山本くんとお姉さん2 〜教えてくれたモノ〜 第8回
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<8>
 
 深淵。
 
 漆黒の翼を広げて迫り来る、静寂なる闇の咆哮。
 
 ……とか、その手のご大層な形容句をゴテゴテ飾り立てないと、ヤバさが修辞できないその状況。
 山本家のお茶の間が今、なんかよくわからん異空間へと変位しようとしている。
 
 
 僕こと山本秋人は現在、食堂のテーブルについている。
 異変の発生場所は、ここから約六メートル程の地点。 
 食堂とそのまま繋がっている、隣室のリビングルームの真ん中付近。
 
 普通ならばリビングの室内蛍光灯が、快適な明かりを隅々まで届けてくれているはずである。
 ……はずなのに、今日は暗い。昏い。闇い。冥い。
 今、リビングには正体不明の暗雲がたちこめ、そのプレッシャーが食堂をも侵食しようとしていた。
  
 そしてそんな瘴気の渦の、中心部。
 ポイント・ゼロに、僕にとってよく見慣れた人影が座り込んでいる。

 僕に背を向けて、無言で正座している姉さん。
 訴えている意味は、『お姉ちゃん怒っているからね』だ。

 た、
 
 たいへんだ。

 ―
 ――
 ―――

 事態は急を要するので、ここまでの経緯を手短に説明する。
 梓と別れてから、僕達は予定通り一つ先のバス亭で降りて、歩いて帰宅した。
 道中、急に抵抗の気配を見せたり、唐突にどこかへ駆け出そうとする姉さんだったが、
 なんとかずるずる引っ張ってきた。
 相変わらず果物ナイフを手放そうとしないので、お巡りさんに誰何されないかヒヤヒヤしたもんだ。
 
 そして家に着いた途端、今度は自分からスタスタと家の中に上がっていく姉さん。
 台所の方に入っていってしまったので、僕は一通り家中に異変がないか確かめておくことにした。
 別段どこも荒らされたりしてないし、床にシミがあったり、風呂を使ったりした形跡はない。
 くんくん鼻を鳴らして、例の男の体臭でも嗅ぎ出そうともしたが、特に淫らな臭気もないようだ。
 ……でも、感じるんだ。
 この家の空気には、姉さんの叫びのようなものが、姉さんの悲痛な涙のようなものが、籠められている。
 姉さんはやっぱり、僕の居ない間に、ここで、その男に……。

 一通り見回りを終えて台所を覗くと、姉さんが黙々と夕食の支度をしていた。
 こんな時だというのに、こんな状態だというのに……。
 健気な姉さんの後ろ姿を見ていると、思わず後ろから抱きしめてあげたくなる……。
 
――ダンッ! ダンッ! ダンッ!
 
 まな板から激しい打撃音が聞こえてきた。
 よく見ると、果物ナイフでキャベツを叩き切っていた。
 傍らには空鍋が火にかけられている。
 
 
 結局、なにやら野菜炒めのようなモノが出来上がった。
 姉さんはそれにさっと白布巾をかけ。
 エプロンをふわりと脱ぎ捨て。
 
 そして、
 そして……正座した。
 
 
 後ろ向きで。
 
 
 ―――
 ――
 ―

 さて、たいへんだ。
 
 姉さんが、怒っている。
 今まででも、僕が言いつけを守らなかったりすると、こういう状況に陥いってきた。
 今回は八つ当たりなんだろうが、それでも相当怒っている部類に入る。
 
 一旦こうなった場合、僕にはもう逃げ場はない。
 自分の部屋へ移動すれば、姉さんも部屋の入り口までついて来て、また正座し始める。後ろ向きで。
 風呂に入れば、脱衣所で正座をして待っている。
 トイレに行けば、トイレのドアの向こうで正座をしている。……いつもいつも、後ろ向きで。
 
 だから問題は、これからどうするかだ。
 先例に従うのなら、土下座なり泣きつくなりして、徹底的に姉さんに許しを乞うところ。
 もっとも姉さんはとても優しい人だから、フォローなしでも数日経てば許してもらえるだろう。
 しかしそんな態度では、弟として大いに失格だと思う。
 
