山本くんとお姉さん2 〜教えてくれたモノ〜 第7回
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<7>

 閉館のベルが鳴った。
 タイミングよく、コピー機が藤原さんのノートの最後の一ページを吐き出す。
 時計は午後六時を指していた。

 ―――
 ――
 ―

 そして今、僕らは三人で帰りのバスに揺られている。

 ――ごとん、ごとん、ごとん……

 今日は結果的に、図書館に来て大正解だったと思う。
 特に宿題の進捗具合が素晴らしかった。
「私も手伝います!」――途中からは梓までがそう宣言して、猛烈な勢いで残りを処理されてしまった。
 未着手の前半部分については、藤原さんのノートをコピーさせて貰っている。あとは写すだけ。
 つまりは、提出期限に間に合うかどうかの瀬戸際だったものが、あっけなく片付いてしまったわけで。
 明日の夜には孝輔の奴が泣きついてくるだろうが、それまでには充分終わっていることだろう。
 三人寄れば文殊の知恵というけど、人海戦術って無敵に素敵だ。
 今日は図書館に来て良かった。
 
 ……。

 そうだ……。そうなんだよ……。
 僕は、良かったんだ。図書館に来て、良かったんだ。
 藤原さんにも会えたし、久しぶりに梓と街を歩けたし、宿題だって終わらせた。
 おい、いいことづくめじゃないか? 家になんか居なくて得をしたぞ、山本秋人よ。
 そうだ。これでよかったんだ。
 
 ……そうだよ。
 姉さんは、姉さん。
 僕は、僕だ。
 お互いどこで、誰と、どうしていようと……関係ない。
 姉さんなんか……関係ないんだ。
 

 バスがひとつ揺れる度に、僕はあの人の待つ家に近づいている。
 
 分からない。
 なんだかこのまま、家に帰りたくない。
 あの家には、入りたくない。
 帰るのが、こわい。

 何かが、こぼれるから。
 何かが、くずれるから。
 何かを、すくいきれないから。
 
  
 無機質なバスの揺れに、ほのかな吐き気を覚えていた。

 ―――
 ――
 ―

 ――ごとん、ごとん、ごとん…… 

 土曜とはいえバスの本数自体が少ないので、この時間はかなり混んでいた。
 だから目の前の二人掛けの座席に、女の子達をさっさと座らせている。
 特に梓は、際立って人目を惹く容姿をしているからな。
 これだけ混んでいる中で、痴漢みたいな奴に変な事をされては可哀想だ。
 周囲にお年寄りもいないみたいだし。

 ――ごとん、ごとん、ごとん……

 ……。
 ……しかしまぁ、なんというか。
 な、なんか、ちょっと静か……かな?
 もうちょっとだけ賑やかでも、罰はあたらないような……。
 さっきから僕も努力しているのだが、三人で会話が続かないのだ。

 窓側に座った梓は、窓外に流れ行く電信柱をひたすら黙々と見つめ続けている。
 ……梓は本数を数えるのが楽しいみたいだ。
 通路側に座った藤原さんは、斜め前方仰角三十度のバス路線図を淡々と眺め続けている。
 ……藤原さんは街の運輸システムに興味があるみたいだ。

 それはいい。それはいいんだけどさ。
 なにもめいめい別方向を向いて、押し黙らなくても。
 もっとこう、会話とかさ……してもいいんじゃないかな?

 座り方もそうだ。二人は異様に両端に詰めて座っている。
 おかげで二人掛け座席のはずが、真ん中にもう一人座れそうなスペースが空いてしまった。
 もっとゆったり座ればいいのになぁ……。

 いや、待てよ?
 僕を座らせるためにわざわざ空けてくれた、ということなのかな?
 僕のことなんか気にしなくていいのになぁ。それよりなにか会話してよ、会話。

 ――ごとん、ごとん、ごとん……

 女三人寄れば姦しいという。二人でもそれなりのものだろう。
 だからこの二人にしても、何かの話題できゃいきゃい盛り上り始めるかと思っていたのだが……。
 場が、すごく、重い。
 そりゃ、二人で完全に別空間を作り始めてもらっても困る。
 梓が子供の頃の僕の様子を嬉々として話し、藤原さんが学校での僕のありかたをにこやかに暴露する…
 ……そんなそら恐ろしい光景を期待するものでは、決してない。
 しかしなぁ、もう少し和んでいても……。

