山本くんとお姉さん2 〜教えてくれたモノ〜 第4回
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「秋人さん」
霞みゆく想いの向こう側から、現実の梓が話しかけてくる。
いけないな。昔みたいにこうやって梓と街を歩いていると、物思いに耽ってしまう。

「なんだか慌しいご様子でしたけど、図書館へは急ぎの用なんですか?」
「いや全然。僕は宿題をする環境が欲しかっただけだから。あずこそ、今日は学校?」
「午前中だけ課外授業があったんです、外から講師の方を招いて。私の学校、そういうの多いですから」

眩しいほどの白い肌に映える、チェックのスカート。ブレザーの胸元に咲くワインレッドのリボン、
厳かな校章。
艶やかな流れる黒髪に、可愛らしいベレー帽。
……彼女の纏った制服は、地元でも有名な中高一貫の名門女子学院のものだ。
気品と可憐さを兼ね備えたこの制服を身に着けているだけでも、その名声と相まって地元では特に目立つ。
……実際、平均偏差値はうちよりずっと上だ。
彼女と並んで歩いているだけでも、同世代の男子にはおそらく垂涎の一事だろう。

本当に綺麗になったよな、あず……。
従妹の成長ぶりに誇らしささえ感じながらも、どこか寂しげに微笑んでいる自分を強く自覚する。

僕と、姉さんと、梓。僕らは、三人兄妹のように子供時代を遊んでいた仲だ。
一人っ子の梓は、僕を“お兄ちゃん”と、姉さんを“お姉ちゃん”と呼んで慕ってくれた。
特に僕にはよく懐いてくれて、いつも甘えてきて、どこへ行くにも纏わり付いてきたものだ。
一緒にお風呂にまで入ってこようとして、よく姉さんと喧嘩になっていたっけ……。
家が近くで両親が仲良しとなれば、子供心にはもう垣根など無い。
従兄妹同士、お互い泊まったり泊まりに来たりの往復だった。

それでも、そんな時間は長くは続かない。
まず最初に、僕らとは少し年の離れた姉さんが、かつての三人のようには遊ばなくなった。
さらに僕が中学に上がり、梓が中学入試の猛勉強を始めた頃から、僕も梓も頻繁な行き来はできなくなった。
そしてあれは、僕と姉さんが二人暮らしを始めたのと丁度同じくらいの時期だ――
――僕のことを“お兄ちゃん”ではなく“秋人さん”と呼ぶようになったのは。
――よそよそしい、他人行儀な言葉遣いをするようになったのは。
――屈託ない笑顔を向けてくれることもなく、無表情で、淡々と接してくるようになったのは。
――どんなときでも近づきすぎることなく、いつだって僕との間に「壁」を作るようになったのは。

世間では普通のことなのかもしれない。人は変わっていく。中学高校時代ともなればなおさらだ。
彼女は変わった。姉さんも変わった。……そして他人から見たら、きっと僕だって変わったに違いないのだ。
ただそれでも僕は、今でも彼女のことを昔と同じように“あず”と呼ぶ。
いつの日かもう一度、くだけた笑顔で、“お兄ちゃん”と返事してくれる日が来るようにと。
願いを込めて。

………
……

 

「でも、秋人さんがご自宅で勉強できないなんて珍しいですね。どうかしたんですか?」
ふいをつかれた。

家を出る時から、ずっと纏わり付いている苛つき。
僕の背中にひっそり寄り添ってくる、得体の知れない不安感。
決して重いものではない。でも喉に刺さった魚の小骨のように、僕の意識を喚起してやまない『ソレ』

「それになんだか、先程からご機嫌斜めのように見えますが……」
……やっぱり顔に出てしまったか。
無意識に、手で顔をさすってしまう。

「あ……ごめんなさい。別に詮索するつもりじゃ……。ごめんなさい……」
恐縮してサッと距離を置こうとする梓に、再び寂しさがこみあげる。
せっかく梓が僕に向けてくれた気遣い。それが離れていくのを引き止めるような気分で、口を開いていた。

