山本くんとお姉さん2 〜教えてくれたモノ〜 第5回
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山本くんちの玄関には、お地蔵さんが祀ってある。

 

 

 

 

 

 

 

 

お地蔵さんが口を開いた。

「秋くんがいつまでもグズグズ愚図愚図してるからぁぁぁあああああ!!」
 失礼。お地蔵さんではなくて、どうやら硬直していた姉のようだ。

ここで状況を把握するために、十五分ほど前に時を遡ってみたい。
お地蔵さん、いや姉が、とある男性からの電話を受け取った時までだ。
『あ〜〜、亜由美ちゃん? 元気してるう? いやっはっは、ど〜も。え? おじさんの方かい? 
 おじさんはね〜先週のゴルフで腰痛めっちゃってさぁ。それよりも大学の方はどう?あ、そう。
 うん、おじさんも最近はろくに休みをとれなくて。うん、今も仕事中だよ。
 駅前の薬局の向かいの土地分かる?今大きなビルを建ててるでしょ? あれおじさんの担当なんだよ〜。
 それで今ね、梓をそっちに行かせたから。携帯にかけて、帰りに寄って行けと言っといたんだけどね。
 そっちが二人とも留守だったらイカンなと思って。うん。都合が悪くないみたいでよかった。
 それより秋人くんはどう? 元気してる? また背が伸びただろうねぇ、もうおじさんより随分――
 ――どうしたの亜由美ちゃん? やっぱり今忙しかった? あ、そう、料理中なんだ。それじゃ切るね。
 梓の面倒みてやってね。うん。それじゃまたね亜由美ちゃん。はい。ごめんください〜』

はい、ストップ。

賢明なる諸兄ならば、もうお分かりであろう。
この姉、実にみっともない。みっともないことこの上ない。
さぁ、断罪しよう。

――この姉は、
――従妹の少女とほんのちょっと会わせるのが妬けるので、
――わざわざ弟の少年を引き離そうとしたのである。
しかも予想よりも早く現れた少女によって目論みは外れ、逆に連れ立って出て行かれてしまった。

嗚呼、なんとゆうくだらない理由。なんとゆうなさけない行動。なんとゆうふがいない結果。
だがここで、こんな消極的な手段に訴えたこの姉を、少しだけ弁護しておかなければならない。
なぜなら姉は、この少女がすこぶる苦手だったからである。

その昔。姉は少女を、妹としてたいそう可愛がっていた。
既に最愛の存在だった少年と、妹のような少女。幼き三人きょうだいによる仲良き日々だ。
そんなある日のこと、若き姉はふと思った。
――いとこ同士って、結婚できるよねぇ――
姉がひとつの危惧を抱き始めた頃には、もう既に手遅れだったのかもしれない。
幼い少女が少年を見つめる瞳の奥に、身に覚えのありすぎる光が宿り始めていたからである。
疑いを持って観察してみると、今まで気づかなかったのが情けなくなる程、少女の行動は露骨だった。

  朝起きると、泊まりに来てた少女が少年のベッドに潜り込んでいる。
  意味が分かっているのか分かっていないのか、太腿を少年の腰に擦りつけながら。
  半分飲みかけのマグカップを、少年のものとこっそりすり替えている。
  気がつけば、少年が脱ぎ捨てたシャツを着ている。
  少年が入浴中の浴室に、すっぽんぽんで飛び込んでいく。  
 
幼さゆえの無垢でもって、禁断の行いを軽々と遂行していく従妹。
姉の心の中でドス黒い奔流がそろそろ決壊しようとしていた頃、事態はさらに風雲急を告げる。
……両親の海外出張決定である。
恐るべきことに「少年と少女と姉、三人が一つ屋根の下で暮らす」という状況が強要されようとしていた。
姉は抵抗した。全身全霊、もてる力の全てを賭けて抵抗した。
その結果、至福とも言える今の「愛する弟と二人っきりの生活」を手に入れたわけである。