 
 ――ごとん、ごとん、ごとん……

「藤原さんはさぁ」
 とりあえず、手前にいる藤原さんに話しかけてみる。
「ん、なあに?」
「休みの日とかは、何してるの……、…………かな?」
 くるりと振り向いた梓に見つめられて、語尾が尻つぼみになる。
「普通だよ。映画観たりとか、お菓子作ったりとか」
「お菓子かー、藤原さんらしいねー」
「そうでもないよ」
 つきはなさなくても。
 
「あー、あずは今日は学校だったんだよねぇ? ど、どんな特別講義だったの……、…………かな?」
 傍らから藤原さんに凝視されて、語尾が小声になる。
「医療関係の方々を招いて、職業体験の講演でした。私の高校は医学部希望者多いですから」
「そ、そっかー。あ、あずもお医者様になるのかなー?」
「いえ」
 とりつくしまもない。
 
「やー、はっはっは……。ふ、二人とも、今日は疲れたよねー?」
「それほどでも」「別に」
「…………」

 さっきから、万事がこの調子だ。
 藤原さんに話しかけると、梓から無言のプレッシャーをかけられる。
 梓に話題を振ると、藤原さんが顔を覗き込んでくる。
 二人同時に話し掛けると、気だるい返事しか返ってこない。
 ……これでどうやって会話を続けろというのか?
 僕は自分で思っている以上に、人とのコミュニケーションが苦手なのかな……。

 はぁ……

 ――ごとん、ごとん、ガタンッ!!

 うおっとっと……。
 ぼけっとしながら吊り革にぶらさがっていたせいか、急激な横Gにバランスを奪われる。
 よろけて後ろの人にぶつかった。

「あ、すいませ――

 

 

              ――」

「山本くん?」
 え、あ? 
 え、あ、え、えぇっと。
「……ご、ごめん。なんでも」
 訝しげに振り返った藤原さんと、それを追い縋る梓の目線。
 平然なる構えで、それらを迎え撃った。

 そう。
 なんにも、おかしいことは、ない。
 ぜんぜん、これっぽっちも、ない。
 まえみてすわってないと、おぎょうぎがわるいよ、ふたりとも。

 ――ごとん、ごとん、ごとん……
 
 落ち着け。
 落ち着くんだ。
 冷静になれ。クールに。
 そう、深呼吸をするんだ。

 ………。
 
 振り向かないと。
 確かめないと。

 い、いや、振り向けない。

 
 
 い、いつから……
 
 
 いつから、そこにいたんだろう?

 どうしてそこに、いるんだろう?

 僕らがバスに乗り込んだ時には、確かにいなかったはずなのに。

 

 この身長。
 この服装。
 この空気。

 間違いない。
 間違うはずがない。

 僕の  後ろに  いた。

 僕の  背後に  立ってる。

 

 ね

 

 

 姉さんだ。

 ―――
 ――
 ―

 姉さんだ。
 
 いる。
 すぐ真後ろに、いる。
 ひっそりと、立っている。

 
 振り向かなくては。
 把握しなくては。現実を。
 
 ぎっ、ぎっ、ぎっ
 まるで頚骨がオイル切れを起こしたように、ぎこちなく背後を覗き見る。

 ――ああ
 姉さんだ。確かに姉さんだ。

 じっと俯いたままの姉さん。
 陰になって、その表情が伺えない。
 何かブツブツ呟いている。
 でも何を言っているのか、よく聞こえない。
 姉さんのブラウスの襟元が、どういうわけかびっしょりと濡れている。

 おかしい。
 どこかおかしい。

「どうかしましたか、秋人さん?」
「なんでも!」
 咄嗟に姉さんを庇うように胸を張った。
 顔面神経に向って『えがお』と命令文を連打する。
 今のただならぬオーラを発する姉さんを、これ以上人の目に晒すべきではない。
 特にこの二人に知れたら、なんか分からないけどとんでもないことが起こる気がする。
 ――理性と本能が珍しく全会一致で、そう結論を下したのだ。
 背骨と両胸をぐっと反らし、背中から姉さんに覆いかぶさるようにして胸を張る。
 きつい。
 この体勢きつい。

 後ろ手で姉さんを引き寄せようとして、後ずさった拍子に何か柔らかいものを踏みつけた。
 ……姉さんの素足だった。
 靴を履いていない。
 
 額からじっとりと噴き出してくる汗が、前髪を張り付かせる。
 やばい。
 なにかやばい。

 何があったんだよ、姉さん……。
 一体、どうしちゃったんだよ……。
 可哀想に、姉さんの小さな肩がふるふると震えている。
 こんな姉さんはとても見ていられないよ……。
 ………あれ? 
 胸に抱えるようにして、両手で何かを握り締めている。
 なんだろう?

