。
「来ないだろうなあ」
 見上げると、綺麗なまでに蒼穹が広がっています。
 一瞬携帯で呼び出そうかと考えて……私は馬鹿だなあと、自覚します。
 あれは夜中。どうしてもエースケくんの声を聞きたいときに。そう決めたじゃないですか。
 昨日はちょっと、やり過ぎちゃいましたけど……ははは。
 そうです。今日は、いいものがあるのでした。
 鞄からそれを取り出して、両手で広げます。
 シャツです。
 エースケくんのクラスが今日体育があるのは事前に把握していましたから……。
 後は、授業中体調の悪いふりをして、教室を抜け出し――エースケくんの教室まで辿り着くだけでした。
 ああ――。彼のクラスは、廊下の側の窓、ほとんど閉め忘れるそうですから、侵入するのは容易いです。
 それよりも、です。
 また一つ、エースケくんのモノが――増えましたっ。
 エースケくんがどんどん、私のモノになっていきますね……あは、はははっ。
 早く彼の全部を抱き締めたいですが、今日はこれで我慢します。
 これだって……匂い、しますし。今はまだこれでも、構いません。
 丸めます。片手で持って、鼻に押し付けます。
「ふっ……あはっ……あふ」
 もう片方の手が……知らず、あそこに伸びてしまいます。
 指を――動かして。
「あうっ……ぅ……」
 エースケくんの匂い。
 指は濡れて……音が……ぁ。
「エースケ……くん……すきぃ……すき、なのぉ……っ!」
 この蠢いている指が、彼のだったら、いいのに。
 想像するだけで、また、濡れてきて。
「すきぃ……あうっ……いく、いくのぉ……っ」
 そうして私は、果ててしまいました。
 もう――駄目です。
 一秒でも時間が経過するたび、私は――エースケくんのことが、もっと好きになってしまっていて。
 エースケくんがもっと欲しいと、願ってしまっているのです。
 シャツを鞄にしまいます。
 ぬめる指先を――ぼうっと、見つめます。
 彼がしてくれたら……私はどうなってしまうのでしょうか。
 死んでしまうかもしれません。

 たまには真面目に勉強でもしていたら、有華が訪ねてきた。
 何故わざわざチャイムを押したのだろうか。
「どうした。――もうお前は台所には入れんぞ」
「はははっ。なに必死になってんだか」
「必死だよ俺はっ!」
 なにせ生命に関わるからな。
「あの、ちょっと勉強わかんないところあってさ」
「ほう」
「エー兄。だから教えろ――っ」
「じゃあね」
 ばたんと、ドアは閉じられたのである。
 どんどんっ。響く騒音。
「お前、前田さんに怒られるからやめれっ!」
「じゃあ教えてよぅ」
「……わかったよ。わかった。さっさと入れ」
 やった、と即行にくつを脱ぎ捨てて俺の部屋に直行する有華。
 あいつめ……。靴くらい揃えんか、仮にも女の子だろう。
 それにしても、なんだか無駄に元気だなあ……いやいや、無駄に、ではなくて。
「なんか、無理矢理か」
 無理に元気を出してる感じがするのは、俺の勘違いなのか。

 中学の数学、なんて楽勝だねなどと内心自信満々だった俺なのだが、見事に撃沈している。
 ――数学嫌い。
 髪を掻き毟りながら、それでも教科書を凝視する。意地である。
「無理するなよぉ、エー兄。まあ――それくらいの問題はあたしにも解けるんだけど」
「お前はうるさいよさっさと別の問題解きなさいっ!」
 馬鹿にしやがって。
 ああ、でも今思い出したぞ……こいつ学校の成績、結構良かったような。
 じゃあ俺に教えを願うな。それとも本当に俺を馬鹿にするためにやってきたのかっ?
「お前……非通知で俺の携帯にかけまくったりしなかったろうな」
「はあっ?」
「――いや。すまん、忘れてくれ。冗談だ」
 あれは異常だからな。
 有華とあれを結びつけるのは、あまりにも有華に失礼って寸法だ。すまん。
「それよりもさ、エー兄」
「なんだ小娘。俺は今忙しいんだよっ」
 テメェの問題で。情けないなあ。
「今朝会ったじゃん、なんて言ったっけ……えっと」
「……いたり先輩」
「そうっ。その変な名前の先輩」
 変な名前って……。
「お前、もう少し言い方ってもんが――」
「付き合ってんの?」
 ――はあっ!?
 なにを質問するかと思いきや、壮絶な勘違いを……っ。
「付き合って、ない」
「本当に?」
 首を傾げて、上目で俺を見てくる有華。
「……嘘を吐く理由がないだろうが」
「まあね。――ふうん。あっそ」
 自分から聞いたくせに、やたらとそっけない。
 なんなんだ……? まあいい。あまりにこの事を深く問い質されたくないからな。
 正直屋上での告白は――あまり思い出したくない。
 俺は動転して随分と酷いことを言ってしまったし……。それでも、間違ったとは思わないけれど。
 などと思いながら、シャーペンを滑らせる。ようやくだが。
「じゃあ今ね……。エー兄って、誰とも付き合ったりとか、してないの?」
「そうだなあ」
 問題に集中しているため、生返事だ。
 厳密に言ってしまえば、今までの人生――誰とも付き合ったなんて、ないんだけど。
「じゃあ……あの、言うんだけど」
「なにを」
 うーん……また詰まったな。
 手の平でペンを回しながら思考する。なんだったかな、ここの公式……。
「――あたし、エー兄が好きなんだぁ」
「へえ……。そうか、エー兄が好きか……」
 そうかそうか。なるほど。
 ――ああっ!?
 教科書から、向かいに座っている有華に、視線を移動する。
 両目が……なんでお前、そんな潤ませて……?
「だからね……あたしと、付き合って、くれませんか……っ」
 そんな一言を。
 俺は予想できていなかったから、ただ、半口を開けて、正面を見据えるしかなかった。


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