 例えば一年ぐらい前にも、ふとしたことで同じ様に姉さんを怒らせてしまったことがある。
 でもその時の僕は酷く疲れていて。姉さんに何もしてあげられず、そのまま寝てしまった……。
 その夜、僕は酷い夢をみた。
 誰かに首をぎゅうぎゅう締め上げられる、とても苦しい夢。
 朝起きたら、首筋に本当に痣が出来ていたくらいだ。
 人の精神と肉体はリンクしているという。映画のマトリックスでも言っていた。
 リアルな夢をみたせいで、身体までが相応に反応して痣を作ってしまったのだろう。
 姉さんを怒らせたこと、さらにそれを放っておいた事への罪悪感が強かったから、そんな夢を見たのだ。
 だから今の姉さんの怒りにも、ちゃんと正面から向かい合っていきたい。

 特に今日は、二つの点で今までよりも緊急性が高い。
 ひとつめは、ズタボロにされた姉さんの心の傷だ。
 姉さんは今日、悪い男に散々弄ばれ、蹂躙され、ボロ雑巾のように捨てられた。……きっと。
 だからこんな風になってしまった。
 僕には分かっている。僕への怒りは八つ当たりだと、分かっている。
 だからこそ僕は、弟として、そんな姉さんをきちっと支えてあげなければならないんだ。
 
 そしてふたつめ。……姉さんの手の中に、未だにあの「果物ナイフ」があるのだ。
 まぁ、杞憂だとは思う。まさか、その、取り返しのつかない行為に及ぶなんてことは、ないとは思う。
 それでもぎらぎら煌くあのナイフ、僕の視線を妙に釘付けにして止まないんだ。
 本当なら今すぐにでも姉さんに飛びかかって、あのナイフをもぎ取りたい。
 しかし僕の本能が強烈に危険信号を発していた。そんなことをすれば……それこそヤバイことになると。
 だからこそ、平和的な説得によってあのナイフを放棄させなければならない。
 
 だからね、姉さん。
 今日は姉さんに、僕の「本気」をみせてあげる。
 僕の本気――十六年間かけて培ってきた技術。平身低頭土下座して、姉さんのご機嫌を伺うスキルだ!
 僕のありったけを込めて、全身全霊を賭けて、媚びへつらってみせるッ!!
 ……恥ずかしくて履歴書にはちょっと書けない特技だった。
 
 よし。それでは今回のミッションのブリーフィングを始めるから、みんな聞いてくれ。
 作戦の第一目標は、まず姉さんの怒りと悲しみを受け止めてあげることだ。
 つまり一定時間、八つ当たりの矢面に立たなければならない。
 そして第二目標は、姉さんの傷を癒し、慰めてあげること。つまりご機嫌取りだ。
 そのため今回の基本戦術は『受け』となる。まずは防御戦を展開し、戦機を伺うのだ。
 そして隙を見計らって攻勢に出る。すなわち―――媚びへつらう。
 冷静に、正確に、大胆に、臨機応変に対処するんだ、山本秋人。本気で勝ちに行くぞっ!
 
 
 >AKITO:HP(ヒットポイント)100%
 >AYUMI:HP(ヒステリーポイント)100%
 >Ready....GO!!
 
 
「姉さん。こっちきて、ごはんにしようよ」
 まずは挑発。だんまりを決め込む姉さんの意識を、こちら側にひきつける。
 頑張って、姉さん。
 頑張って立ち直って。僕がそばについているから……。
 
「………」
「………」
「………」
「秋くんはさ――」
 よし、ここからが正念場だ。まずは防御を固めるんだ。
「……今日なにをしてたの?」
「図書館に行っていたよ」
「……どうして、そんなとこに、行ったの?」
「宿題をしに行ったんだ」
「理由になってないよ」(Damage! AKITO:HP-1%)

 いきなりだが、ひるんではいけない。
 決して理不尽だとか思ってはいけない。
 今の姉さんが欲しているのは筋道や理屈じゃない。無条件の『同意』だ。
 つまり姉さんが理由になっていないと言うのであれば、例えどれだけ筋が通っていても、
 それはやはり理由になっていないのだ。

「いったい、なに、してたの!?」(AKITO:HP-2%)
 問い詰めがリピートしている。こういう時は要注意だ。
 先程と同じ答えを返す場合、しつこい=何か裏がある、と思われる。反抗的だとも受け取られかねない。
 逆に違う返答をする場合、さっきと言う事が違う=騙した=やましい事がある、と展開する。
 つまりどっちの道も、見渡す限りの地雷原なのだ。
 下手に釣られて口を挟むよりも、むしろ無言を通した方がいい。悄然と頭を垂れるのがベスト。