 昼間の果物ナイフだった。
 
 泣きたくなった。

 

 ああぁあっ!? やめてよ姉さんッ! やめてそれ以上抜かないでッ!! 
 抜いちゃ駄目!! 閉めて! しめてしめてそのままフタ閉めて!!
 こんな満員バスの中で白刃煌めかせたら、洒落になんないって! 捕まっちゃうって!ホント!!
 無意識に覆い隠そうとして、ほとんど海老反り状態になってしまった。
 隣の人が不審な目で睨んできたが、もう気にしていられない。

 ちょっと涙が出た。
 

(「……ゆ………さ……な………」)
 姉さんの呟きが、ひと際はっきりと聞こえた。
 でも梓達二人の監視の目があるから、大っぴらには話しかけられないんだ。
 ええと、なんだい……?
(「……ゆる……さ……ない……」)
 ええい、このバス駆動がうるさいなぁ! 聞こえないじゃないかっ!
(「……ゆる………………い……」)
 ゆ る い ?
 
 ナイフのフタが緩いのかな? 
 だから抜けちゃったの? 
 納得だけど、そんなものを一日中いじくってるからだよ……。

(「……うぅ………ひっく……ぐすッ……ひ……っく……」)
 ね、姉さん……。
 ……な、泣かないでよ……。
 お願いだよ、泣かないでくれよ……。
 背中からくぐもった嗚咽が漏れ聞こえてきて、行き場のないやるせなさを持て余してしまう。
 
 
 いったい何があったんだよ、姉さん。
 どうしてそんなことになっているんだよ。
 僕のいない間に、何が…………

 僕の……
 いない……?

 …………。

 そうだ。僕のいない間なんだ。
 僕のいない間に、姉さんの身に何かが起こったんだ。
 脳裏に閃光が走る。耳元に蘇る、あの時の梓の言葉。
     ―――――『きっと、素敵な男性なんだろうなぁ』――――――

 ……そいつだ。
 ……その男だ。
 ……僕がいない間に、家に来た男だ。
 
 姉さんを……。姉さんを……そいつが……。
 
 
 瞬時、沸点を越えた。
 背筋を駆けぬけた激流が、全身の毛を逆立たせる。細胞が煮え滾る。紅い鼓動を漲らせる。
 バスの中が捩れて歪む。うねり狂った瞼の裏で、何度も何度も閃光が瞬く。破裂する。
 
 よくも……
 よくも! よくも!! よくもッ!!! よくも姉さんをッ!!!
 僕の大切な、大切な姉さんを、よくも傷つけやがってッ!!!!!!
 あんなに朗らかな姉さんを……お日様みたいに……優しく笑ってた姉さんを……こんな……こんな……。
 こんなになるまで……弄びやがって……。
 糞っタレがぁッ!!!!
 畜生、畜生ッ、畜生ッ!畜生ッ!! 畜生ッ!!! 畜生ッ!!!!
 ゆるさない、オレは、絶対に、絶対に許さないッ!!! 許さないッ!!!
 
 どこのどいつだ……。                     
 
 どいつが、姉さんを傷つけたんだよッ!!       (←←←←←)
 どいつが、姉さんをこんな姿にしたんだよッ!!    (←←←←←)
 いったいどこのどいつだよッ!!           (←←←←←)
 
 殺してやる……!
 ブチ殺してやるッ!!!
「や、山本……くん?」
 みつけだして、叩き殺してやるッ!!!
「やまもとくんッ!!」
 
 目の前に、酷く怯えた藤原さんの顔があって。
 あれだけ渦を巻いて捻じ曲がっていた世界が、あっけないほど整然と物理法則に従い始めた。
 ありきたりな市内バスの風景。眠気を誘うほど緩慢に響いてくるバスの振動。
 今まで煮え滾っていたマグマが、急激に冷え固まっていく。
 ずっと握り締めていた拳を開く。青白くなっていて、痛い。
 
