紅蓮華 エピローグ
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 ――意識の覚醒と共に迫り来る強烈な痛み。
 あの日から、その鈍痛は一日も休ませてくれることなく、もう習慣化し始めていた。
 どうやら今日も例外には漏れなかったようだ。
 開かれたカーテンから覗かれる空は既に夕闇に覆われ、ますます酷くなる頭痛と相俟って、
 陰鬱な気分にさせてくれる。時間の感覚が狂い始めて、今日が何日で何時なのかも、良く分からない。
 ただ、道路を歩く華恋の姿が見えることから、もう俺には縁のない陸上部が終わる時間帯なのだろう。

 由姫の消息が分からなくなって、もう十日が過ぎた。
 
 正確には、俺が行方知れずになった由姫のことを認識してから今日で八日目になる。
 実際に由姫が姿を見せなくなって二日間、俺は由姫の家のベッドで強力な睡眠薬を飲まされ、
 眠っていたらしい。
 見つけてくれたのは妹の華恋で、何の連絡も無しに二日間も家に帰らない俺を心配して
 「友達の家に泊まる」という俺の言葉から、俺のクラスメイトで仲も良かった由姫を連想して
 電話をした後、何度やっても音信不通だったので来てくれたとのことだ。
 正直、由姫の家に泊まったあの夜のことは、あまり憶えていない。
 華恋を、妹を妹として見ることができなくなってから、悩んで、苦しんで、諦めようとして、
 そんな時に由姫から告白を受けて、愛を実感できないまま惰性で付き合う事になって……あの日が、
 最初の恋人らしい恋人になろうと決意した夜だった。

 あの日、俺は何をした……?
 睡眠薬で長い間、意識を混濁された後遺症なのか、断片的な情報しか引き出せない。
 激しい律動と揺れる肢体。乱れる髪と快感に歪む表情。卑猥な水音と皺を作るシーツ。
 情事を連想させるには十分な情報。だけど――。
 真紅に揺らめく何かが、頭にこびりついて離れない。
 あの夜、何があった……?
 間違いなく、由姫の失踪には俺が関係している。
 そのことが罪の意識になって、戒めとばかりに八日間、激しい頭痛が続いている。
 横たわるベッドも、眠る度に吹き出てしまう汗の臭いが染み込んでいて気持ちが悪い。
 我慢できず、俺は大儀そうに身体を起こした。
 それとほぼ同時に部屋の扉が音をたて、開き、嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を擽る。

 それは紅い、何か……。

 ……真っ赤な……バラ……?

「おにいちゃん……」
「…………」
 入ってきたのは紅いバラの花束を手にした華恋だった。
 扉を後手に閉める。

「起きたんですね」
「……おはよう」
「おはようございます」
 俺の今の気分とは裏腹に、華恋は優しい笑みを浮かべて言ってくれた。

 あれから、華恋は特に変わった様子を見せていなかった。
 いや、変わったこともあるのだが、不自然な程、行方不明になった由姫のことを甘受し、
 いつも通りの日常を過ごしている。
 だけど、そうしながらも、こうなった俺を毎日心配して部屋に来てくれている。
 いくら睡眠薬を飲まされていたとはいえ、由姫の家のベッドで眠っていた俺を警察が疑った時にも、
 必死に庇ってくれたらしい。
 ――無理をしている。
 最初の頃はそう思っていた。俺のために、俺を心配させないために自分を殺しているのだと。
 華恋は由姫のことを慕っていたし、何より知り合いが失踪したと聞いて普通にしている方がおかしい。

 ……その「おかしい」を、俺は華恋に感じていた。

「お腹、空いていますか?」
「いや、大丈夫。それに減ったら自分で作って食べるから」
「そうですか?」
 少し残念そうに呟いて、身体を寄せてくる。

「華恋」
「はい?」
「…………」
 これが華恋の変わったことだった。

 

