疾走 第10話
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 幸せになりたかったら――いつでも、私の名前を、呼んでくださいねっ……?

 そんな台詞を吐いた先輩の眼球が、濁っているのは、俺の錯覚なんだろうか。

 起床は最悪の一言に尽きた。
 夢なんか時々見ても、『見た』という事実だけしか憶えていなくて、その内容は
 いつも明確に記憶していない。
 なのに今日の悪夢は――酷く現実味を帯びていて、はっきりと思い出せる。
 眼前には、いたり先輩がいた。
 そして何回も、理解を求めるのではなく強制を催促しているのではないかと
 疑ってしまうくらいに、繰り返し俺に言うのだ。

 私の名前を呼ばないと、幸せには、絶対になれませんよ……エースケくん。

「いたり……っ、先輩」
 ベッドの上。上半身だけを起こした姿勢で、試しに呟いた。
 これで――こんな名前を呼ぶだけの行為で幸福に至れるのなら、
 人間は苦労なんてしないんだよ……っ。
 まるで自分の名前だけは、神聖な魔法の言葉だとでも伝えているかのよう。
「ありえないって……わかってて言ってるんですよね、先輩」
 時計は六時の二十六分。
 寝汗が酷いので、今朝はシャワーの洗礼を受けなければ。
 今日から、有華と登校だからな。

「どうもっ。エー兄の彼女のあたしです」
 チャイムに、ドアを開ければそんな第一声が飛んでくる。
 谷川有華はやたらと笑顔で、そこに立っていた。
「彼女っ……?」
 ぼんやりと、噛み締めるように呟く。
 俺は――そうだ。有華は、俺の彼女――なのだ。
(なんで俺は……いま、違和感なんか、感じて……っ?)
 ここ数日で、あまりにも周囲の状況が変化し過ぎてしまったから……疲れてるんだな、俺は。
「――エー兄。どうしたの、ボケッとしてさ」
 有華が上目に、俺の表情をうかがってきた。
「あ、ああ……っ。い、いやはや、実はちょっと悪夢見ちゃってさ、今朝は目覚めが悪かったんだよ」
「悪夢……っ? へえ……どんな悪夢だったのっ?」
 昨日の――とは続けられず。
「え、ええっと……っ」
「――あの女の妄言が、夢に出ちゃったりした……っ?」
 有華の表情から……その台詞と同時に、感情が消え失せる。
 俯いたまま、俺の返答を待っている様子だった。
「ち、違う、違うって。そんな悪夢じゃなくて、こう、その……っ」
「まさかとは思うけど、一応聞くね、エー兄」
 要領のまとまらない俺の言葉は無視して、有華はスキップするように、まずは一歩だけ後ずさる。
 そして――その、能面みたいな表情を持ち上げて、無機質の視線で俺を見据えた。
「あんな……頭のねじが十本くらいぶっ飛んでるストーカーの変態女の言葉を――欠片でも、
 信じてないよね……っ?」
「――っ」
 何故か……心臓が、爆ぜるように蠢いた。

 有華に倣うように……俺も、後ずさった。
 なんだよ……っ。非難の意思をひしひしと感じるのは……俺の自意識が、過剰なだけなのか……っ?
 俺は――有華に叱られているっ……?
「し、信じるわけ……ないじゃんか、はははっ」
「うん。私とは絶対に、幸せにはなれないなんて……っ。ほんと、自分の行動
 顧みて発言しなさいよって、感じだよね」
 露骨なまでの、悪意……っ。
 俺には、有華の背後に――漆黒の、もやもやした空間が、見えた。
「エー兄は……あたしのこと、すきって、言ってくれたよね……っ?」
 今度は、昨日の確認か……っ? 今更言わせないでもらいたかった。
「言ったよ」
「じゃあ……絶対に、誓って」
 近付いて、有華は俺の両手を自分の両手で掴んだ。
 がっしりと――万力を想起する、ありったけの力で以て。
「――あたしの手と、エー兄の手はね、指先から溶けて手首まで混ざり合っちゃったの」
「は、はあ……っ?」
「仮定の、あくまでイメージでのあたしとエー兄だよっ?」
 それくらいわかるわっ。人間同士が溶けて混ざり合うなんて……っ。
「もう……ずっと、離れないで……っ」
「ゆ、有華っ?」
「ずっと、一緒に……手が、こうやって繋がる距離で……っ。いるって、誓って」
 有華が俺を見上げてくる。
 ――ここで、安易に頷くのは簡単だろう。けれど、それを実践するのは……
 果たして絶対にと言い切れるのか。
 などと高一の分際で生意気に悩んでいると。
「離れたら……繋がってる部分の肉が千切れて、血が出ちゃうの」
「――ゆ、か……っ?」
 有華の爪が、手の甲にめり込んでくる。……痛かった。
「いっぱい、いっぱい出ちゃうよ。出血で死ぬくらいには、確実に……離れて千切れた部分から、
 迸るの……どぴゅ、どぴゅどぴゅ、って、噴水みたいに」
「有華……っ。痛い、痛いって」
「――絶対に死ぬよ。どちらか片方でも、お互いから離れたらっ……!」
 ど、どうしたんだ……っ!?
 いい加減離してもらおうと腕に力を込めるが……そうすると、肉に爪がさらに食い込んできて、
 なお痛かった。
 ついには――赤い線が、手の甲に走ってしまう。
「だから――鮮血の海に沈みたくなかったら……っ。あたしから、離れたら駄目なんだよ、エー兄」
「わ、わかった、わかったから、離してっ……!」
 俺の了解をずっと待っていたのだろう、その一言を引き金に、有華から力が抜け落ちる。
 手の甲と、有華の人差し指の爪に……同じ色が、ある。
「うんっ。あたしだって死にたくないから、もう絶対にエー兄から離れないよ……
 だから、安心してね」
「あ、ああ……っ」
「じゃあ、行こうっ。ほらほら、さっさと鍵を閉めるっ!」
 ――何かが、おかしい。
 この、有華の一変した雰囲気は……なんだったんだろう。
 それに。
 有華の誓いは……つまり、離れるという表現は、別れるという意味で捉えるのだろう。

 もしもエー兄があたしと別れるようなことがあれば……エー兄を殺して、あたしも死ぬ。

 この意訳は……あまりにも、誇大に表現しているかもしれない。
 けれど――この手の甲の痛みが……まさにその通りだと、俺に訴えているようでならない。
 鍵を閉める俺の背後に、視線を感じる。
 振り返ると――有華は微笑んだ。

 誰かに酷似したような……三日月の、口元。


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