 思わず顔をさする。僕は一体、どんな表情をしていたことやら。
 おとなしいクラスメート脅して、何やってんだよ僕は……。
 
「山本くん……」
「あの、ごめん。考え事しててちょっと……。ぜ、全然、藤原さんのことじゃないから」
「う、うん……」
 
 でもおかげで冷静になれた。
 姉さんはきっと、その男に何かされたんだ。何か……酷いことを。
 ……でもこんな風になっているということは――破綻したということだ。二人の関係が。
 当たり前だよ。大切な人をこんな風に傷つけて、恋人で居続けられるわけがない!
 もう終わりなんだ。姉さんとその男は……。
 そう思った途端。昼間からずっと燻っていたわだかまりが、不思議と消えていくのを感じた。
 
 今の姉さんは傷ついている。可哀想だ。
 でも、なんというか、結果的にはこれでよかったんだよ。姉さんにはいいクスリになったと思うんだ。
 ね、姉さんも、もっと、男を見る目を養わないと……。
 そ、それに、そんな男なんかいなくたって、僕が姉さんについている。
 今の姉さんを支えることができるのは、僕しかいないんだ。
 姉さんを守れるのは、その傷を癒せるのは、励ませるのは、今日来た奴なんかじゃない。僕なんだ。

 
 心が軽い。
 前向きになってくると、先の先まで物事を見通すことができるようになる。
 まずは梓達に気づかれないように、姉さんを家に連れて帰るんだ。それからだ、慰めてあげるのは。
 今の姉さんは、きっと八つ当たりでもしたい気分なんだろう。
 いいよ。僕が姉さんの気持ち、全部受け止めてあげる。八つ当たりされてあげる。
 だからもう帰ろう? 僕ら二人の家にさ……。
 
 ――ピンポン
『音取川駅前、ねとりがわえきまえです。お降りの際は、足元にご注意下さい』
「わたし、行くね……」
 あ、あぁ、そうか。藤原さんはここで降りるんだ。だから立っていたのか。
 確かこの辺りのマンションに住んでいるんだっけ。
 今日は色々世話になったというのに、帰り道ではなんだか気まずい雰囲気になっちゃって……。
 罪悪感が募る。いけないことをした気も。
 
 ……と思った刹那、藤原さんは鞄を後ろ手にしてくるっと振り向いた。
 よかった、笑顔だ。

「山本くん、“また”ね」
 うん、月曜日に!
 藤原さんはスカートを翻して、小気味よくステップを降りていった。

 

 

 ――って、姉さん?
 ちょっと待ってよ、藤原さんの後についていってどうするのさ?
 止まって止まって、梓に見つかっちゃうよ。
 わ、駄目だって、ナイフ抜いてちゃ駄目! しまって! フタ閉めて!
 だからついていかなくていいんだって! 藤原さんについていかなくていいんだって!
 うわわっ 暴れないでよ! 落ち着いて、落ち着いて姉さん! そのナイフしまって!

 ―
 ――
 ―――

 ――ピンポン
『次は差桝町一丁目、さしますちょういっちょうめ。お降りの方はボタンでお知らせ下さい』

 差桝町――僕達の住む町。
 本来なら次のバス亭で降りなければならない。
 しかしそれでは、ご近所の梓も当然一緒に下車することになる。
 ……それはまずい。姉さんを隠しきれない。何か手を打たなくては……。
 
「あず。僕ね、帰りにちょっと買い物しなきゃならないんだ」
「今から……ですか? こんな時間に?」
「うん。姉さんに頼まれていた物、忘れてて。それでさ、もう遅いからあずは先に帰りなよ。
 僕はこのまま、勘斤通りの方まで乗っていくから」
 一つ先のバス停まで乗り越す。
 そこから歩いて、姉さんを家にお持ち帰り。これだ。
 ……あぁ、姉さんが裸足だったのを失念していた。途中でサンダル買ってあげないと。

「秋人さん……あの……」
 スッと梓が立ち上がる。
 ただそれだけの動作なのに、純白の翼をしなやかに伸び上げたような気高さが漂う。
 ……が、ここはそんなことに見惚れていられる場面ではない。
 梓はなにか物言いたげに、僕の方へと詰め寄ってくる。 
 ……バ、バレたのか? 姉さん、もっと近くに寄って、寄って!