……
その後、少女は変わってしまうことになる。
少なくとも表面上は、まるで少年に興味がないような態度だ。
だからであろうか。姉は少女に対して、なんとなく後ろめたさみたいなものを感じている。
できれば顔を会わせたくない。

そして少年の方も問題だ。明らかに彼は、冷たくなってしまった従妹に寂寥感を抱いている。
姉の嫉妬心を煽っている事も知らず、従妹にアレコレと構おうとする。気遣おうとする。
部屋に上げようとする。
少女の方にその気がないとしても、少年の方がオオカミさんになる可能性だって捨てきれないのだ。
できれば少年とも会わせたくない。

しかし今の極楽生活を続けるためには、彼女の来訪だけは受け入れざるを得ないのだ。
少年の保護者である叔父の手前、少女とも昔ながらの仲良しであることをアピールしなければならない。
さっさと追い払えば良い、よその泥棒猫とは違う。
姉は今でも、この少女が苦手だった。
………
……

 

さて、そろそろ現在の姉の様子を見てみよう。
姉は揉み手で果物ナイフをもて遊びながら、リビングをうろうろうろうろ歩き回っている。
……なぜ果物ナイフを握っているのだろうか、我々にはその理由を推し量ることはできない。
どうやら今日はそうするのがお気に入りなのだ、安心できるのだ――そういうことにしておこう。

不機嫌そうである、傍目にも不機嫌そうである。
苛立たしげに髪の毛を掻き毟りながら、コツコツとナイフで壁を叩く姉。
だいたい欲張らずに少女を家に上げておけば、一時間かそこらで帰っていったはずなのだ。
仮に少年が部屋へ連れ込んだとしても、必殺のお茶&お茶菓子攻撃で乱入することは可能だった。
それなのに余計なことをしたから……。自業自得。後悔先にたたず。

おっと、なにやらブツブツと呟き始めた。
――図書館まで片道二十分、往復四十分。あとは宿題とやらを片付けるのにどれぐらいかかるのかしら。
――秋くんはかしこいから三十分もあれば充分かな。合計七十分……長いッ! 六十分が限度だ! 
――……一時間あれば帰ってこれるかなぁ。一時間……そうだよねぇ。
それ以上一緒にいたら、もう浮気だよ。
――梓ちゃんだっていつも一時間くらいで帰るんだから。

自分に都合よく状況を解釈し、自分に都合よく条件を作り上げていくことは、この女性の得意技であった。
しかし今の彼女にとっては、脳内で大幅に短縮されたその一時間でさえ待つことは苦痛だ。

例えばラブホテルの看板。ご休憩は普通二時間だ。
彼女が大切なものを少年に優しく引き裂いてもらうその日には、最低でも四回はして貰うつもりでいる。
つまり半分の一時間あれば、二回は中に出して貰えそうである。彼女の脳内ではそう計算されている。
二回だ! 二回も膣内射精されれば、周期さえ合えばすぐにも孕めそうである!
双子だったら一躍二児の母親だ!

翻って、仲良く肩を並べて出て行った少年と少女のことを考えてみる。
そのまま寄り添うように、びらびらビニールのついたお城のような建物の入り口へと消えて行く二人。
部屋の向こうから聞こえてくるシャワーの音と、そわそわ何度もベッドに座りなおす少年。
俯き加減にバスローブ巻いて出てきたしなやかな肩。そっと手が添えられて。
少年の唇が、首筋に、鎖骨に、双丘の頂きに、そして茂みに
漲った少年があてがわれ、シーツを噛みしめた少女の口から悲痛とも歓喜ともいえる――
―――
――

山本くんちのリビングルームに、顔色真っ青の陰気なお地蔵さんが祀ってある。
弟の結婚式場へ包丁片手に駆けつけるところまで想像して、お地蔵さんは我に返った。
ぶんぶんぶんと頭を振る。随分と最低最悪な妄想をしてしまったお地蔵さんだ。
そんなことあるはずがない。
少年に限って、そんなことあるはずがないのだ。もっと彼を信用しなければ。

