疾走 第2話
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 見上げれば蒼穹。俺の気分とは逆転している光景に、やや辟易する。
 引き摺っているなあ。自覚出来るだけ、少し辛い。
 翌日の昼休み。場所は屋上で、いつもの時間だ。
 昨日の今頃、先輩の弁当を食べ終わって……それから手紙を貰ったっけ。
 そして放課後。夕陽を浴びながら、ここで――。
「これでよかったはずさ」
 言い聞かせるように、呟いた。
 何事も開始する地点が在って、開始した以上終了する地点もまた存在してしまう。
 それが昨日だったと。ただ、それだけの話なのだ。
 けれど、先輩の異常とも捉えられるあの必死さが……いまだに理解できない。
 確かに俺は、困っている先輩を助けたという一点だけを凝視すれば、善人かもしれない。
 そしてその行為がいたり先輩にとって、とても巨大なことだったのかも知れないけど。
 いわせてもらえば、俺にとってあれは、路傍に転がっている空き缶を拾ってゴミの箱に放り投げるのと……変わらないんだよ。
 もちろん、この一ヶ月で交わした会話は楽しかった。
 俺と同じで料理が趣味だったのが幸いして、お喋りが途絶えるなんて、皆無だったし。
 友達ならなれたのに……いや、もうきっとなっていたのに。
「……帰るか」
 終わったことを思考するのが、急に途轍もなく無為だと感じて、俺は屋上を立ち去った。
 今日からは、久々に教室での昼食なのだから。

 夕飯の買い物をようやく終えて、帰途を歩く。
 父親と俺の、二人だけの家庭。
 現在父親は長期の出張で、今や俺は一人での生活を楽しんでいる。
 もしも彼女なんかがいたりしたら、絶好の機会だったりしちゃうのだが。
(馬鹿か)
 ふと過ぎったのは、はにかんだ先輩の笑顔だった。
 確かにあそこで「いいですよ」とか言ってしまえば、俺にも彼女という存在が出来たのかもしれないけど。
 自分の、いたり先輩に対する気持ちが……酷く不安定だったのも確かで。
 だからこそいい加減な返事は出来なかったのだ。本当は、最初からはっきりしておけば、最善だったんだけど。
 考えながら人通りの激しい一角を抜け出て、閑散とした公園の歩道に変わる。
 ……うん? なんだろう、背中がかゆいというか……なにかを、感じる?
 振り返る。
 左右を植え込みと木々に囲まれた一本道だけが――見えた。
 人間は、いない。
「あれ……?」
 誰かがいたような確信を、俺は持っていた。
 確かな足音や物音、声や呼吸を耳朶が捉えたのではないけれど……。
 言ってしまえば、なんとなく。
「……?」
 首を傾げ、前方に視線を戻す。
 それから俺がマンションに辿り着くまで――俺は、振り返ることを、しなかった。

 俺の自宅は一階。エレベーターは使わないし、階段はのぼらないので、結構なことである。
 鍵を取り出して、穴にさしこんで、ぐるっと回し――。
 警戒心零で扉を開く。
「わっ!」
「っぎゃお――っ!」
 奇声が迸った。……というか俺が迸らせました。
 それほど驚愕したんだよ。――なにせ、誰もいないと思い込んで開けたのだからな。
「はははっ! エー兄面白っ! ぎゃお――っ! なんて叫ばないよ普通」
「う、うっさい……。それよりもお前、どうやって入った、有華っ」
 眼前で大笑いしやがる侵入者に、ドアを閉めながら俺は問い質す。
 こいつは俺の二つ隣に住んでいる、谷川有華という中学生だ。一応性別は、女だと思われる。
 肩口で切り揃えられた髪は、活発なこいつにとても似合っていると俺は思っている、密かに。
 親同士が知り合いで、それが原因で知り合った俺と有華だが……とにかくこいつは馴れ馴れしい。
 今も爆笑しながら俺の肩を叩いているし……。年上を敬わんか。
「どうやってって……正面からに決まってるじゃん」
「鍵はどうしたんだよっ!?」
「おじさんがね、息子のことよろしくねっ! と言いつつあたしに謙譲してくれました」
 親父の阿呆が――っ!
 一番渡してはならない輩に自分から手渡すとは、正気だったのか疑わしいぜ。
「と言うわけで、今日の夕飯はすでに準備してるんだよね」
「マジか……」
 買い物の意味が……いや食材は今度使えば問題は無いか。
 目下の最大な問題は、こいつである。正確には、こいつの料理か。
「お前の料理など食えん……。前のあれ、あれは酷かったなあ」
「きょ、今日のは大丈夫だよっ! あれから大分練習したし」
「いやでもあれは練習で補える領域の物体ではなかったような……」
「――た、食べてくれないの?」
 声から元気が抜け落ちる。
 改めて有華の全身を眺めると――可愛らしいピンクのエプロンを纏っていることに気付けた。
 視線に感づいたのか、やや頬を紅潮させて俯く。
(――やばい)
 俺も視線を斜めにそらした。
 不覚にも、ちょっと、ちょこっと、可愛いじゃん、とか……思ってしまった。
「まあ……そうだな、珍味と思えば食えんこともないし……」
「ち、珍味ってなにさ――っ! エー兄の馬鹿、死ねっ!」
「うわっ! 馬鹿はお前だ、叩くなっ!」
 ぽかぽか頭を殴られながら、しかし意識は……。
 その、のしかかってくる有華の微量の胸が、その、当たってるのだが、気付けよこいつ――っ!