「な、なんだい、あず?」
「あの人……さっきの人、秋人さんのなんなんですか?」
 ……藤原さんのこと?
 なにって、だからクラスメート、だよ。
 最初に会った時説明しておいたはずだけど?
「あ、あの人、よくない人ですっ」
 梓が珍しく表情を荒げて、搾り出すようにして叫んでいた。
 よくないって……何のことだ? 
 良いも悪いも、大体二人ともろくに話すらしてなかったじゃないか。
 一緒に勉強していただけで、何をそんな……良くないって……。
 ……あぁそうか、勉強のことか。
 藤原さんは、頭良い方だよ?
 
「あの人、絶対よくないですっ!」
「そんなことないって」
 藤原さんは頭いいって。
 そりゃ梓から見たらよくないかもしれないけど……だったら僕もドッコイドッコイだよ。
「あの女は、悪い女ですっ!」
「彼女はむしろ良い方だと思うんだけど」
 特にこの間のテストじゃ、英語と現国は僕より点数良かったし。
「どうして庇うんですかっ!? あ、秋人さんはあの人と、付き合っているんですかっ!?」
 ――唐突に、チクリと背中に刺激が走った。
「痛ッ!?」思わず叫びがついて出る。
 いたッ痛い痛い痛い痛いッ!! ちょっ、なっ、えぇっ!? 
 ――あ………ささってる。
 うわあああああぁぁぁああああっ!!!
 姉さん、やめてやめて、背中にナイフが! なんでそれ刺さちゃってるのッ!?
 マジで刺さってるってッ!! 先っぽがちょっとだけぇ、刺さってるってぇ!! 
 チクチクするってぇ! 危ないってぇ! 痛いってぇ! もう刺さってるてぇ!!
 ってゆうか、いつのまにまた、それを抜いたの!? 
 閉めてよ、フタしめて!! はやくっ!!

「『いた』って……そ、そんな……まさか……」
 ちょっと待ってね、あず! 
 あとでゆっくり話しを聞くから、ちょっと待って! 
 梓に引き攣った笑みを投げかけながら、見えない背後を手探りする。
 姉さんの手……つ、捕まえた!
 
「あの人と……本当に、付き合っていたんですか……?」
 今たてこんでるから! あとにして、あとで!
 そーっと、そーっと、そうそう、姉さん。
 ちょっ、姉さん、大人しくして!
 
「い、今は違うんですよね? 『付き合っていた』って、今は付き合っていないんですよね!?」
 さ、さ、ぱちんとフタしめようねー。ぱちんと。
 後ろ手であやすように、それでいて渾身の力で凶器の隠蔽を促す。
 しかし姉さんがイヤイヤとむずかるので、なかなかはまらない。
 ふるふる震えている姉さんの手の小ささに、今日負った心の傷の深さを垣間見て、胸が痛んだ。
 
 ふぅ……。
 ……えと、それで? 梓は何だっけ?
 
「秋人さんっ、そうなんですよね!?」
「え? あ、うんうん。そうそう。その通り!」
 いつ姉さんのことがバレるのか冷や冷やする。ともかく調子をあわせておかないと。
 ……で、なんの話?
「そ、そうですか……」
「そうそう」
 ……で、なんの話?

「あの、でもやっぱり、あの人にはもう構わない方がいいと思うんです」
 なんだ……まだ藤原さんの話をしてたのか。
 どうしてそんなに藤原さんに拘るかなぁ。
「あの人は、秋人さんの思っているような人ではありません」
「彼女のことは、僕がよく知っているつもりだよ」
 隣りの席だからさ。普段真面目に授業受けている事は、誰よりも知っている。
「騙されてますっ! あの人まだ、諦めてませんっ!」
 騙されてるって……おいおい、藤原さんがカンニングとかするわけないだろう?
 それに諦めてないのは当然じゃないか。まだ高二になったばかりだし、大学受験は来年だよ?
「秋人さん分かってください。お願い……!」
 うわっ、おおっとと。
 梓が急にシャツにしがみついてきて、バランスを崩した。
 背後でぽすんとぶつかった姉さんが、そのまま抱きついて背中に顔を埋めてくる。
 
