とらとらシスター 第10話
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「虎徹君、これなんかどうだろう?」
 通い慣れた喫茶店、『極楽日記』の店内で青海はメニューを必死になって見ていた。
 僕といえば注文は既に決まっているので若干暇を持て余し、専ら青海の相談役に徹している。
 真剣に注文を選ぶ青海の言葉に応じながらその表情を見てみれば、普段の毅然としたそれとは違い
 年相応の可愛らしい雰囲気が心をくすぐってくる。そして二人きりというこの状況、
 向かい合って座っているという事実に改めて付き合っているという実感が湧いてくる。
「こっちはどうだろう?」
「それは大分甘いけど、そういうの平気?」
「望むところだ、甘いものは別に溜る」
 漸く注文が決まったらしく、僕はマスターを呼んだ。極悪な人相とは裏腹に人の良い笑みを
 浮かべながら、店主の笹垣さんが寄ってくる。いかつい体も温厚な表情もいつもと
 何も変わらないが、普段と少し違うのは視線の中に僅かに含まれている好奇心。
「決まったかい?」
「僕はいつもの、青海は?」
「これとこれを」
 笹垣さんは注文表に幾つかの単語を書き込むと、僕を見て笑みを強くした。
「どうしたんですか?」
「いや、何も。ただ虎徹君もついに春が来たかと思うと嬉しくてね。いつも女っ気はないし、
 女連れだと思えば虎百合ちゃんか虎桜ちゃんばかりだったから」
「なら、わたしが虎徹君の最初の彼女という訳か。嬉しいものだな」
 青海はそう言うと、小さく笑った。
「おや、彼女なんだ。ならサービスしないとな」

 愉快そうに体を震わせて、笹垣さんは店の奥へと向かっていった。
 彼女、か。
 そうなんだよな、僕たちは付き合っている。二人きりだという状況でも少し照れ臭いのに、
 そんなことを言われたら恥ずかしさが一気に込み上げてきた。敢えて意識しないように
 していたが、相手は完全無欠のお嬢様。僕よりずっとハイクラスな相手だ。
「虎徹君?」
 不味い、意識した途端に言葉が浮かばなくなってきた。いつもの下らない冗談やふざけた発言が、
 全くと言っても過言じゃない程に言葉が浮かんでこない。友人をして『詞食い』と
 言わしめた僕がどうしてこんなに黙っているんだ、不自然な態度は僕らしくない。
 助けて殺虎さん。いや、もうこの際誰でも構わない。ユキさんでも姉さんでもサクラでも良い、
 今更になって嫌がる姉さんやサクラを置いてきたりしてきたことが悔やまれる。僕の馬鹿馬鹿、
 大っ嫌い。
「どうしたんだ、虎徹君!? 君が今から何をしようとしているか分からないけれど、
 そっちは壁だぞ!?」
「ごめん、ちょっと緊張してて。ほら、青海って美人だから」
 壁に頭突きをするその一歩手前で現実に引き戻され、僕は慌てて言葉を取り繕ったが、
 我ながら悪くない。漸く調子が戻ってきたような気がしてきたので、青海に向かい直して
 笑みを作った。冷静になってきたのなら、きっと大丈夫。
 しかし今度は笑顔に戻った僕とは逆に、青海は複雑そうな顔をした。

「君は緊張すると壁に頭突きをす…え、び、美人?」
 それも長く続かず、今度は顔を紅く染め上げる。挙動不振に両手を空中に上げ、
 その拍子にお冷やの入ったグラスを倒して慌てる姿を見ていると、今度は作ったものではない
 笑みが漏れてきた。普段の姿からクールな性格だと思っていたけれど、以外に俗っぽいらしい
 その行動に緊張が完全に緩んだのが分かった。
「ほら、青海。落ち着いて、ラマーズ方」
「うぁ、すまない。突然言われたものだから」
 テーブルを拭きながら青海を見ると、本当にラマーズな呼吸をしていた。
 相当気が動転しているのか浮かべている表情は複雑なもので、
 僕にはどんな心情か判断が出来ない。笑い事ではないのだけは、本人の様子で簡単に分かる。
 数秒。
 やっと落ち着きを取り戻したらしい青海は僕にいつもの表情を見せ、
「不意打ちというものは、案外効くものだな」
「そうみたいだね。でも、本当に可愛いと思っ…」
 鈍音。
 壁の向こう側、丁度僕が座っている辺りから壁を叩くような音が聞こえてきた。
 それも尋常じゃない力で。
 やはり、誰か居るのだろうか。
 この店に入った理由は、放課後デートっぽいからだけではない。学校を出た辺りから、
 たまに強烈な視線を感じたからだ。気にはなるものの、よそに目を向ければ青海に失礼だし、
 昼のこともあってか後ろを向き辛かった。なにより青海が怒るのであまり確認は
 出来なかったけれど、それでも何回か周囲を見てみても、それらしい人影は無かった。