置時計はもう三時を指している。
イケナイ妄想をしている間にも、悪魔の一時間は過ぎてしまったようだ。
それを確認した姉は一転、ほころぶように顔を輝かせる。もうすぐ帰ってくる。もうすぐ少年が帰ってくる。
弟の帰宅を迎える時、姉はいつだって幸せなのだ。

――とびっきりの笑顔で、おかえりを言ってあげようかな。

「玄関 あけたら 二分で お姉ちゃん」 

――ううん、二分もいらない。二秒でお姉ちゃん。
――そのままいただきますしてくれても、いいんだよ?
ふん、ふん、ふん、と上機嫌で古いCMテーマをハミングしながら、玄関の方へと移動する。

――まだかな。まだかな。
―秋くん、まだ帰ってこないかな……

―かな…

………
……

三十分後。
山本くんちの玄関には、もはやお地蔵さんと囃す気にもなれない程、無残にしょぼくれた姉の姿があった。
少年が出て行ってからもう一時間半になる。つまり、少女と二人っきりにしてから一時間半だ。
姉は心の中で断じた。これは重大な裏切り行為であると。

ぷりぷりしながら携帯を取り出した。
待ち受け画像は――当然少年の笑顔の写真。

「うぅ……」

――秋くんはずるいよ……。
――ずるいよ……。そんな顔されたら、お姉ちゃん……
――お姉ちゃん、怒っているんだから……

ちゅ

目を閉じて、大事な宝石にするように、そっと口付けする。

嗚呼、寂しくてしょうがない。まるでもう半日も会っていないかのような錯覚。
メールを出そう。さりげなくメールを出して、早く帰ってくるよう催促しよう。
『そろそろ帰ってくる?』『はやく帰ってきてよ』『そばにいてよ』……こんなフレーズが
真っ先に頭に浮かんだ。

――あぁ、でも駄目……そんなの。
――そんなあからさまにおねだりしては、お姉ちゃんとしてはしたない……。

外にお仕事に出た旦那様を、じっと耐えて待つのも妻のつとめ。姉だってそう変わるものではない。
……なんだかよく分からないが、彼女の中では姉としてそういう倫理観が重要みたいだった。
ひとしきり頭を捻った後、にっこり微笑んで携帯を操り始める姉。
弟へのメールを考える時、姉はいつだって幸せなのだ。

『2006/05/20 15:36 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん、今日のお夕飯何がいいかな――』
メール、送信。

――うん、完璧だっ。

我々にはどうしようもなく平凡な一文に見える。しかし姉にとっては細部まで吟味されつくした文面なのだ。
少年の食欲を刺激して家を恋しくさせるキーワードに加え、お姉ちゃんらしい家庭的な側面をアピール。
これらをバランスよく配合したメールなのだ。これならば、お姉ちゃんとして恥ずかしくないメールである。

――まだかな、お返事まだかな。

さっきすぐに帰ってきていれば、夕飯は少年の好物の茶碗蒸しにするつもりだった。
今でも少年がおねだりしてくれば、作ってあげるのに吝かではない。
……ただし少年の茶碗蒸しにはちょっぴり、いやたっぷり、お姉ちゃんの唾を落しちゃうつもりでいる。
間接キスだ。

――まだ、かな


……
………五分過ぎた。
十分過ぎた。
返事はこない。

――……おかしいな、秋くん。気がつかなかったのかな。

想いが通じないと余計に寂しさが募るもの。
左手小指第二間接を切なげに甘噛みしながら、携帯をぽち、ぽち、ぽち、と。

――秋くんがイケナイんだからね? 秋くんがお姉ちゃんをさみしがらせるからだよ……。

『2006/05/20 15:49 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん、そろそろ帰ってくる?――』
メール、送信。

――出しちゃった……。言っちゃった……。
――秋くんが、こんなはしたないお姉ちゃんにしたんだから……。
――秋くんはちゃんと責任取らないと……だめなんだよ……?