「お姉ちゃん、帰って来てって言ったのにッ!!」(AKITO:HP-1%)
 『事実』と『真実』の違いを弁えるのだ。
 そんな事実があったのかなかったのかは問題にするな。
 姉さんの認識こそが『真実』であり、それこそが今この場を支配している概念なのだ。
 
「携帯もいっぱい鳴らしたのに!メール出したのに無視したッ!どうしてそういうことするのッ!?」
 (AKITO:HP-2%)
 なるほど。
 手元に持ってきた携帯には、着信11件・未読メール46件の表示がある。
 これは全部、姉さんの心の叫びなのだ。悲鳴なのだ……。
 姉さんが救いを求めていたのに、僕は守ってやれなかったんだ……。
 最初のメールの受信時刻が三時三十六分。
 僕が出かけてから一時間半のその間に、姉さんは、その男に……。
 
「僕が悪かったんだよ。携帯を家に忘れたから……」
「ちゃんと居場所教えてって、いつも携帯持ち歩いてって、お姉ちゃんと約束したッ!!」(AKITO:HP-1%)
 携帯を忘れるに至った経緯などを、ここで持ち出すのは自殺行為だ。文字通り。
 姉さんの手の中に、果物ナイフがあることを忘れてはいけない。繰り返すが、文字通り自殺行為なのだ。
 結論のみを黙って受け入れられるかが、弟としての器量というものだろう。

「ごめん。もう絶対こんなことないように気をつける……」
「秋くん、全然わかってないッ!!」(AKITO:HP-2%)
 謝罪や反省の言葉も、多用するとかえって逆効果となりうる。
 言い訳と受け取られればその時点でアウトだ。
 ただひたすら、姉さんからの非難に甘んじる姿勢を心がけよ。
 そしてタイミングを見計らって、媚びへつらうのだ。
 
 
 >AKITO:HP 91%
 >AYUMI:HP 100%
 >Ready....GO!!

「秋くんは梓ちゃんがいればいいんだよ! どうせお姉ちゃんなんかどうなったっていいんだよっ!!」
 唐突に無関係な人名が登場しても、ひるんではいけない。
 つい『どうしてそこで○○○が関係するの?』とか聞き返してしまうと、盛大にドツボにはまる。
 心当たりがないのなら、わけが分からずともきっぱりと、毅然と、胸を張って否定した方がいい局面だ。
 
「そんなことないよ。絶対に違うよ」
「違わないよッ!! あの女! 藤原の泥棒猫とも一緒にいたッ!! 
 あの女にすっかり誑かされて、お姉ちゃんのことなんか忘れてたんだよッ!!」
「絶対に違う。ありえないよそんなこと」
 また無関係な人名だ。今度は藤原さんか。
 この辺は僕も手馴れたもので、もう機械的に全否定していく。スキルアップの賜物だ。
 下手に返事に間をおくと、『言い訳を考えている→図星だった』という公式に当てはめられてしまう。
 わけが分からないことは即座に全否定しておいて、後で意味を考えるというのも一つの手なのだ。
 
 例えば藤原さんによくついてくる『泥棒猫』という形容。僕は未だにその定義に自信がもてない。
 国語辞典には、「他家の食べ物を盗む」という意味が載っていた。
 しかし藤原さんに弁当のおかずを盗られた記憶などないし、そんなことをする子ではない。
 だから気になって、藤原さんに以前、猫について尋ねてみたことがある。
 彼女はどうやら猫好きで、家でも数匹飼っているそうだ。……ここに至ってようやく話が繋がった。
 「泥棒≒汚い」だから、不衛生という意味なのだろうか?
 確かに家庭内でペットを飼っていると、雑菌などが多いと聞く。食事に毛が混ざることもあろう。
 若干差別的な表現だけど、たぶんそういう感じのことを言っているんだと思う。よく分からないけど。
 姉さんは潔癖症なのだなぁ。
   
「――――――でしょッ!? 秋くんッ、答えてみせてよッ!!」
 ……ハッ!?
 いけない、よそごとを考えすぎた!!
 