 もしかしたら姉さんかサクラかもしれないと道の途中で思ったけれども、流石にそこまで
 偏執的ではないと思う。二人とも今日は友達と遊ぶと言っていて、
 その友達と一緒に帰っているところも見たし、何より身内を疑うのは良くないから。
 根拠はないけれど、多分ユキさんも違うと思う。あの人は多分変態だけれども、
 なんとなくではあるけれど、こんなことはしそうにない気がする。
 格好以外はとても善人だということは、昼の短い時間だけれども一緒に話をしていて分かった。
 だとすると、本当に誰だろう。
「虎徹君、大丈夫か? また上の空だが」
「ごめん、ちょっと考え事してて」
 誰だ。
 青海は確かに美人だし、欠点なんてものは見当たらないからファンも多そうだし、
 その類だろうか。ストーカーのような存在はテレビの向こう側にしか居ないような
 ものだけれど、だからと言って近くに居ないとは限らない。
「虎徹君」
 大きな声に顔を上げてみると、青海が悲しそうな表情をして僕を見つめていた。
 何かしただろうかと考えてみると、すぐに答えが出た。
 また、やらかした。
 何かをした、ではない。それなら、まだ幾らかましだったかもしれない。
 昼のことは反省をしていた筈なのに、もう破ってしまっている自分が何とも情けない。
 青海は僕の彼女なのだから、もう少し気を使うべきだった。

 僕が見つめ返すと青海は軽く視線を伏せ、
「もしかして、わたしと居るとつまらないか?」
「そうじゃなくて…」
 考えろ、今はどんな言葉が有効か。これは交渉のようなものだ、相手を出し抜き自分を有利にし、
 世界を円滑に進ませる言葉を見付け出せ。自分の持っている情報を確実に把握して、
 相手を騙す手札に変えろ。
 自分に言い聞かせ、答えは以外と簡単に出てきた。
「ほら、僕もこんなのは初めてだし、経験が無いから。青海は楽しんでるのかなって、
 そんなことばっかり考えてて」
「そうだったのか、ならお互い様だな。わたしも同じことばかり考えていた」
 果たして、結果は上手くいった。足掛かりを掴めば、続く言葉は簡単に出てくる。
 はにかんだように笑う青海を見ていると心が少し痛むけれど、好きになりかけてきている青海を
 ここで切り離したりは出来はしない。
 だから、言葉を続ける。
「正直、少しつまらないかもしれない」
「やっぱり、そうか」
 悲しそうな表情は、もう見たくない。
「僕は青海のことをよく知らないし、そっちもそうだと思うしね。だから好き合ってるじゃなく、
 付き合ってるとしか表現出来ないし。そもそも順番が逆だしね」
 ますます暗くなる青海の表情だが、それもこれまでだ。
「だけど、これから二人で進んでいけば良いと思う。例えば、さっきの注文で青海が甘党
 だって分かったみたいに」
 少し驚いた表情で顔を上げる青海に、僕は笑みを向けた。
「これから二人で知っていけば良い」
 気を利かせてくれたのだろう少し遅目に出てきた珈琲を一口飲むと、青海の顔色を見る。
 そこには少しぎこちない笑みがあり、きちんと進めたことの証明として軽い笑い声も
 それに付いてきた。
 珈琲をもう一口飲んで考える。
 まずは何から話していこうか。


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