自分に浸って、長い睫毛を伏せる姉だ。



……
………そして、三分が過ぎた。
五分が過ぎた。
返事はやっぱりこない。

――ん、おかしいなぁ……。

配信ミスだろうか? 図書館は電波が弱いのだろうか? これだからこの携帯会社は困る。
見えない何かにぷんすかしながらもう一度、やや乱暴に同じ文面をぽち、ぽち、ぽち。

『2006/05/20 15:57 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん、そろそろ帰ってくる?――』
メール、送信。

三分経過。
反応なし。

――図書館だから自粛してるのかな?

しかし三回もメールを入れたのに、少年が反応しないのは珍しい。
姉の記憶内のデータを検索しても、そこまで無視されたのは体育の授業とテスト中の時ぐらいしか
思い出せなかった。
今だってちゃんと、バイブモードにして身につけてくれているはずなのだ。姉の言いつけを守って。

『2006/05/20 16:03 From 亜由美 To 秋人 ――ねぇ、秋くん――』
メール、送信。
そろそろ不安になってきたのだろうか。指が汗ばんでボタンの上で滑る。

一分経過。
音沙汰なし。

――秋くんッ!

番号呼び出し、コール、コール、コール、コール……出ない。
もう一度呼び出し、コール、コール、コール、コール……出ない。

『2006/05/20 16:09 From 亜由美 To 秋人 ――秋くんなにやっているの?――』
『2006/05/20 16:11 From 亜由美 To 秋人 ――もう帰り道なんだよね?――』
『2006/05/20 16:13 From 亜由美 To 秋人 ――バスが止まっているのかな。渋滞?――』
番号呼び出し、コール、コール、コール、コール。
返事なし。

 

――どうしよう、どうしよう、どうすればいい? 

『2006/05/20 16:19 ――変な人が家に来て、消火器買ってくれってしつこい。こわい――』
『2006/05/20 16:21 ――秋くんたすけて!――』
『2006/05/20 16:22 ――こわいから助けてよ!!――』
『2006/05/20 16:23 ――秋くん!――』
返事、なし。

――やだ……

『2006/05/20 16:24 ――秋くん!!――』
返事、なし。

まぶたが熱い。
息がつまる。
視界がぼやけてる。
意識の果てで、生々しい極彩色を撒き散らしながら、さっき妄想した少年と少女の結合シーンが
何度もリプレイされる。

――やだよ……

やだよ……
やだよお……そんなの、そんなの……
……そんなの!! いやだッ!!

そんなのぜったいにいやだッ! 
秋くんはわたしとずっと一緒にいるんだよ!? 
死ぬまでずっと、ううん、死んでからもずっと一緒にいなきゃいけないんだよ!?
秋くんはわたしのものなのに!! わたしのものなのに!! わたしだけのものなのにッ!!
盗ったんだ! やっぱりあの娘が盗ったんだ! ううん、誰だっていいッ! 
梓だろうが藤原の売女だろうがよその雌猫だろうがどうでもいいッ!!
秋くんを盗った! わたしのものなのに盗った!! 誰かが秋くんを盗ったッ!! 
ゆるせない! そんなの許せない!! 許さないッ!!
そばにいてくれなきゃいやだ! いつも繋がってなきゃいやだッ! 
いつもわたしのこと考えてくれなきゃいやだ! いつもわたしのこと想ってくれなきゃいやだッ! 
わたしのことだけを想ってくれなきゃいやだ! わたしだけに優しくしてくれなきゃいやだッ!
わたし以外のこと考えないで! わたし以外の子と喋らないで! 近寄らないで! 見ないで!
お姉ちゃんだけを見てよッ!!  

お姉ちゃんだけのそばにいてよッ!!

お姉ちゃんだけを、愛してよッ!!!!

