ジグザグラバー 第8幕
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 皆は、リバウンド、という言葉を聞いてどんなことを思い浮かべるだろうか。若い男性なら
 バスケットボールで、シュートされたボールを取ることを思い浮かべる人が多いだろう。
 但し僕が今言いたいのはそれではなく、若い女性が思い浮かべる言葉だ。最後の審判のとき、
 我等が主に地獄行きを命ぜられるかのような恐れを持って若い女性の間で使われる。
 そう。恋にときめき、御洒落に忙しく、美貌を磨くのに切磋琢磨する若い女性の戦友にして好敵手。
 天敵にして獲物であるダイエット。それの最悪な害悪まみれの副産物。理想の体重になり、
 油断をして隙を見せると襲ってくる魔物。僅かな心の穴から入ってくる炭水化物や、
 肉や甘いものが引き起こす極悪現象。それが一度起これば反発係数1以上で体は脂肪で豊かになり、
 貧相になりにくくなり、豊満への一歩を辿ることになる。
 何故僕がこんなことを考えているかといえば、決して僕がデブへの一歩を着実に歩み始めたから
 ではなく、ましてや華がそうなっているからでもない。そもそも華の腹はあれが標準で、
 仕方のないことなのだ。詰まっているのは、脂肪ではなく内臓。
 僕はずれそうになった、正確に言えば現実逃避をしそうになった思考を元に戻す。
 リバウンド、これは神秘の塊である人体だけでなく、依存心にも現れるらしい。
 話は簡単で今は一時限目、教師の都合により自習時間。それが始まると同時に、
 華と勇二が僕の席へと寄ってきた。

『あれ、華。御機嫌だね』
『まあな。昨日ボクと誠はあぁもぅまだるっこしい我慢ならん』
 叫ぶと周りの机を巻き込みながら豪快に僕を押し倒し、キスを始めた。
 そんな事があり、今に至る。
「誠ちゃん、視線がどこにも合ってないよ」
「ボクを見ろ」
 ちょっと、華さん。ディープは駄目です。流石にそれは僕でも引きます。
 華を押し退けようとするが、その小柄な外見にそぐわない程の怪力で押さえ込まれる。
 この学校で唯一、『暴君』と互角の喧嘩が出来る我がクラスメイト。その伸人君だったら
 何とかなるのかもしれないが、極めて普通の人間なので脱出は不可能。僅かな可能性に賭けて
 伸人君を見ると、いつも通りに三人の女子に囲まれ、参っていた。
「誠、どこ見てるんだ」
 伸人君と目が合った。その中に浮かんでいるのは、諦めの色。シニカルに唇の端を歪めると、
 僕から目を反らしてゆるゆると首を振った。
 他にクラスメイトで華に対抗出来そうなのは、
 最悪だ。
 初日に華の攻撃を全て避けきった水しか居ない。第一、それ以外のクラスメイトはとばっちりを
 避けるために関わってこないだろうし、自習時間という甘美な世界を守るために隠蔽工作に
 夢中になっていた。
 唯一自由になる視線で水を見ると、ニヤニヤと笑ってこっちを見下ろしていた。
 この表情は危険だ。
 助けを求めることはそのまま交渉になりかねないし、それは相手の手札を増やすことになる。
 それに今話し掛けたら華が暴走する可能性もあるし、しなくてもここぞとばかりに怒濤の勢いで
 話を進め、罠を仕掛けてくるだろう。

 思考は一瞬。
 華の依存を更に深めるよりはましだろうと思い、水を見た。
「ちょいと華ちゃん」
 思いが通じたのか、水は立ち上がると僕に寄って歩き、
「旦那が迷惑してる」
 僕と華の間に足を差し込み、投げるように振り上げた。体に負担がかからないようにした、
 というのは分かったが、その乱暴な方法に僕は水を睨みつけた。しかし、特に気にした様子もなく
 水はヘラヘラと笑っている。
「何するんだ」
 巧く体を捻って着地すると、華も水を睨みつける。
「旦那に迷惑だと思わないの?」
「昨日は誠からキスをしてくれた。お互いに好きだから問題無い」
 その言葉にどうなるかと水を見たが、表情は変わらない。
「どうせ、困らせて自分からするように仕掛けたんでしょ? それとも、その貧相な体でも使った?」
 僕には、意見を求めてこない。多分、そこが重要だと分かっていて敢えてぼかしているんだろう。
 華が何も言わず、僕に視線を向けてきたので正解だと思ったようだ。
「それに、旦那とは私もキスしたしね」
「それこそ無理矢理だろぉ」
「でも、許してくれたよ」
「嘘だ!!」
 華は僕を見てくるが、それには答えられない。取引した以上、これは本当だ。
「でも、なん、で」
「同情と、恋愛の、温度差?」
 その一言が起爆剤となり、華は水に殴りかかる。
 しかし、拳は届かない。

「止めなよ」
 華の拳を止めたのは、意外にも勇二だった。中学からの付き合いだが、これ程とは知らなかった。
 こんなことは初めてだ。華の拳を横合いから掴んで、じっと僕を見る。
「本当なの、誠ちゃん」
 僕は溜息を吐いて、覚悟を決めた。
「本当だ」
 こんなことをするのは、本当に嫌だ。
 出来ることなら、二十歳まで表に出したくなかった。
 でも仕方ない、いつかは来ると思っていた。
 華も交渉に巻き込む事態。
 僕は今だけ、最低になる。
「へぇ。日和見だと思ってたら、違うんだ」
「まあね」
「おい誠、どういう」
「黙ってろ。勇二、華を押さえててくれ」
 勇二は無言で華を羽交い締めにした。口も押さえられているのか、華がもがく声がする。
 これも結局華のためにはならないな、と吐息を一つ。華に対しては、拒絶の手札はあっても、
 絶縁の手札はない。結果、華の暴走は止まることはなくノールールになってしまう。
 この甘やかしがいけないと自覚はあるが、どうにも出来ないのが僕という人間だ。
 だから、
「せめてこれ以上に悪化しないように、敵は潰す」
 だが今は、さっきの事に借りがあるのでアドバンテージは彼女にある。
「さっきの事だが」
「会話の免除。一日五回」
「二回」
「四回」
「三回、これ以上は譲れない」
「仕方ないか、嫌われたら元も子もないし」
 また、悲しそうな笑みを見せる。
 他人のルールは気にしないくせに、こんな表情を見せてくるから、彼女は本当にやりにくい。
「これで互角。次は、華を刺激するな。したら、絶縁だ」
「私にメリットは? 嫌われない為ってのは入らないよ?」

 僕は少し考え、
「距離を無視」
「乗った」
「誠、ボクは」
 勇二の拘束を無理に解いたらしい華に、僕は冷たい目線を向けると、
「黙れ」
 絶縁するぞ、と視線に意思を込めながら呟く。僕は本当に絶縁など出来るような人間で
はないが、しかしこの場では二人に対してはそれなりの効果がある。
 そして、これからが本番。
「華」
「な、何?」
 華の表情は、恐怖で固まっていた。
「もうこれからは、こんな真似をするな。その代わり、後で何か言うことを聞いてやる」
 僕の存在そのものが、華への手札。
 僕が離れるのを極端に恐れる彼女は必ず言うことを聞くだろう。
 本当に、最低だ。
「あと華も水も、一編話をしろ。これで交渉は終わりだ」
 僕はそうして話を閉めた。


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