とらとらシスター 第15回
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「眠い」
 声に出してみると少しは眠気も覚めるかと思ったけれど、
 やはりどうにもならずに眠いままだった。眠くない、と言った方が良いのかと思って
 発音してみても結果は同じ。眠気が覚めないまま、僕は居間へと向かった。
 一人で。
 目が覚めたら、珍しく隣に姉さんは居なかった。ここ数年続いていたことだけに、
 僕を起こしにきたサクラは驚いていた。しかし何よりも、朝になって姉さんの体温が
 無かったことに僕自信が一番驚いていた。
 だから、もしかしたら昨日の夜のことは夢かもしれないと、そう思っていたのに。
 シーツに付いた血の跡と、情事があった証のむせかえるような男女の匂い。
 そして何より、体に染み付いた焼ける程の姉さんの匂いが狂わせる程に意識を吹き飛ばした。
 決して許されない行為が、僕に起きたという事実だけで自殺をしたくなる。
「兄さん、どうしたんですか?」
 どうやら、もう着いていたらしい。
「虎徹ちゃん、おはよ」
 視線を向けると、姉さんが笑顔で僕を見ていた。
「お、はよう。サクラも……姉さんも」
 昨日のことが無かったかのように、いつもと変わりない笑顔。何もなかったのなら、
 普段と同じ朝だったのならどれだけ安心を出来たのだろう。
 それなのに、今はその表情が堪らなく辛い。見ているだけで、心が痛くて張り裂けそうになる。
 つい目を反らしてしまったけれど、寧ろ不自然な気がして見返した。

 こんなところで、負けてはいけない。昨日のことは反省すべきことだけど、だからと言って
 後悔ばかりしては前には進むことなんか出来ない。諦めるのは僕の専売特許だけど、
 責任は必ず果たしてみせる。
 殺虎さんの格言もある。
 曰く、『大切なのは諦めることではない、何を諦めるのか選ぶことだ』
 無理に笑みを作る。
「珍しいね、姉さんが一人で起きるなんて」
「私も、最初は自分の正気を疑いました」
「そうね、虎百合が自分で起きるなんて」
 言い出しッぺは僕だとしても、家族皆で起きれない人扱いはあんまりだと思った。
 事実だけれども、少しかわいそうな気がする。
「ん?」
 いけない、このままいつものペースで進んでいるとまた目的を忘れてしまう。
「どうしたの、虎徹ちゃん? そんな難しい顔して」
「どうもしないよ、少し寝不足なだけ」
 言いながら座ると、横からサクラが茶碗を差し出してきた。盛ってあるのは、
 好物の炊き込み御飯。一足先に座っていた姉さんは、丼で山盛りだというのに
 既に半分程を掻き込んでいた。いつも以上のペースのせいか喉に詰まったらしく、
 慌ててサクラから受け取ったお茶を流し込んでいる。
「あれ?」
 今気が付いたけれど、いつもの朝の様子に戻っている。姉さんは今は考えの外に出すとしても、
 サクラも普段の強い娘に戻っている。いや、強く見える娘に戻っていると言った方が
 正しいけれど、そんなことを相手に考えさせないような表情だ。

「元気になったね」
 言うと、サクラははにかんだように笑った。
「妻の、務めですから」
 心臓が、高く跳ねる。
 今、サクラは何て言った?
 今まで何度も聞いていた言葉だけれども、昨日の後だと嫌な現実感が帯びてくる。
 脳裏に浮かぶのは、僕の上で裸体を晒していた姉さんの姿と青海の笑顔。
 限界まで絞り取られ枯れきった後でも尚も僕を求め続ける姉さんの相手をしている内に
 完全に消え去っていた筈なのに、再び蘇ってくる。後悔と裏切った気持ちが一緒に浮かび、
 激しい痛みが心臓を襲った。止めようと思っても止まらずに、ひたすら恐怖が沸き上がってくる。
 こいつも、そうなのか?
 距離を取るように一歩下がると、背中に当たるのは軽い感触。
「どうしたの?」
 振り向くと、近さのせいで大きく見える姉さんの顔があった。
 僕がよっぽど酷い表情をしていたのか、除き込んでくる瞳に浮かんでいるのは純粋な心配の色。
 だが近く過ぎたのか恐怖のせいか、両方だろう。こんな時に、こんな場所で、
 こんな表情をしていてキスなんかしてくる筈はないのに、それでも反射的に顔を遠避けてしまう。
 しかし、今度見えるのは、サクラの顔。
 怖い。
 今更になって、二人を僕の隣に座らせて食事をしていることを後悔した。
 体をずらして避けることも出来なければ、逃げることも出来ない。喩えるのなら、まるで檻。
 飢えて餌を欲している肉食動物と檻の中に放り込まれているような気分だ。