「やっぱり聞いてないッ!! お姉ちゃん無視した! お姉ちゃんを、無視したぁああーーーーッ!!」
 (AKITO:HP-7%)
 あわ、あわ、あわわわ。
 ホラこの通り、一瞬の油断が命とりになるんだ――――なんて、冷静を気取っている場合じゃない!
 た、立て直さなくちゃ! 姉さんがナイフを手首に当てている!!!

「違うよ! 僕が悪かったんだ! もう反省して、自己嫌悪で、どうしようもなかったんだッ!!」
 自分でも何を言っているのか分からないが、ともかく『僕が悪い』ということをアピールする。
 今の姉さんが求めているのは、終局的には『僕が悪い』という認識そのものなのだ。
 だから、こういう返し方がマイナスに働く可能性は低い……と思う。
「嘘だよッ!!!」
「嘘じゃない!」
「秋くんきらいッ!! だいっきらいッ!!! うっ……ふええぇえ……ひっくっ」(AKITO:HP-3%)
 なんか僕まで、本当に泣けてきた。
 八つ当たりだと分かっていても、姉さんに『嫌い』と言われるのは流石に……堪える。
 
「ひっく……ぐすっ……」
「………」
 ナイフは手首から離れたが、今度は姉さんの喉元に近づき始めている。
 そのまま喉を貫いてしまう、なんてことはありえない。流石にそこまでするわけがない。
 ……と思いつつも、輝く白刃から目を離せない。ゴ、ゴクリ。

 >AKITO:HP 81%
 >AYUMI:HP 100%
 >Ready....GO!!

「どうせ、あの娘達とあんなことやそんなことしてたんでしょっ! どうせ!
 この、変態ッ!変質者ッ!孕まし屋ッ!馬鹿ッ!馬鹿馬鹿馬鹿ァアアーーー!!」(AKITO:HP-2%)
 な、な、なんだってぇ!? 
 また唐突に盛大に話が飛躍したぞ。
 あんなことやそんなことって、今日僕は何かをしたのだろうか? 
 単に一緒に宿題をしていただけだが……それがイケナイことだったのだろうか?

「あの娘達ばっかり手を出して、お姉ちゃんには手を出さないのはどうしてようッ!!馬鹿ァアア!!」
 (AKITO:HP-4%)
 姉さんがじたばたと腕を振る。
 ちょ、ちょっと待ってよ、姉さんは何を言っているんだ?
 僕は『手を出した』んじゃない。逆なんだ。宿題をするのに『手を借りた』んだ。
 ……い、いかん、よく考えたら防御戦線が崩れかけている。
 と、ともかく否定だ。わけが分からなくなったら全否定だ。
「絶対に、そんなことはないよ」
 よし。
 
「じゃあお姉ちゃんにも手を出してよッ!! お姉ちゃんだけに手を出してよッ!!!」
 姉さんに、手を貸せばいいのだろうか?
 もっと姉さんを手伝え、手助けをしろ、姉さんだけを守れ……と、そういうことなのだろうか? 
 それならばはっきりと意味が通じる。
 ……今日だって僕は、姉さんの危機に何もしてあげられなかった。
 家にいなかった理由はどうあれ、それは悔やんでも悔やみきれない。
 もっと何かしてあげられたはずなのに。もっと姉さんを守れたはずなのに。
 姉さんの言っていることは……どこまでも正しい。
 僕は弟失格なんだから……。

「ごめん……。本当に、ごめん。これからは気をつけるよ……」
「口ばっかりだもんッ! 秋くんいつも、口ばっかりで何もしないもんッ!!!」(AKITO:HP-2%)
「本当に……もう……は、はんせい……してる……」(AYUMI:HP-3%)

 語尾は掠れて、もう声になっていない。
 僕の頬をつたって、テーブルの上に小さな水たまりが広がっていく。
 ゆるしてくれ、ねえさん。ぼくを、ゆるして……。
 
 姉さんの喉元。
 高度を上げていた果物ナイフが、少しずつ下に降りてきた。
 ぼやけた視界でそれを把握した僕は、安堵のあまりそのままテーブルに突っ伏しそうになる。

 >AKITO:HP 73%
 >AYUMI:HP 97%
 >Ready....GO!!

「秋くんはさ……お姉ちゃんなんか、必要ないんだよね……」
 ボソッと、力なく姉さんが呟いた。
 単純なる要不要論だ。姉さんからの攻勢が一旦手詰まりになり、単調になってきた証拠。
 ――隙ありっ!
 さっきまでの涙もどこ吹く風だ。
 今こそが僕の勝機! 今こそが討って出る時!
 今こそが……媚びて媚びて媚びまくって、ご機嫌取りをする隙なのだ!!
 
