紅蓮華 中編
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 正門まで歩み寄ったおにいちゃんは先輩に何かを話しかけています。
 声はおろか、二人の表情も良く見えませんが、楽しそうな雰囲気はここまで伝わってきました。
 その中で、おにいちゃんは私の名前を一度でも口ずさんでくれているのでしょうか。
 おにいちゃんの声が私の名前を呼ぶ度に、私の身体は愉悦に震えてしまいます。
 だけど今、私がおにいちゃんの声を聞くことはできません。おにいちゃんの隣は
 私じゃない人が占領しています。
 私じゃない人が隣でおにいちゃんの姿を見て、声を聞き、会話しているのです。
 もしもそれが先輩以外の女の人なら、あまりに気持ち悪くて寒気と吐き気を覚えてしまいそうです。
 マネージャーの仕事なんか放り出して、あの中に割り込み、そしてどんな手を使っても
 二度とおにいちゃんの近くになんか寄らせないようにしてあげます。
 それなのになぜ、先輩と一緒に帰ることを(快くではないけど)容認したかと言うと、
 答えは至極簡単、先輩は特別だからです。
 先輩は私のおにいちゃんへの想いに気付いていて、協力してくれてる唯一の人です。
 実の兄妹を好きになるということは、社会や家族という保障されたグループを
 拒絶する事に他なりません。そんな私の内の不安を先輩は何度も取り除いてくれました。
 何より、先輩は、自分にとっておにいちゃんは絶対に友達以上の存在じゃないと、
 あらかじめ私に宣告しておいてくれたのです。

 そんな先輩だからこそ、おにいちゃんが惹かれるのではないかという不安はありますが、
 そうなったらそうなったで、おにいちゃんの振られて傷ついた心を慰めてあげることができます。

 あはっ……おにいちゃん……。ふふふ、もしそうなったら、いっぱい、いっぱい、
 慰めて、慰めて、ずっと一緒に泣いてあげます。抱き締めて、お世話をして、ずっとずっと
 いつまでも一緒に居てあげます。
 ――その時に告白するのも良いかも知れませんね……。
『あなたを愛してる人はここにいますよ』って。
 あぁぁぁ……おにいちゃんの耳元でそんな事を言えたらどんなに気持ち良いんでしょう。
 それともおにいちゃんが私の耳元で『愛してる』って囁いてくれるのでしょうか?
 何度も、何度も、日が暮れるまでずっと……。
 あうぅぅ……お、おにいちゃん……そんなこと言われたら……私、駄目になっちゃいそうですよぅ……。

 おにいちゃん……大好きです、愛してます。
 こんな陳腐な言葉でしか想いが表せないのが凄く歯がゆいぐらいです。

 ねぇおにいちゃん、いつか想いが通じ合えたらすぐにでも結婚しましょうね?
 本当の結婚が出来なくても、世間が祝福してくれなくても、全然構いません。
 ううん、それどころか私以外におにいちゃんの凛々しいタキシード姿なんて絶対に
 見せたくありません。二人だけの結婚式で十分なんです。
 あ、でもやっぱり先輩だけには見せてあげても良いかも知れません。
 私たちの仲を応援してくれる唯一の人だもの。二人の幸せを見て欲しいです。
 そして最後にブーケを、真っ白いブーケを先輩に直接渡してあげるんです。
 これからの幸せと、素敵な人との出会いを願って……。

 それぐらい、先輩は特別な人でした。

 

 部室にはカレンダーが貼ってあります。
 試合や合宿日などの予定の他に、部員の個人的用事のある日にまで様々な蛍光ペンで印が付けてあり、
 もう誰の何の用事なのかも分からないほどカラフルに仕上がっているカレンダーです。
「あ……」
 部室の掃除が終わり、ふとそのカレンダーを見たとき、あることに気付きました。
 ――今日は先輩の誕生日。
 あまり自分のことを主張しない先輩は私とおにいちゃんにしか誕生日を教えてませんし、
 一軒家に一人で暮らしていて祝ってくれるはずの家族もいません。
 自分の生まれた日に誰も祝ってくれないことの悲しみは、ずっと独りで寝たきりだった私には、
 痛い程分かります。
 それに普段から先輩には、気を使っておにいちゃんと二人きりにさせてもらったり、
 相談にのってもらったりしていますし……。
 ――よし。誕生日に寂しい想いなんてしちゃいけませんよね。
 丁度、今日はおにいちゃんもお泊りですし、こうなれば私もお泊りさせてもらいましょう。
 おにいちゃんのいない家なんかに帰っても、意味がありません。
 思い立った私は、長椅子に置いていた通学用鞄を片手に握り、部室の扉を開けます。
 せっかくおにいちゃんに心配してもらったのに、結局こんなに掃除に時間がかかってしまいました。
 やっぱりおにいちゃんがいないと駄目ですね。

