とらとらシスター 第35回
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 掌に鈍い感触が伝わってきた。お肉を捌くときの手応えに似ているかと思っていたけれども、
全然違う。覚悟もしていたけれども、実際に刺してみれば酷く生々しいその弾力は
私に吐気を沸き上がらせた。
 だけど、ここでくじけてはいけない。
 弱る心に喝を入れて、刺す直前に閉じてしまった目を開いた。最後までやりとげると決めたのは
自分なのだから、そこから逃げてはいけない。
 一瞬。
 何が起きたのか理解出来なかった。唇に柔らかい感触が当たり、数秒してそれが離れていく。
それを名残惜しいと思いながら姉さんの顔を直視すると、そこには微笑を浮かべた顔があった。
諦めでもなく、怒りでも悲しみでもなく、純粋にこちらを包み込もうとする暖かな表情。
不純物など混じっていない、完全に純粋なものだ。
 どうして、と言おうとしたが声が出てこない。唇も舌も動かせず、機能を全く果たしていない。
それでも何かを言おうとしても、ただ喉の奥から細く空気が漏れてくる。
ドラマなどでは刺された方がこんな状態になるのに、これでは立場が全く逆だ。
 それでも、せめて何かをしたいと思い小刀から手を離した。短い時間で思考して、
まずは抱き締めようと思い腕を伸ばす。しかしそれは宙を切った。直後、重いものが床に落ちた音が
聞こえてくる。畳敷きの筈なのにやけに大きく聞こえてくるそれで、やっと思考が追い付いた。

 腕が空振ったのは急に姉さんが視界から消えたからで、それを確かめるように視線を床へ向けると
倒れた姉さんの体がある。
 再び目を閉じてしまったけれど、私の目の前で広がっている筈の光景はしっかりと
目に焼き付いていた。仰向けに横になっている姉さんの体、その脇腹から生えたように
小刀が突き刺さっている。倒れた拍子に傷口が広がったのか、その部分からまるで洪水のように
鮮血が溢れてきている。それは衣服だけでなく床までもを赤く染めていた。
 意識した瞬間、思わずむせて咳き込んだ。それのせいで大きく呼吸をする度に、
生臭い血の匂いが鼻孔から侵入してくる。
 どうしよう。
 数秒して漸く目を開いたけれども、目の前には絶望的な光景があるだけだ。足が震え、
あまりの恐怖にその場に座り込む。青海さんを殺したときとは比べ物にならない程の
後悔が沸き上がってきた。もしかしたら先程の姉さんの表情を見たからかもしれないけれど、
今更になって失いたくないと思った。
 そうだ、電話。
 救急車を呼べば、助かるかもしれない。
 ポケットから携帯電話を取り出し、開こうとしたところで腕に軽い圧力がかかる。
袖を姉さんが掴んでいた。顔を見てみれば先程のものと変わらないままで、
ゆっくりと横に振っていた。目が合い、口の端が僅かに上がったことで、呼ばないで、
ではなく呼ばなくても良いと言っていることが分かる。
 吐息を一つ。

 私はなるべく悲しく見えないような笑みを浮かべて姉さんの隣に座った。
そして負担があまりかからないように上体を重ねると、ゆっくりと唇を重ねる。
少し照れ臭かったけれども他に見ている人は居ないし、一度したのだから気にする程でもない。
続いてこのまま抱き締めたかったけれども、流石に止めた。抱いてしまったらきっと苦しむだろう。
その代わりに、長く長く口付ける。舌に血の味がにじむけれども、構わなかった。
不快だとも思わない。これが姉さんそのものだ。
 数分。
 兄さんとも数える程しかしなかった長さの口付けを終えて唇を離すと、
姉さんは子供のように笑った。言葉が無くてもなんとなく分かる。何だか照れ臭いね、
と言っているのが表情から伝わってきた。昔から何度も、それこそ数えきれないような回数で
見続けてきた笑みだからこそ、伝わるもの。
 私も同じような表情をしていたのだろう、お互いに頷いて同時に小さく笑い声を出した。
姉さんの口の端から溢れた血をハンカチで拭い、それをされた姉さんが
恥ずかしそうな表情を浮かべる。しかし、それでも笑みの形は崩さない。
 凄いな、と思う。
 今だって傷口が尋常でない痛みを訴えてきている筈なのに、それを気にしていないような態度で
接してくれている。それは気遣いかもしれないけれども、それでもそうしていられる姉さんを
誇らしく思った。そして、それをさせてしまっている私を情けない、とも。
 不意に、温かさが体を包んだ。

 私は相当酷い表情を浮かべていたらしい、慰めるように姉さんが私を抱いていた。
死ぬ間際だというのにそれはとても力強く、温もりに満ちている。人が死ぬ直前は
温度も力も弱くなると言われているけれども、それは嘘だ。現に姉さんの体は暖かいし、
腕もほどくことが出来ない。体に負担が掛るから止めてほしいのに、どれだけ頑張って
脱け出そうとしてもそれは私を捕えたままだ。
 これ以上は姉さんの負担を強くしてしまう、と私が逃げるのを諦めると、
嬉しそうに頬を寄せてきた。滑らかな肌が擦れ合う感触が気持ち良い。
 と、突然背中にぬめる感触が来た。一拍遅れて姉さんの咳き込む音がする。
驚いて体を離すと口から大量の血液が溢れ落ちてきている。襟元にできた赤い染みが勢い良く広がり、
脇腹から延びていた染みと繋がった。私を抱いたことで余計に酷い状態になったと思うと、
目元が熱くなる。目が合うと、ごめんね、というような視線が来て更に熱を持った。
 それを堪え、慌てて姉さんの上体を寝かせると、頬に指が伸びてきた。
ゆっくりとした速度で撫で、滑る指は目尻にまでやってくる。せっかく寝かせたのに
これでは意味がないと思っても、それは止められなかった。いや止めようとも思わない、
ここまできたら好きにさせてあげようと思った。昨日兄さんにしてあげたことと同じことをされ、
心地良いと感じながら、私にこうされた兄さんはどうだったのかと考える。

 嬉しかったのでしょうか。
 それも今考えても仕方のないかもしれないし、他のことを考えているのは姉さんに
少し失礼かもしれないと思い、考えることを止めた。
 数分。
 頬を撫でる手が不意に止まり、床に落ちる。
 もう、限界なんですか。
 急いでパジャマの上着を脱ぎ、傷口に当てた。すぐに黄色かった布地の色が赤に変わっていく。
そもそも、今までかなりの出血だったからあまり効果はないかもしれないと思ったけれども、
やらないよりはずっとましだと思う。何かが刺さっている場合は抜かない方が良いと
聞いたことがあったので、酷いと思いながらも刺したままにしておいた。
 これで、少しは長く生きれるだろうか。
 会話が出来なくても良い、触れ合えなくても良い、今はただ生きている姉さんの隣に居たかった。
自分でやっておいて随分と都合の良い話だと思うけれども、それでも私は隣に居たかった。
 姉さんの顔をもう一度覗き込み、軽く口付けた。目を開かないどころか何の反応もないけれど、
私の顔に軽くかかる息でまだ命を落としていないことが分かる。
 このまま姉さんの顔を見ていたかったけれども、我慢して携帯電話を開いた。呼び出す番号は、
姉さんと同じくらい大好きな人のもの。
 数コールで、相手の人は出た。
「死にます」
 一言だけ言って、通話を切った。
 私の役目はそろそろ終わる。
 兄さんは駆け付けてくれるだろうか、とは思わない。けれど、駆け付けてほしいと思い、
長い息を吐いて天井を見た。


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