「姉さんがいなくちゃ、僕は生きていけやしないよ。いつだって大切に思っているっ」(AYUMI:HP-5%)
 炎よりも熱く! 鼓動よりも昂らせて! 届いてくれこの想い! この媚態!
「……お姉ちゃんが寂しがってても、秋くんは平気じゃない……」
「姉さんが居てくれなくちゃ、僕だって寂しいさ。寂しくて死んじゃうよ、きっと!」(AYUMI:HP-4%)
 羞恥心とか男の挟持とかは、かなぐり捨てろ。攻める時はトコトン熱く畳み掛けるのだ。
「だって……」
 効いている! 姉さんの纏っている瘴気が、薄まってきている。
 このまま一気呵成に攻め立てよう。全軍すすめ! 突撃!
「僕は姉さんに甘えっぱなしだからさぁ。 こんな優しい姉さん、世界中どこを探したっていないよぉ」
 (AYUMI:HP-5%)
 甘く、撫でるように、蕩けるような声を出す。……自分で鳥肌がたった。
 しかしイケる。これならイケるぞ! 調子のってきたぞう!
「姉さんは、世界一のお姉ちゃんだよ!」」(AYUMI:HP-4%)
「そ、そうか、なぁ……」
「姉さんは、お姉ちゃんの中のお姉ちゃん。お姉ちゃん・ザ・ベストだよ!」
 
 
「でも、梓ちゃんのことが……一番だって…………言った」

 突然。本当に突然。
 まるでいま思い出したかのように、順調だった戦気の流れが変わる。もう、コロッと。
 語尾になるにつれ、姉さんの声のトーンが低く低く轟くようになっていく。
 魔闘気がリビング中を渦巻き始める。
 
 え? え? え? え? 
 何か様子が変だ。
 撃ちかたやめ! 全軍防御体勢!
 と、ともかく、否定だ! わけが分からない時は全否定。
「それはないよ、絶対にない」

「言ったッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」(AKITO:HP-8%)

 そ、そういわれれば言ったような気も……。
  
「もう秋くんの言うことなんか信じないッ!! うぅっ…馬鹿ぁぁぁぁあああ!!」(AKITO:HP-3%)
「……いや、それはネ。そういう意味じゃなくてネ。なんというか……」

 >AKITO:HP 62%
 >AYUMI:HP 79%
 >Ready........
 
 …………
 ………
 ……
 …

 結局かれこれ一時間程、一進一退の攻防を続けている。
 しかし今日は特に大変なのだ。
 気を抜くと姉さんのナイフが喉元を彷徨い始めるため、余計に必死にならざるを得ない。
 まだまだ序の口だというのに、僕は早くも疲労の色を見せ始めていた。
 
 父さんがよく言ってたっけ。
 女の人のヒステリーはたいへんだって……。
 はぁ……。

「秋くんはさ、お姉ちゃんのこと飽きちゃったんだよ! もう見捨てるつもりなんだよッ!!」
 同じ様な攻防の繰り返し。
 同じ様な言い合いの繰り返し。
 苛立ちだけが、少しずつ募っていく。
「そんなことないって……。僕は姉さんを見捨てたりしない」
「もう信じられないよ……! 秋くんの言うことなんて信じられない……!!」
 姉さんが両耳を抱え込んで、イヤイヤと肩を振る。
「信じてくれなくたっていい。僕はいつだって姉さんのそばにいる」
 そうだ。僕はいつだってそばにいる。
 いっしょにいる。
 ずっと、いる。
 
 ……疲れていたからだろうか。焦っていたからだろうか。
 ふと。耳元の風が、優しく揺らめいたような気がした。
 ここに居もしない梓の囁きが、どこかで聞いた音色を奏でる。
 あの時の言葉。あの時の――
 

 ――――『姉弟だって、いつも一緒にいられるわけじゃありませんし』――――

  
 ………。
 ち、違う……。ちがうんだ、あず……。
 違う……僕はずっと姉さんのそばにいる……。

本当に違うのですか、秋人さん?
今日は秋人さん、どこにいたんです?