 ガン――っ!

 ドアが蹴られたのは、そんな、幼馴染みとじゃれあっているときだった。

「っ――な、なんだっ!?」
 突然訪れた異音に、振り返る。
 ノブが、震えていた。
 覗くための穴から外の様子をうかがってみるが――廊下が見えるだけだった。
「近所……迷惑だったかな?」
 ぽつりと、有華が言った。
「――えっ?」
「あの、ほら、エー兄のお隣さん……敏感でしょ? 騒音とか」
「ああ……前田さんか?」
 言われて、ようやくその想像に至れた。
 前田さんか。あの人ならやりかねない……なにせ真上の部屋の人に、
 直々に文句言ってやった前科があるし。
 しかもその際の怒声はやばかった。このマンションに住んでいる人間の記憶には、
 深々と前田さんの説教が刻み込まれている。
「有華――っ! 説教されたらお前の責任だからな」
「うえ……。それはあたしもいやだなあ」
 などと、普通の空気には素早く戻れたが……。
 俺はドアを振り返る。
 ――本当に、前田さんだったのか? あの人だったら、まず怒鳴らないか?
 何も言わないで、そのまま立ち去るだろうか……。
(だけど、他に誰が蹴ったって、言える……? そもそも、理由がわからん)
 考えても、解答に到達できるとは思えない。
 それよりも有華の料理が、目下最大の問題だしな。……さて、全部食べてやりたいが、できるかな。

 ――すぐに立ち去ったから、見られていないはずです。
 即座に立ち去った判断が、間違っているとは思いません。
 そもそもあそこで自制出来なかったのが最大の間違いだったはずです。私の馬鹿。
 それにしても――誰でしょう、あの女は。
 会話から察するに料理は下手だそうですね。
 ――下手なら上達するまで引っ込め。不味い料理なんか、エースケくんじゃなくて、
 野良犬にでも食わせておけ。
 エースケくんが楽しそうに喋っていました。けれど、それは私とではない。
 何故あの馴れ馴れしい女が立っている位置に――私はいないのでしょうか。
 右手が痛いです。
 見ると、握り締めて出来た爪のあとが、はっきりと残っていました。
 いけないいけない。落ち着かなきゃ。
 呼吸を整える。
 ともかく部屋の番号は記憶しましたし。次は――郵便受け。
 駆け足で到達すると、記憶した番号を探します。――あった。そして幸運です、鍵はしていませんでした。
 中身はほとんどチラシです。そこに片手を突っ込んで、私は別のものを発掘しようと、指を蠢かす。
 やがてチラシとは感触の明らかに違うなにかを掴みました。
 取り出すと、封筒でした。
 どうやら携帯電話料金の請求書らしいですね。幸運って、重なるみたいです。
「エースケくんの……携帯の、番号……」
 知らず、笑みがこぼれました。
 エースケくんの、と言う部分が……たまりません。エースケくんの一部を入手したみたいで、もう……。
 呼吸が荒くなってきました。
 住所に携帯の番号。初日の収穫だと思えば、まあまあです。今日はこれで帰りましょう。
 色々考えないと駄目です。
 あの女が、たぶん一番重大な要素。
 きっとエースケくんは、あんな料理も下手な女と馴れ合っている内に――
 女性に絶望してしまったんだと、思うんですね、私は。
 いえ、そうですよ――あの女の、せいです、きっと……私の告白が砕かれたのは――っ!
 ぐしゃっと、握っていた封筒を潰してしまいました。
 いけません。これにはエースケくんの番号が、エースケくんの、エースケくんの――。

 ふらふらと、ふらふらと。
 少女は愛おしそうに封筒を眺めながら、歩いている。


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