「ちょっと前に電話がかかってきて、さ」
「……はぁ」
「姉さんが電話に出た後、急に出かけろ出かけろと騒ぎ出して」
「はい」
「家で課題をこなしたいって言っても駄目だって、追い出されたんだ。それだけ」
「ふうん」

……なんだ。口に出してしまえば、トンでもなく些細なことじゃないか。
『姉さんに都合があって家を追い出された』――ただそれだけのことだ。
冷静に客観的に考えれてみれば、こんなことに拗ねて苛々していたなんてどうかしていると思う。
妹のような年下の女の子の前で、みっともない……。
でも、梓に話してみて良かったな。なんかスッとした。
家を出た時よりも透き通った空気が、肺を満たし始めていた。

 

「秋人さん、可哀想ですねェ」

……………………あれ? 
そこだけ微妙に台本を間違えたんじゃないかと、脚本家に文句をつけたくなるようなちょっとした違和感。
だってそこは、『子供ですねー』とか『甘えん坊ですねー』とか、その辺の台詞の出番じゃん?
思わず「NGかい?」と軽口を叩いてしまいそうな。
だから僕は、梓を振り返って――

――梓が、じっと、僕の横顔を見つめていて。

僕の表情の筋繊維、一本一本を取り出して吟味しているかのように。じっと。見つめていて。
その黒い瞳の深みに飲み込まれ、沈み、浮かんでは溺れていくような。
霧散しかけた不安の粒子が、再び心に淀んだ沈殿物を形作ろうとしていた。
万物が色彩を失い、灰色の世界で梓と僕の二人だけが息づいているような錯覚を覚える。
フッと。

空気が変わっていた。

 

「亜由美さん、花の女子大生ですから」
梓が、宙を仰ぐ。
彼女の瞳から解放されたのか、捕獲されたのか、覚束ない奇妙な浮遊感。

「どういう……ことだよ?」
「そういうことですよ。……秋人さんには、忘れがちなのかもしれませんが」
不安の溜まった心の容器を攪拌されたような気がして、カチンときた。

「……あずは、何が言いたいんだ?」
「ご自分でも分かっているのに、どうして私に聞くんです?」
梓が微笑む。灰色の世界のそこだけに色鮮やかな花が咲いた、眩しすぎる美しさ。

「秋人さんの方が私なんかより、ずっと一緒に亜由美さんといるんでしょう?」
「そりゃあ……。でもだからって姉さんのこと、全部分かるわけじゃ……」
「そうですよね。分かりませんよね」

くすくすくす。慎ましさと艶やかさの絵の具で塗った、梓の笑み。
僕は何が分かっていなくて、何が分かっているんだ……?
……あれ? 梓の言っていること矛盾してないか? いや、僕が混乱しているのか?
それに目の前の少女は、誰だ? ……梓か? 僕のあずって、こんな目をする子……?
ぐるん、ぐるん、ぐるん、ぐるん。灰色の世界が回っているような、心の困惑。
ええと、ええと。それより僕らは一体、何の話しをしていたんだっけ?

「どうして亜由美さんが、秋人さんを邪魔者に扱ったか。ではなかったですか?」
そう、それだ。どうしてだろう。

「秋人さんは、どう思っているのですか?」
だから分からないよ、そんなの。
ただきっと、誰かが家に来るから、それでかな……と思って……。

「そうかもしれませんね」
梓の囁きが、耳元でそよ風になる。

「……そうですよ。きっと」
甘い吐息に、かぐわしい音色に、そっと眩暈がする。酔いしれる。

「誰かが来るから、あれだけ仲の良かった弟を追い出した。……そういうことなんですね? 
 ……でしたらそれはきっと、凄く大切なヒトなんでしょうねぇ」
すごく……。
そうだ。ぼくより……たいせつなぐらいだから……。
ぼくより……ずっと……。

 