「秋くん、お姉ちゃんからどんどん離れていっちゃうものッ!!」
「……そ、そんなことない! 僕はずっと姉さんと一緒にいる! 姉さんを支え続ける!」

 ――――『血の繋がった姉弟なら、いつまでも一緒にはいられませんし』――――
   
 
 やめろ……やめろよ……! なんなんだよッ!
 なんでこんな事思い出すんだよ!
 なんでこんな時に思い出すんだよッ!
 そんなこと関係ない! 大切な事じゃない!
 姉さんを守れるのは、ぼく―――

それならどうして亜由美さんは、
こんなに、泣いているのでしょうねェ?

「それなら! どうして帰ってきてくれなかったのッ!? どうしてそばにいてくれなかったのッ!?」
「…………………」 
 頭が、ぼんやりする。
 大切だったはずの想いが、身体から溶け出して、揮発する。
 
「帰ってきてくれなかったじゃないッ! お姉ちゃんのこと……見捨てたじゃないッ!!」
「それは………携帯を、家に、忘れたから……」
 違う……。僕が言いたかったのはそんなことじゃない……。
 今の姉さんに、こんなことを、言っては駄目なのに……。
「言い訳なんか、聞きたくないよッ!!!」

 ――――『いつも一緒にいられるわけじゃありませんし』――――
 ぼく……は……
               
「お姉ちゃんなんかどうだっていいんだよッ!お姉ちゃんを捨てるんだよッ!」

 ――――『いつまでも一緒にはいられませんし』――――
 ちがう……ちが……う……

「嘘つき! 嘘つきッ! 嘘つきッ!! この大嘘つきィィィイッ!!」
「…………ちが……う……」
 力を振り絞って、ようやくその言葉だけを搾り出せた。
 
「じゃあ、どうして私を置き去りにしたのッ!? どうして一緒にいてくれなかったのッ!?」
 姉さんの白い首筋に、ナイフがスッと添えられる。
 ぎらぎらぎらぎら輝くナイフ、鈍く、冷たく。それがどこまでも、哀しく。

 ……僕はどうして、こんなことをしているのだろう……?
 
 もういいじゃないか。
 もううんざりだよ。
 姉さんも、死にたいなら勝手に死ねばいいじゃないか。
 なんかもう、つかれたよ。
 
 だって
 どうせぼくらは、いっしょにはいられないから。
 いつまでも、いっしょにはいられないから。
 きょうだいだから。
 きょうだいなのは、もうどうしようもないから。
 なにをしたって、むだだから……。
 ねえさんとぼくは、
 いっしょになれないから……。
 ………
 ……
 …
 
 なにもする気がしない
 なにも言う気はない。
 冷め切ってしまった理性は、同じように冷たい光を放つナイフの行く末を、ただ黙って見守ろうとする。
 
 もう、これで精一杯なのかな?
 ぼくができるのは、ここまでなのかな?
 僕の想いは……これでもう、全部なのかな?
 
 身体の奥底で眠っていた小さな小さな残り火だけが、胸に痞えるように、己の存在を呼びかけてくる。

「そうさ、たしかに僕は姉さんを置き去りにしたよ」

 …………………あれ?
 気がつけば、無意識がすらすらと言葉を織り綴っていた。
 僕は一体、何を口走っているんだろう?
 妙に落ち着いている自分を自覚する。
 どこかで聞き覚えがある、このフレーズ。

「でも、それは姉さんの邪魔をしたくなかったからなんだよ」
 テレビのスクリーンごしに自分を見ている、そんな他人事のような気分。
 己の口が勝手に紡いでいく言葉を、胡散臭げに聞き入っていた。
  
 あー、テレビで思い出した。
 これ、昼間姉さんと一緒に観ていたドラマの台詞だわ。
 なんとかオウガとかいう、あの変なドラマ。
 くだらねー。こんな時にテレビドラマの真似かよ。阿呆か僕は。
 
「嘘だよッ! お姉ちゃんと一緒にいるのが嫌になったんだよッ!!」
 心なしか、姉さんの台詞までドラマと似ているじゃないか?
 笑える笑える。調子でも合わせているの?
 