 ………。
 ……姉さん、あんまりスリスリしないでね。
 ……姉さん、あの、どうしてそんなに匂い嗅いでるの? 深呼吸くすぐったい……。
 ……ね、姉さん? ちょ、ちょっと今、舌が這ったような気がしたんだけど……。
 あ、姉さん………。
 お願いだよ……、もう泣かないでくれよ……。
 僕のシャツでよければいくらでもハンカチ代わりにしていい。
 だから涙を拭いて。早く笑顔に戻って欲しい……。
 ……あぁああ!! 姉さん、ドサクサに紛れてそんなとこで鼻かまないでよ!?

「秋人さん……。あの人だけは、やめてください……」
 前も後ろも修羅場だった。
 そうだ、梓の態度も変だ。
 こんなにも感情的な梓、こんなにも必死な梓、少なくともこの三年間に会ったことがない。
 一体どうしたっていうんだ。さっきから話が少し噛みあっていないような気もする。
 よく考えるんだ、山本秋人。梓は何を僕に伝えようとしている? 梓は何を訴えようとしている?
「やめてって……何を? どうして?」
「……………」
 梓が唇を噛む。
 至極基本的な質問だ。
 しかし梓はなんだか、ハッキリ言いたくとも言い出せない……そんな顔をしている。
「……あの人は……悪い女だから……」
 そこなんだよなぁ。
 他人の頭の出来の良し悪しをとやかくいうのは、感心しないんだが……。
 そもそもどうしてそこに拘っているのか。
 
 
 …………あ。

 そうか、そうだったんだ……。
 あず、君の気持ちに、僕はようやく気付けたよ……。
 
「分かったよ、あず。心配しないで」
「……え? じゃあ……」
「言う通りにする。藤原さんのは、もう忘れる」
 梓の瞳に一瞬、喜悦の灯が宿る。
 美しい睫毛が慌ててその灯をかき消した。
 
 なるほどねぇ。名門校ってやっぱり違うんだな。ちょっとカルチャーショックだ。
 こんな事で大慌てするなんて、梓の学校って宿題だけでも留年がかかるほど厳しいんだろうね。
 
 そう。
 どうやら僕は、とんでもない思い違いをしていたようだ。
 
 梓の目から見ると、僕がコピーした藤原さんのノートは、凄まじく酷い出来。
 それがさっきから、藤原さんの頭の良さ云々を騒いでた理由。
 つまり、僕があのノートを丸写ししたら、きっと怒られるだろうと心配してくれていたんだよッ!

「ご、ごめんなさい……。なんだか私、さっきから勝手なことばかり言ってて……」
 そりゃ言い出しにくかっただろうさ。
 『写すな自分でやれ』なんて年上に面と向って忠告したら、嫌味な真面目人間だと疎まれかねない。
「いいんだよ。僕のことを心配してくれたんでしょ?」
「へ、変な子でしたよね、今日の私……。差し出がましいことばかり……」
「アレは、もう捨てる」

 キッパリと言ってのけた。
 古文の加藤先生がそこまでチェックするとも思えない。
 仮に酷い出来でも、別に大した被害があるわけじゃない。
 でも女学院に通っている梓の目には、笑い事に映らなかったんだろうな。きっと。
 梓がここまで言ってくれたんだ。藤原さんのノートは捨てて、男らしく独力でやるとするか。
 ごめんね、藤原さん……。っていうか、そこまで酷い出来なら僕の方がノート見せてあげないと……。

「……す、捨てられるのは可哀想だとは思います……けど、あの人はよくない人だと思うから……」
 梓はもう、安堵の気持ちを隠しきれないみたいだ。
 その気遣いが分かった途端、自然に頬が緩み始めていた。
 僕のことをこんなに気にかけてくれている梓が、嬉しくて。なんだか懐かしくて。
 でももうこれ以上、他人の悪口は口にして欲しくない。
 だから僕は、ついついこう言っていた。
 
「でもさ、あずならいいよね?」

 あず、頭良かったもんなぁ〜。今日宿題を手伝ってもらって、しみじみと実感した。
 実はちょっと本気で、梓が代わりにノート作ってくれないかと期待しちゃってたりする。
 あはははは。

