紅蓮華 前編
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 私のおにいちゃんは、昔から何をやっても大した努力もせずにそれなりの評価を得ることができる人
 でした。
 天才という程ではないにしろ、勉強も運動も同年代の子達よりは少し上の結果を残し、
 だからなのか性格も道化的というか、それほど熱心に取り組んでいる姿を見た事がありません。
 ――必要がないからしないだけだ。いつか私がその事を指摘した時、おにいちゃんが言った言葉です。
 そんなおにいちゃんにも一つの非凡な才能がありました。
 人が地面に足をつけた時から備わっていた力。走ることです。
 綺麗なフォームを崩さずに地を蹴り、誰よりも疾く駆けるあの人の姿を私はずっと隣で見てきました。
 生まれつき身体が弱くて、よく病気にかかってしまい、外出できなかった私の手を引いて、
 おにいちゃんは何度も外に連れ出してくれたのです。
 今もグラウンドを駆けるあの人の姿を見る度にそのことを思い出してしまいます。

 ――真っ赤な、赤いバラと一緒に……。

 

 

 ――ピ!
(あっ!)
 あの人を眺めていた私は、突然聞こえた笛の音に我にかえりました。
 あぶない、あぶない……。思わず魅入ってしまっていたようです。
 離しかけていたストップウォッチを強く握り、走り出した先輩に視線を戻します。
 軽快でリズムに乗った駆け音。
 真っ白い運動靴が白線にその色を重ねたときが私の仕事の時間です。
 ――カチッ

「はぁ、はぁ……」
「先輩、今のが最後の一本です。お疲れ様でした」
 零コンマ単位でもずれてないだろうストップウォッチとタオルを手に、先輩に近寄ります。
「ふぅ……えぇ、お疲れ様」
 立ったまま自分の膝に手を重ねて息を切らせている先輩に、記録が見えるように
 ストップウォッチの画面を見せ、ついでにタオルも渡します。
「凄いですね。最後に今日最高のタイムが出せるなんて……」
「ふふ、長距離に転向した方がいいのかしらね」
 先輩は私の差し出したタオルを受け取りながら、微笑んでくれました。
 いつ見ても凄く笑顔が愛らしいです。彼女目当てに入部する生徒が多いのも分かる気がします。
 普通の女性なら羨ましくも感じるでしょうが、「ろくな男と付き合ったことがない」
 と嘆いていたこともあり、先輩は先輩なりに疎ましく思っているらしいです。
 そう考えると、ずっと心に決めた大好きな人がいる私は得なのかもしれません。
 そんなことを思っていた時です。

 

「よっ! お・つ・か・れ」
「ひゃうっ?」

 な、なに!? 突然私の肩から何かが出てきて声を……。
 声を…………って……。あ……。
 ――トクン
 その人の顔を確認した途端、急に心臓が高鳴り始めました。
「あら……」
「お……おにいちゃん……。男子も今終わったんですか?」
 肩から生えてきた顔は、思い切り馴染みがあるものでした。
「おう、もう汗でびしょびしょだ」
「お疲れ、桜木くん」
 返事とばかりに、おにいちゃんは私の反対側の肩から手を出して振っています。
 私から見ると、まるで本当に肩からおにいちゃんの手が生えてきたみたいです。
 しばらくボーっとその手を愛おしく眺めていたのですが、それに先輩は気が付いたのか、
 上品に口を手に当てながら笑ってきました。
 恥ずかしくなった私は急いで視線を逸らして、表情を整えます。
「それはお疲れ様でした。どうりで肩が湿ってくるはずですね」
「おお、首筋の汗が気持ち悪くて気持ち悪くて」
「つまり私の肩をタオル代わりにしてるということですか?」
「まさにその通りだぜ、マイシスター」
「退けてください」
「しかしな、マイシスター」
「退けてください」
「……あい」
 おにいちゃんは渋々といった様子で私の肩から顔を離しました。
 あ……あぁ……。おにいちゃんの熱がなくなっちゃう……。
 いつも余計なことばかりを言う自分の口に何かを突っ込んでやりたくなりました。

「ふっ、テンドンか……。我が妹ながらあっぱれ」
「なに訳の分からないこと言ってるんですか? ほら、先輩も呆れてますよ?
『なんでこんな人が長距離のエースなんだろう』って」
「お前な……時に言葉は暴力より深い心の傷痕を……」
「クスクス、華恋はお兄さんに厳しいわね」
「だって先輩……」
 はぁ……また、やっちゃいました……。どうしてこうなっちゃうんでしょう……。
 好きなのに……ううん、そんな言葉じゃ表せないぐらい、おにいちゃんのことが大好きなのに、
 素直になれない自分が凄く憎らしいです。
 自覚する前はこんなに素直じゃないわけじゃなかったのになぁ。
 おにいちゃん……ごめんなさい。
「おにいちゃんが私の肩で汗を拭うから悪いんですよ」
 この服、洗うのもったいないですよね……。うん、決めました。
 このシャツはこのまま私の部屋に飾っておきましょう。
 あはっ、これでずっとお部屋でおにいちゃんを感じることができますね。

 