 
 ……………。
 なぁ。
 本当に僕は……無意識で喋っているのだろうか?
 本当は、全部分かっていて、自分の意思で喋っているんじゃないのか?
 台詞のせいにして。あとで誤魔化せるようにして。
 
 いや、そんなはずはない。
 だって本来なら僕は、ドラマの台詞なんてろくに覚えているはずがないんだ。
 りんごを食べるのに一生懸命で、ろくにテレビを観ていなかったじゃないか?
 今だって、ドラマの内容がどんなだったのか言えないだろう?
 おかしいんだよ。僕がドラマの台詞を喋れるのは。
 だからこれは無意識なんだ。僕の考えじゃない。僕の意思で喋っているわけじゃない。
 ぼーっとしているうちに、無意識が耳に残っている言葉を勝手に口走っているだけだ。

「違うよ、姉さん」
 
 そうだ、違うだろう。
 無意識で喋っているのなら、台詞を覚えていないのなら、
 ……どうして僕は、『これ』がドラマの台詞だと気づいたんだ?
 
 ドラマの台詞のせいにして、自分の言いたいことを言おうとしているだけじゃないのか?
 雰囲気に流されて、どさくさに紛れてみるつもりなんじゃないのか?

「僕は」
 
 山本秋人は。
 ソイツがドラマの台詞を覚えているというのならば。
 ソイツが次に何を言うことになるのか、ソイツ自身がもう知っているはずなのだ。
 
 それとも切羽詰まって、自棄になって、
 似たようなシチュエーションのドラマの台詞を、うろ覚えで口走っているだけなのか。
 この後、何が起こるのかも知らずに。
 
「僕は、姉さんを」

 わざとなのか。無意識なのか。
 ………もう、どっちでも、いいかな、と思えてきた。

 

 

「愛している」

 

 おどろくほど、あっけなく。
 ことばが、むすぶ。

 

 びくん。
 姉さんの身体が、ひときわ激しく痙攣した。
 
 
 
「愛している人に、いなくなって欲しいわけない」
 
 
 
 ぽとん。
 あの忌々しい果物ナイフが、遂に姉さんの手から転がり落ちた。
 

 

 あぁ。
 やっぱり。

 

 効いちゃったみたい。

 ……………
 …………
 ………
 ……
 …


「だからさ、いつも言われているんだよー。『お前が羨ましい』『俺も優しい姉ちゃんが欲しい』って」
「そ、そう、かなぁ?」
「姉さんの弁当食べてるとさ、みんな羨ましそうにして。気を抜くとおかずを横取りしようとするんだ」
「えぇっ!? だ、駄目よ秋くんッ! 駄目なんだからぁ!!」
「勿論! 米粒一つすらやるもんか。連中に見せびらかすようにして、全部おいしく食べちゃうんだよ」
「そ、そうなんだぁ」
「うん。他にも『あんな綺麗なお姉ちゃん、俺にも紹介してくれよ』とかさ、言われたり」
「で、でもでもぉ。秋くんって、本当にそういう人を紹介してきたこと、なかったよね?」
「そりゃあそうさ。あんな奴らなんかにゃ、絶対渡せないねぇー」

 脳内BGMはG線上のアリア。実にほんわかしている。
 我ながら、自分の「本気」の力が恐ろしい。情け容赦ない媚びっぷりだ。
 リビングを覆っていた正体不明の暗雲も晴れ渡り、今や何の変哲もない空間へと変位を遂げていた。
 ほのぼのペースで展開するやり取りが、戦いの終結をぷんぷん漂わせている。
 ……というか、姉さんが好き好んでダラダラ引き延ばしているような気さえする。

「そ、それじゃあさぁ、秋くん……」
 頬を赤らめ、長い睫毛の奥に上目遣いを見せる姉さんが、遂に、ついに、そっと振り返る。
 あぁ……天岩戸のご開帳だ!
 久しぶりに見せてくれた姉さんの横顔に、まさしく太陽の女神の再臨を仰いだ気分。
「お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞く?」
 モードが切り替わった。
 これは『お姉ちゃんおねだりするからね』モードだ。まぁ慰謝料の算定作業みたいなもの。
 僕を赦してくれる姉さんの優しさに、どれだけ感謝の気持ちを示せるか、その交渉に入る。
 「ごめん」で済んだら、行列のできる法律相談所に行列ができない。
 赦して貰うためには、こちらからも誠意を捧げなければならないのが世の中の仕組みなのだ。