 

『2006/05/20 16:28 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん――』
『2006/05/20 16:28 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん――』
『2006/05/20 16:29 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん――』
『2006/05/20 16:30 From 亜由美 To 秋人 ――ねえ秋くん――』
番号呼び出し、コール、コール、コール
『2006/05/20 16:33 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさない――』
『2006/05/20 16:34 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさなあ――』
『2006/05/20 16:35 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさないから――』
『2006/05/20 16:35 From 亜由美 To 秋人 ――ゆるさないから――』
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
『2006/05/20 16:39 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん秋くん秋くん――』
『2006/05/20 16:40 From 亜由美 To 秋人 ――もう死ぬから――』
『2006/05/20 16:40 From 亜由美 To 秋人 ――お姉ちゃん死んでやるから!――』
『2006/05/20 16:41 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん!――』
『2006/05/20 16:41 From 亜由美 To 秋人 ――本当にもう知らないんだから!――』
『2006/05/20 16:42 From 亜由美 To 秋人 ――もう駄目だよう…――』
『2006/05/20 16:42 From 亜由美 To 秋人 ――返事してよう…――』
『2006/05/20 16:42 From 亜由美 To 秋人 ――いじわるしないでよう…――』
『2006/05/20 16:43 From 亜由美 To 秋人 ――お願い…――』
『2006/05/20 16:44 From 亜由美 To 秋人 ――秋くん秋くん秋くん秋くん秋くん秋くん秋くん――』
『2006/05/20 16:45 From 亜由美 To 秋人 ――ころしてやるから――』
『2006/05/20 16:45 From 亜由美 To 秋人 ――でないと みんな ころしてやるから――』
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
番号呼び出し、コール、コール、コール
『2006/05/20 16:49 From 亜由美 To 秋人 ――あは――』
『2006/05/20 16:51 From 亜由美 To 秋人 ――あははははははははははははは――』
『2006/05/20 16:52 From 亜由美 To 秋人 ――う         ――』
『2006/05/20 16:54 From 亜由美 To 秋人 ――あきくんきらい――』
『2006/05/20 16:55 From 亜由美 To 秋人 ――ひつ        ――』
『2006/05/20 16:56 From 亜由美 To 秋人 ――あきと――』
『2006/05/20 16:59 From 亜由美 To 秋人 ――あきくん あきと――』
『2006/05/20 17:03 From 亜由美 To 秋人 ――おい で――』
『2006/05/20 17:06 From 亜由美 To 秋人 ――…………――』
『2006/05/20 17:07 From 亜由美 To 秋人 ――あきくん だいすき――』
『2006/05/20 17:09 From 亜由美 To 秋人 ――大好き、だよ?――』
『2006/05/20 17:11 From 亜由美 To 秋人 ――だい すき――』
番号呼び出し、コール、コール、コール、コール、コール……

返事 なし

 

……かたん

酷使され続けた携帯が手の平から零れて、自由落下にその身を委ねる。

……ずるずるずる……ぺたん。

溢れ出す絶望を支えきれなくなった両脚が、崩れ落ちる。力なく座り込む。

「捨て……られた……」
ぽたり、ぽたり、床に大きな水溜りを作っていく。

「……秋くんに……見捨てられた……」
静まり返った山本家の廊下に、低い嗚咽だけが響き渡る。

「……私を……見捨てた……」
両手の中には、果物ナイフ。
いつの間にかフタの外れた、果物ナイフ。

姉のなきべそ顔が映りこんだ、ぎらぎらひかるナイフ。

吸い込まれるように。
惹き付けられるように。

大きく見開いた姉の瞳から、少しずつ少しずつ、潮が引くように涙が乾いていく。
表情から絶望が消え……ただただ乾いていく。乾いていく。
他に名称も形容もない、何もない、ただ美しい、乾いたかお。

 

姉は、じっと、ナイフに、魅入っていた。

 

 

 

ところでここは、すぐ真上にある少年の部屋。
「着信有り 11件 未読メール有り 46件」と表示された携帯電話が転がっている。


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