「ありがとうございました〜」

 部活の終礼も終わって、陸上部の部員の人たちが様々な方向に散っていきます。
 私は真っ先におにいちゃんのところに向かいました。

 実はこの後の時間が部活中、一番の楽しみだったりします。
「おにいちゃん、グラウンド整備、行きましょう?」
 基本的に陸上用グラウンドの整備や部室掃除は一年生の仕事で、三年生である
 おにいちゃんや二年生の私がする必要などないのですが、マネージャーという立場の私が
 何もしないわけにはいきません。
 おにいちゃんはそんな私のために、毎日一緒に手伝ってくれるのです。
 今日も隣に並んでおにいちゃんを身近に眺めながら共同作業ができると、
 高揚を押し殺すことができませんでした。
 しかし、おにいちゃんは申し訳なさそうに頬をかくと、

「あ〜、行きたいのは出なんだが」
「出?」
「いや、山々なんだが……。もうすぐ定期考査のテストがあるだろ?
 受験生だし、これからちょっと友達の家に泊まりこみで勉強してくるんだ」
「え……?」
 思わず間の抜けた声をあげてしまいました。
 まさか断られるとは思ってなかったからです。
 それも……泊り込み?

「約束だし、あんまり待たせるわけにもいかないしな。……えぇっと……」
 おにいちゃんが困ったように言葉を濁らせます。
「あ、ううん。そっちの用事も知らないで、いきなりごめんなさい。……そうですよね。
 おにいちゃんは受験生なんだから私の手伝いなんてしてる場合じゃないですね」
 そう言いながらも、本当は嫌で堪りませんでした。
 本当は「そんな用事なんか放っておいて下さい」と言って、約束なんて破っても良いから、
 行って欲しくありませんでした。
 今日一日会えないなんて……寂しくて、切なくて、狂ってしまいそうです。
 そんなことを思っていたからか、少し皮肉っぽい言葉になっていることに、
 言った後で気付きました。
「悪いな」
 そう思うなら行かなきゃ良いですのに……。
 でも、遊びなんかが理由ならともかく、テストのために勉強しようとしているおにいちゃんを
 止めることなどできません。
 それにおにいちゃんは優しいから……言えば、無理にでも手伝ってくれそうです。
 おにいちゃんと一緒に居られないのは確かに凄く嫌だけど、あんまり無理を言って、
 嫌われたりしたら生きていけません。
 だから妥協案を出すことにしました。
「後日、ショッピング同伴。それで良いですよね?」
「……前向きに善処します」
「信じますよ」
「まぁ、政治家よりは信頼しててくれ」
 そこまで言って、ようやく私は笑顔を見せてあげることができました。
 おにいちゃんが私の頭をポンポン撫でつけます。私が言う事を聞いたときにいつもしてくれた
 小さい頃からのおにいちゃんの癖みたいなものです。
 少し気恥ずかしかったのですが、これだけは絶対に止めて欲しくないので、何も言わずに
 時間が許す限り撫でてもらいます。
 最後に毛並みに沿って頭を撫でてもらい、髪を整えさせると、ゆっくりとおにいちゃんの
 大きな手のひらが離れました。

「じゃ、あんまり遅くなる前に帰れよ」
「あ、うん」
 その何気ない気遣いが凄く嬉しいです。
 おにいちゃんは身を翻すと、先輩のいる正門へ走り寄って行きました。

 …………あれ? 先輩のいる?
 先輩は正門の柱を背にもたれかけ、誰かを待っていました。

 ――いえ、誰か、ではありません。
 おにいちゃんに手を振っています。
「おにいちゃん!」
 思わず少し大声になってしまいましたが、おにいちゃんは立ち止まり、特に気にした風でもなく、
 こっちに戻ってきてくれました。

「ん? どしたい」
「先輩と一緒に帰るんですか?」
「あぁ、あいつと帰り道途中まで一緒なの、お前も知ってるだろ?」
「それは知ってますけど……」
 何で先輩と帰るんですか。言いかけてすぐに口を噤みました。
 私がマネージャーとして入部してからは、私の仕事を手伝い、ずっと一緒に帰ってきた
 おにいちゃんですが、その前は同級生の人たちと帰りは一緒だったはずです。
 先輩とは同じクラスで仲も良い、ましてや同じ方向が帰路で、今日みたいに一緒に帰れる日なら、
 一緒に帰らない方が不自然かも知れません。
 お友達の家に行く前に一度私たちの家に寄るということを推測すれば、別に何もおかしいことはないです。
 でも……。

「本当に一緒に帰るだけですか?」
「馬鹿を言え。男がそんな健全な考えしか持っていないようなら人間は滅んでしまう」
「ふざけないで」
 私は冷たい笑顔を顔に貼り付けたまま言いました。
「あ〜……まぁ一緒に帰るだけだよ」
「何ですか今の間は?」
 しつこく問い続ける私におにいちゃんは悪戯っぽい微笑を浮かべます。
「冗談だって」
 それだけ言うと、さっさと正門の方へ再び走り寄っていきました。
 少し呆気にとられていた私はその後姿に聞こえないよう、ぽそりと呟きました。
「それも信じますからね」


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