 ・耳掃除させる権、十回。
 ・お買い物同行権甲種(※姉さんの洋服選定を含むもの。下着は洋服に入らない)、五回。
 ・お買い物同行権乙種(※腕組みしながらのウィンドウショッピングを強制される)、七回。
 ・夏休み姉弟泊りがけ旅行権(※姉さんの強い要望により泊りがけに変更)、一回。
 ・免許取りたてお姉ちゃんの助手席に座ってもらう権(※命がけ任務)、三回。
 ・現在の携帯とは別に、姉さん専用回線の携帯電話を一つ持ち歩くこと。

 今日はもう、悪い男に傷つけられた姉さんを慰めるための日だからな。
 姉さん側の要求のうち、そもそも実行不可能なものを拒否した以外、全て丸呑みした。大盤振る舞いだ。
 中には今まで頑なに拒んできた要求もあるが……まぁいいか、今回は。あはははは……。
 ……消化するのは、結構大変だろうなぁ……。

 …
 ……
 ………

 そして今は、二人で遅い夕食を摂っている。
 姉さんはどこかぽーっとしていて、僕の方ばかりちらちらと覗き見してくる。
 なのでほとんど、いや全く、箸が進んでいない。
 ……まぁそれでもなんだか、やけに嬉しそうな姉さんだから。
 これでいいんだろう、きっと。
 
 僕を散々悩ませてくれた果物ナイフは、あれっきりリビングの床に打ち捨てられたままだ。
 代わりに、今の姉さんの手元にあるのは耳かき。
 食事が済んだら、早速始めるつもりなんだろうな。
 姉さんに耳掃除してもらうのは好きなんだけど、まぁ色々あって、頻繁に頼む気にならないのだが……
 ……それでもやっぱりこっちの方がずっといい。果物ナイフなんかより、よっぽどいい。

 あー。うん。
 まぁ、問題としては、その。なんか、「言っちゃった」けど。
 あ、あれはその場の流れだったし。無意識でドラマの真似事してただけだし。
 「姉として」という意味だし。深い理由はなかった、と。そう自分で結論づけている。
 ふ、普通さ、姉弟でそんな言葉をマジで受け取ったら、ギクシャクしたり怒られたりするもんだろ?
 姉さんは別に怒ってないみたいだから、ちゃんと分かってくれていると思う。その辺のノリは。
 
 あと、それから。
 姉さんの身に一体何が起こったのか、その男に何をされたのかも、結局聞けずじまいに終わった。
 でもそれも、そっとしておこうと思う。
 下手な詮索をして、忘れかけている傷跡を抉るような真似はしたくない。
 現に姉さんは、今こうやって幸せそうに微笑んでくれている。
 僕が、この笑顔を取り戻したんだ。僕が、姉さんを支えきったんだ。
 それだけで、僕は充分に満たされている。
 
 そうさ。
 僕らは、たった二人きりの家族なんだ。
 いつだって、支えあって。
 どんなときだって、助け合って。
 そうやって二人で頑張って生きていく。
 
 それが、姉さんとの二人暮らしで学んだことだから。
 姉さんが僕に―――教えてくれたモノ、だから。
 
 
 おっと。食事の後片付けを済ませてしまった姉さんが、リビングで呼んでいるみたい。
 白ふさの凡天をフリフリしながら、膝の上をぽんぽん叩いている。
 って、どうしてわざわざ服を着替えてくるかなぁ。そんなスカートに……。
 
 うぅ、一旦姉さんに膝枕されると、居眠りするまで強制的にホールドされるんだよなぁ。
 姉さん曰く「お姉ちゃんの膝枕で眠くならないのは、弟として不健康」ということらしい。
 でもなぁ。僕はどういうわけか、膝枕で寝ると異常に寝涎を垂らしたり寝汗をかいたりするらしいんだ。
 前の時も、なんか妙な匂いのねっとりした液で、姉さんの太股をべとべとにしてしまって……。
 姉さんは顔を赤らめながらも、「気にしない」と言ってくれた。
 けれど僕はなんだか姉さんを穢してしまったような気がして、しばらくは落ち込んでいたものだ。
 だから耳掃除はあまり気がすすまないのだが……、まぁ今日は仕方ないかな。
 
 
 さて。
 それじゃあ、僕ももう行くとするよ。
 姉さんが……待っているから。
 
 
 
 
 

 あぁ、それにしても。
 姉さんをあんな風に傷つけた奴は、いったい誰だったんだッ!!!    (←←←←←)


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山本くんとお姉さん2 〜教えてくれたモノ〜 第8回 inserted by FC2 system