 必要以上に身体をすり寄らせてくる。
 素直になった……とは少し違うかも知れない。まるで今まで我慢してきたものを爆発させたように
 甘えてくる。
 その華恋の表情には悲しみの色など微塵も感じさせない、幸せそうな笑顔が映し出されていた。

「もう、何ですかぁ?」
 以前は絶対にしなかった、媚を売るような声の調子で言いながら顔を覗き込んできた華恋に、
 我にかえった俺は華恋の手にしているバラの花束に視線を寄せた。

「……それは?」
「バラです」
 見れば分かる。
「そうじゃなくて、それ、店のバラだろ。どうして持ってきたんだ?」
「ん〜、プレゼントです」
 そう言って、手にした花束を渡してきた。
 視線を寄せると、バラの深い赤が強烈に目の網膜に焼き付けられ離れず、バラの香りが
 鼻から通って脳髄を痺れさせるような刺激を感じさせた。

 ――分からない。
 最近の華恋の行動が全然理解できなかった。
 プレゼントをされるような日でもなければ、行いもしていない。

 疑問を口にしようと開く前に、先に華恋の声が聞こえてきた。

「紅いバラの花言葉……知ってますか?」

 ――あぁ、なんだ、そうか。

 自分でも驚くほど早く、華恋の言葉の意味に気がついた。
 何で気付かなかったんだ。簡単な事だったんじゃないか。
 紅いバラの花言葉、花屋の息子だ。昔のように知らないわけがない。
 いや、昔から知らないフリをしてきただけなのかも知れない。

 気付けなかった想い。
 歪みきった想い。
 間に合わなかった想い。
 許されない想い。
 だけど、何より望んでいた想い。

 もう、手遅れになってしまったけれど……それでも。
 どうやらお互い、捨て切れそうにないらしい。

 

 

「それじゃ、おにいちゃん、私部屋に行きますね」
「……待てよ」
 部屋を出ようと扉に近寄った華恋に、静止の声をあげた。
「え?」
 困惑する華恋。
 あの日から、俺から華恋を呼び止めることなんてなかった。
「こっち」
「あ、はい……?」
 手招きをする俺に、おずおずと近寄ってくる。

 俺がベッドに腰掛けるように言うと、華恋は素直にそれに従って座った。
 ご褒美とばかりにその華恋の頭をポンポンと優しく撫でつけてやる。
 昔から少しも変わってない、しなやかで柔らかい髪だ。
 華恋は小さく、「あっ」と声をあげ呼吸が荒くなったのを感じたが、抵抗はせず、
 黙って受け入れたままだった。
 最後にもう癖のようになった、流れに沿って頭を撫で、髪を整えさせる作業をすると、
 華恋の頭からゆっくりと手を離した。

「おにい……ちゃん?」
「ちょっとじっとしてろよ……」

 俺はそれだけ言って、花束からバラを一輪だけ取り出し、髪の中に挿しいれた。
 綺麗な、紅いバラを。
 いつかのように……。
 だけどあの時とは違う。後戻りのできない選択をしようとしている。
 一人の少女を犠牲にして、地獄に落とすようなことをしている。
 俺が引き金を作って、おかしくなった華恋が引いてしまった。

 でも、もうどうでも良い。
 どうせもう全部壊れてしまってるんだろう?

「目印だ」

 振り返った華恋は、誰よりも綺麗で、誰よりも幸せそうに微笑んでいた。

 

 忘れてはいけない事を忘れて。
 想ってはいけない人を想って。
 こんな結末を招いてしまった。
 どれだけ恨まれたって構わない。どんな罰でも受けるし、それだけのことをしてる。

 だけど今だけは……こいつの隣で華のように可愛らしい笑顔を見続けさせてくれ。

 華は、真っ赤な『血』をつけて、いつまでも俺に寄り添っていた。

 

 【fin】

 

『花言葉補足説明』
白いバラ  尊敬、純潔
黒赤色のバラ  深い憎しみ(?)
紅いバラ  死ぬほど恋焦がれています


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