「藤原さんは悪くとも、あずなら良いよね? 僕もあずだったら凄く安心だなぁ」
「………ぇ…………?」

 まるで信じられないような物でも見たかのように、潤んだ瞳が大きく見開いた。
 みるみるうちに、梓の頬が紅に染まっていく。
 うんうん。褒められたのが、余程嬉しかったようだ。
「マジでお願いしちゃおうかなー、なんて。や、やっぱり駄目かなぁ……、ははは」
「……ぁ……ぇ……?」
 すっかり放心してしまっているあず。
 熱病にうなされているかのように上気した面持ちが、それでも僕を見つめて離さない。
 ふふふ。そんなに謙遜しなくても、梓が頭いいのは事実じゃないか。梓が努力したのは事実じゃないか。
 梓がこれだけ感情の篭った表情を見せてくれるのは、本当に珍しい。
 僕もなんだか調子にのってきたぞ。
 
「でもね。僕にとっては昔からあずが一番だよ。これは本気で言っているよ?」
 こんなにも無防備な梓の姿を見ていると、幼き日の彼女の影が重なって見える。
 昔の梓は泣き虫で、いつも僕の背中に隠れていて、何かあるとすぐに甘えてきて……。
 それでも僕が少し褒めてあげると、影でもの凄く努力しはじめるんだ。
 頑張って、嫌な事にもじっと耐えて、いつの間にか困難を成し遂げてしまう。また褒めてもらうために。
 ……そんな子だったんだ。彼女はやっぱり変わっていないんだと思う。
 セピア色の思い出が、僕の胸を暖かく充たしていく。
 
 ……。
 で、でも……あれ?
 あのー、梓……さん? 
 ……流石にそんな、泣きそうになるまでのこと……かな?
 ちょっと褒めただけなんだけど……。
 
 え? あれ?
 
「………ぅ、ぅそです………。………信じません………」
「嘘じゃな―――グェッ!?」

 ぐぅええええええええええぇええええええぇええええ
 ね、ねえざん、やべで……ぐ、ぐるじい……ぞんなにジャツを引っ張らないでぇ……
 いぎ、息がぁ……。ぢょっとぉ……。
 
「……だ、だって秋人さんは、亜由美さんが……」
 ――って、痛いいたいイタイッ! 今度はまたナイフかいっ!?
 もうやめてよ、これ以上は血が出ちゃうよ、勘弁してよー!
 気が立っているのは分かる。後でしっかり話を聞いてあげる。
 だからお願いだよ、その果物ナイフだけは本当にもうやめて……。
 なんか、僕まで泣けてきちゃったよ……。
 
「……あ……秋人……さん? ど、どうして……?」
 うぅ、グスッ。
 もうそのナイフにはうんざりだよー。

「どうして……泣いて……。わたし……そんなの……。そんなの……」
 うぅ、グスッ。あー、もう。
 ほら、おとなしくフタ閉めてってば。これもう取り上げたいなぁ……。
 うわわわわっ、姉さん噛み付かないで!! 分かった分かった、それ持ってていいから! 
 
 ふぅ〜……。
 やれやれ……。

「…………………ずるいよ…………」
 え? 何が? 
 どうしたのあず。深刻な顔して。

 ――ピンポン
『差桝町一丁目、さしますちょういっちょうめ。お降りの際は足元にご注意下さい』
 あ、ついた。
 
「…………………………………ばか」
 不穏当な響きと青葉のような薫風を残して、梓はタタタタ……と小走りに降車ステップを下りていった。
 ……なんか、怒らせてしまったのかも。さっきは調子に乗って、ちょっと褒めすぎちゃったかな?
 返って嫌味みたいに聞こえたのかもしれない……。 
 後でメールで「一番じゃなくて、わりと上位」ぐらいにフォローしておいた方がいいのだろうか?

 

 ――って、姉さん!!
 あずについていかなくていいって、いいってば!
 ここでバス降りないの。さっきまでの話、ずぅっと聞いてなかったのかい?
 だ、だ、だ、だからなんでまた、果物ナイフ抜いているの!?
 待って、姉さん! 落ち着いて! うわわわ、暴れないで危ない危ない!
 どうしてそんなにあずの後についていきたがるんだよ!?


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