 外に出ると、グラウンドはもう鮮やかな夕暮れの紅から宵闇に染まり始めていました。

 

 夕食を食べた私はお父さんとお母さんに、今日はお友達の家に泊まりに行くという旨を伝え、
 純白の華を包んだ白い花束を手に、先輩の家に向かっています。
 私の家は、二階を居住スペースとして、一階を母が副業でお花屋さんを営んでいるため、
 私が今手にしている華――白いバラも即席のお祝いとして簡単に手に入れる事ができました。
 すっかり日の落ちた辺りの暗闇には、気味が悪いほど人の気配を感じません。
 それでも何とか家の前まで来た私は頼りない外灯の光を頼りに、軒先のプレートで
 先輩の苗字と名前を確認します。
 ――藍川由姫。
 確信した私は立派な作りのインターホンに手を当て、力を入れました。
 それと同時に、家の中から微かに漏れてくる小気味良い電子音。

 しかし、しばらく待っても扉が開かれることもなければ、誰かが来てくれる気配もありません。
 再度、インターホンを押します。

 同じように待っても不気味な静寂しか返ってきません。

「おかしいですね……」
 この時間までどこかに出かけているということは先輩の性格からまず有り得ません。
 考えられるとすれば、事件に巻き込まれたか、何かの理由での突然の失踪、
 もしくは買い物など一時的にどこかに出掛けた可能性ですが……。
 某探偵風に小難しく考えてみましたが、一人暮らしをしている先輩のことを考えると、
 買い物というのが一番有力です。
 こんなことなら来る前に電話をしておけば良かったのに。
 礼儀としてもそうしておくべきだったのですが、どうしても先輩を驚かせたかったのです。
 意気消沈した私は一度嘆息し、最後に開くはずもないドアノブに手をかけ……。

「あれっ?」
 予想していたはずの抵抗がありません。そのまま引いてみると軽い音をたてて、
 あっさり過ぎるほど簡単にドアが開かれました。
 視線をそこから覗かれる廊下に寄せると、奥から微かに光が漏れています。
 几帳面な先輩が鍵をかけずに外出するとは思えません。
「せんぱ〜い?」
 控えめに先輩を呼んでみますが、やはり返事はありません。
 疑問に感じた私は、失礼を承知で先輩の家に足を踏み入れ、その光に向かって歩を進めました。

 

 家の中に入ると、外では風で流されていたバラの香りが鼻腔を擽り始めました。

『ほら、華恋、しっかり手を繋いでろよ』
 こうしてバラを手にしているだけであの日の光景が、色褪せた映像となって脳裏に浮かびます。
 十年前、その日も私を連れ出したおにいちゃんは大勢の人で賑わう大通りに連れて行ってくれました。
 最初は始めて見るあまりの人の多さに、感動していましたが、気付いたらしっかり掴んでいたはずの
 おにいちゃんの手をいつの間にか離してしまっていて、私はその場にしゃがみ込んで声をあげながら
 泣いていました。
 結局は、顔を真っ青にさせたおにいちゃんがすぐに見つけて連れて帰ってくれましたが、
 私はなかなか泣き止まなくて……。
 家に着くと、おにいちゃんはお店の赤いバラを取って、私の髪に挿してくれたのです。
『ちょっとじっとしててな……目印だ』
 きっと、おにいちゃんは赤いバラの花言葉なんて全然知らなかったんだと思います。
 それでも、その時の私にとっては涙が出るほど嬉しいことで……。
 その時から真っ赤な紅い『バラ』は私の中でとても大切なものになっていました。
 あの綺麗な、綺麗な、真っ赤な、真っ赤な、紅色の…………。

 ――――血?

 ……あれ……?
 ……あれっ? あれっ? あれっ? なんで? え?
 なにこれどういうことですかおかしいよだってあれねぇほら……。
 私確かめましたよ? ここに入る前。
 絶対、間違いなく、百パーセント、ここ先輩の家ですよ?
 『藍川由姫』って軒先で確かめましたもん……。
 だから私はおかしくないです。おかしいのはそっちなんです。
 だってそうでしょ?

 ……なんで先輩のベッドで先輩とおにいちゃんが裸で一緒に寝てるんですか?


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