ジグザグラバー 第11幕
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「ただいま」
「おかえり」
 言いながら玄関の扉を開け、靴を脱ぐ。
 いつもよりも交渉をして疲れていた僕は、そのまま床に座り込んだ。数歩しかない部屋への道のりも
 今は面倒で、考えてみれば家まで辿り着いたのも驚きだった。
「誠、そんな所に…」
 言いかけて、しかし華は黙り込むと少しうつむき、
「すまん限界だ辛抱堪らん」
 一瞬で朝の光景が脳裏に蘇ってきたが、僕も人間だ。疲労でくたびれていた体が、小柄とはいえ
 一人分の人間、華の突進に敵う訳もなく簡単に押し倒される。相当我慢していたのか、
 抵抗する暇もなくきつく抱き締められた。
「皺になるから、着替えてからな」
 今までの罪悪感、特にさくらにキスされたことが思い浮かび、僕はごまかすようにキスをする。
 本当はキスも控えたかったのだが、一度なくなった壁を直すのは難しいらしい。
 あまり抵抗なく唇を重ねたことに、自分でも驚いた。
 軽く重ねるだけのものを数秒続け、離したときには何故か華は泣いていた。
「どうした?」
「他人の、匂いがする」
 そのまま僕の胸に顔を埋め、少しかすれた声で、
「他人の、味がする」
 僕は軽率にキスをしたことを後悔した。さくらが香水の類を使っていなかったので、
 自分では気が付きにくかった、なんて言い訳にもならない。僕が今までのようにキスはおろか、
 誰にも近付くことを許さなければ済んだ話だ。責めるべくは、さくらではなく僕自信。

「ごめん」
 言いながらいつもより強く華を抱き締め、髪を撫でる。さらさらと柔らかい感触の長い髪は、
 華が体を震わせるのに合わせて、小刻みに揺れていた。
「風呂だ、匂いを流す」
 僕の腕を強引にほどくと華は立ち上がり、浴室に向かっていった。数秒して聞こえてくるのは、
 お湯が浴槽を強く叩く音。
「すまん、急に泣いて」
 戻って来ながら聞こえた言葉に答えるため、僕は漸く体を起こした。
「良いんだよ、今回は僕が悪い」
 立ち上がると、華に続いて部屋へと入る。「でも」
「謝るな、僕が悪いんだ」
 それきり華は黙り、無言のまま僕らは着替えを始めた。
 華が身に着けるのはいつもと同じ、僕の着古したワイシャツと下着のみ。高校に入ってからは、
 家の中ではそれ以外を着なくなった。つまりそれは二人暮らしを始めてからで、
 僕の両親が居る実家のときはそれを隠していたということだ。それ程までに二人暮らしをしたがった
 依存心、僕は華の心の大部分を占めるそれを無神経に傷付けた。そんな事実に心が痛くなる。
 依存心というものは心が弱いのではなく繊細だからで、それを分かり大切にしてくれる、
 言うなれば信頼出来る人に預けるというものだ。
 それを裏切った事実は、僕には重い。
 それらの心の疲れは体にも影響するらしく、座ることすら面倒になってきた僕はベッドに寝転んだ。
 体の向きは、壁の方。現実逃避と言われればそれまでだけども、今の疲れた僕が見るには、
 華の姿は痛々し過ぎる。