 何で、こうなる。
 ついさっきに、それどころか青海と付き合うと決めたときから何度も前に進むと決めたのに、
 踏み出そうとした瞬間に足を掴まれ引き戻される。何度も何度もそうなって、
 未だに一歩も前に進んでいない。それどころか、どんどん泥沼に嵌って今は歩くのさえ
 不可能な状況だ。動くのさえも、ままならない。
 進むしか、ないのに。
「美味しいですか? これからも暑くなってくるので、濃い目で行こうと思うんですが」
「あ、うん。さすがはサクラだね」
 よく分からないことを言いながら、ご飯を口に運ぶ。大好物の筈なのに、
 濃い目に作ってあるらしいのに、味がしない。口の中の異物は昨日のキスを想像させるだけで、
 ひたすら気分が悪くなってくる。吐気を堪えながら飲み込んでも不快な感触は消えず、
 まとわりつくように口内全体に絡み付いてくる。
「虎徹ちゃん、あたしも誉めて。お洗濯とか頑張ってるの」
「姉さん、洗濯はボタン一つでしょう?」
「違うもん、手揉み洗いだもん。手荒れとかも気にしながら頑張ってるもん」
「まさか、ボタンの順番がよく分からないとか?」
「絶対に違うもん、こだわりなの」
「はいはい、どっちも良い娘。偉い偉い」
 二人の頭を撫でる、それだけなのに腫れ物を触る気分だ。
 今の会話だって、我が家の中でよく交される愛すべき日常の一コマの筈なのに
 逃げ出したくなるのは何故だろう。昨日の朝までは普通に聞いていた言葉も、
 違う意味で聞こえてくる。

 いつからこんなに歪んでしまったのかは明白だ、夜中に目が覚めてしまったときからに
 決まっている。心が悲鳴をあげながら震えているのは僕の弱さだけれど、異常の原因は、
 きっとそれだけではない。
「虎徹、本当に顔色悪いわよ? 学校休む?」
「なら、あたしが看病するぅ」
「姉さんは受験生でしょう、黙って学校に行きなさい。私が看ます」
「サクラちゃんこそ赤点大王じゃん」
 家に誰も居ない状態で、姉さんやサクラと一緒に居る。
 その光景が浮かび上がった瞬間に、僕は立ち上がっていた。
 昨日の今日で、もしそうなってしまったら、多分歯止めが効かずに壊れてしまう。
 今は少しでも安全な場所、なるべく人目の多い場所へと向かいたい。
 さすがに姉さんでも、他人が居る場所では暴走はしないと信じているから。
「そろそろ時間だから、学校に行こう」
「あ、待ってよ虎徹ちゃん」
「待って下さい、兄さん。お母さん、すみません。かたすのお願いします」
「はいはい、行ってらっしゃい。虎徹、倒れそうになったら無理せず体を休めるのよ」
 温かい言葉を耳に、歩き出す。本当は今にも倒れそうだけど、無理をして、
 逃げ出すように少しだけ早足で。
「おはよう、最愛の恋人の虎徹君。と、その姉妹」
 玄関を出ると昨日と同じようにリムジンが停まっていた。昨日と少し違うのは、
 満面の笑みで両手を広げた青海が立っているところだけだ。
 それを見て浮かんでくるのは、嬉しさと辛さが半々で混じった複雑な感情。
 最愛の恋人という言葉は嬉しいのに、僕の姉妹という単語はそれを打ち消してしまう。
 青海の顔を見てしまって浮かんでくる感情は、さっきまでの比にならない。
 家族を抱いたという意味と、青海とその笑顔を裏切ったという事実は際限無く心を切り刻み、
 崩し、溶かし、跡形もなく壊していく。
「……大丈夫か、虎徹君?」
 今にも、ブッ倒れそうだ。


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