「誠、向きはそのままで良いから答えてくれ」
 背中から伝わってくるのは、幼い体特有の高めの体温と、弱くしがみついてくる力。
「誠はボクのことを嫌いにならないよな? 離れていかないよな?」
 僅かな振動と一緒に伝わってくるのは、学校でも僕に訊いてきた問題。
 僕は体の向きを変えると、正面から華を抱き締めた。
「華を置いて、どこにも行ったりはしない」
 そのまま玄関のときのように髪を撫で続けて十数分。
「そろそろお湯が溜ったね」
「うん」
 僕は少し考え、
「一緒に入ろうか」
「…うん」
 いつもは自分から誘ってくる華が少し間を空けたのは、照れよりも劣等感からだろう。
 しかし、それでも僕が立ち上がると裾を掴んで着いてくる。
 この部屋はバストイレは別だが、脱衣所は無いので浴室に入る前に、脱ぐ必要がある。
 お互いに薄着、華に至っては二枚しか着ていなかったのですぐに脱衣は終わる。それなのに
 なかなか浴室に入ろうとせず、普段は目にしない全裸の華が視界の端に止まっていた。
 普段から着替えは見ているし、たまに一緒に風呂にも入るのだが、それでも下着を着けていたり
 湯気があったりするのでちゃんと見ることは少ない。
 敢えて見ないようにしていた華の姿が、そこにあった。
「ほら、華。入るよ」
「誠、そんなにボクには魅力は無い?」
「…体が冷えるから早く入ろう?」
 質問を無視する僕に、華は黙ってついてくる。
「誠、ボクが洗う」
 これも、いつものことだ。
 頭から始まり、体の隅々まで前も後ろも関係なく洗ってくれた。ただしいつもと違うのは、
 擦る力が強いことと、尋常じゃない回数洗い直していること。僕には分からないし、
 多分完全に匂いは消えているんだろうけれど、それでも本人が匂いを完全に消したと納得するまで
 華に洗わせ続けた。

「はい交代、座って」
 髪を優しく洗い、続いて体。胸の立っている突起や、無毛の股間から流れるぬめり、
 荒い息遣いはもう毎度のことで気にならない。僕の股間が全く反応しないのは、その体に性的なものを
 感じないからではなく、大事にしたいからだと自分に言い聞かせる。そんなことは、
 二人とも二十歳になってからで十分だ。誰からも文句を言われない為にも、これはとても大切なこと。
 今まで何回考えたんだろう。
 問題を先延ばしにしているだけだ、と言われたら違うとは言い切れないかもしれない。
 水に言われた通り華との関係を考えてみると、意外に切れやすいものなのかもしれないし、
 惰性や同情かもしれない。さくらが言った通りに僕の立ち位置を思ってみれば、僕と華の居場所は
 不思議なものだ。それこそ、切れないのが不思議な位。
 華は大切だけれども、結局答えは出ない。
「はい、流すよ」
 頭からシャワーを浴びせ、泡を流す。
「風邪引かないように、早く入るよ」
 やっぱり華は無言でついてくる。

 元々は一人用のワンルームマンション。いくら僕が細身で華が小柄だといっても、
 二人で浴槽に入ると狭いので自然と僕が抱いて入る状態になる。お互いが裸なせいでいつも以上に
 華の細さが分かり、伝わる弱さが僕の心を痛ませる。
 いつもは皆に牙を向いているから分かり辛いが、本当に華奢で弱い体。
「誠、ボクはそんなに魅力が無いかな」
 尻が僕の股間に当たっているので、立っていないのが分かるんだろう。僕に訊いてくる声は、
 二人だけのときにしか出さない、自分の体の劣等感で満ちた弱いものだ。
「そんなことないよ。たまたまこっち方面では少しだけ、平均よりは低いかもしれないけど、
 十分に魅力的だし」
 華がそんな弱いと分かるからこそ、僕は、
「華を大切に思ってる」
 だから、僕は前に進む覚悟を決めた。
「水とも、きちんと話を付けるから」
 言いながら、再び泣き出したその細い体を抱き締める。この華という娘は本当に、
 異常な程に泣きやすい娘なのだ。
 泣き止ませようと思いこっちを向かせようとしたが、しかしある場所で思考を止めた。
 キスはしないで、数日前までと同じようにそのお腹を撫でる。
 本当に大事にしたいから。誰にも文句を言われず、それどころか邪魔をしようとすら思われないように
 なってから、改めてしたい。
 キスとセックスの内片方はもうしてしまったけど、それでも大切なことは大切にしたい。
「華、愛してる」
 泣き続ける華は、それでもまだ可愛い。


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