「どんなヒトなんでしょうね? 私も気になっちゃいます」
囁き。囁き。囁き。囁き。渦巻く。
わからないよ……そんなの。僕には分からない……。

「そうですよね。分かりませんよね」
くすくすくす。梓の台詞。さもおかしそうな、あずの微笑み。
あれ、さっきと同じ? また僕の頭の中が回ってる? 
全身にじわじわと染みわたる不安感、気だるささえ感じる。

「姉弟には……見せられないものだってありますから。教えられないことだってありますからね」
そ、そんなこと……ないよ。
僕は、僕らは、二人で支えあって、今までもずっと、これからも。

「姉弟だって、いつも一緒にいられるわけじゃありませんし」
違う、そんなことない……、今までだって、ずっと一緒だったんだ僕らは……。

「『血の繋がった』姉弟なら、いつまでも一緒にはいられませんし」
そんなことないッ……!
そんなこと……そんなこと関係ないッ!!

「そうですか?」
姉弟だったらなおさら、血が繋がっているならなおさら、いつだって、いつまでだって、
僕らは一緒にあり続ける事ができるッ! 決まってるッ!!

「だから秋人さんには、分からないのではありませんか? 今、誰がお家に来ているかを」
だから、だから……僕にわからない……?
なぜ? ……きょうだいだから……?
またこんがらかってきた。僕は何がわからないんだ?
ぐるぐるぐるぐる。回る、まわる。頭が、せかいがまわる。

「亜由美さん、いつもお綺麗です」
そ……そうだ、そのとおりだ! それなら分かる! 
姉さんは綺麗で、スタイルも良くて、優しくて甲斐甲斐しくて、向日葵みたいな人で、だからっ! 
だから、
……ええと……だから……
だから、なんだったっけ……
あず? あず、おしえてよ、あず……。

 

「だから、『当然』なんですよ。当然、放っておかれませんよ」
そりゃあ……、そりゃあそうだ。
男なら、誰だって姉さんが気になるに違いない。好きになるに違いない。放っておけないよ。

「ほら。やっぱり秋人さんには、最初からご自分で分かっていたじゃないですか」
……何を……?

「誰がお家に来ているかを、ですよ。今、ご自分で口にしたじゃないですか?」

……おと……こ……?

「そうかもしれません」
あずの囁きが、そっと僕の言葉に絡みつく。それが、何故か、心地よくて。

「……そうですよ。きっと」
胸の奥に、燻っているナニかに、絡みつく。ここちいい。きもちいい……。

「でも仕方ないです、秋人さんは実の弟ですから。姉弟はずっと一緒にはいられませんから。
 秋人さんは何も悪くないんですよ。気に病む必要もないんですよ」
ぼくはきょうだいだから。血のつながったきょうだいだから。
ずっといっしょには……いられないから……。仕方ないんだ……どうしようもないんだ……。

「きっと、素敵な男性なんだろうなぁ」
……そうだ……わかってたはずだ……。
ねえさんはきれいだから、すごくすごく、すばらしい女性だから。
ねえさんとずっといっしょに、これからもずっといっしょにいるのは、素敵な男性なんだ……。

「うらやましいな」
あずが、そらをあおぐ。

ねえさんは、いまごろ。
いまごろ、ぼくのいない、いえで、
ねえさんを ソイツが

「亜由美さん、うらやましいなァ」
いつかみたような。たかく、たかく、でも、はいいろのそらを。

ねえさんに   ねえさんは
わらって……

……きょうだい……は……

ずっと……

―――
――

 

「秋人さん? 秋人さんっ!」

「……あ……? ……ぅ……ん」
気がつけば、喧騒。溢れる色彩。動き行く時間。
心配そうに、梓が僕の顔を覗き込んでいる。
梓と話しこんで、そのまま物思いに耽って、いったいどれだけの時間が経ったのだろうか……?
僕はバス停で、図書館行きのバスを待っていた。
気持ち悪い……。吐き気がしやがる……。

「顔色悪いですよ? あの、バスに乗れます?」
「大丈夫……。ごめん、気にしないで」
もうこれ以上、考え事をするのはやめよう……。
バスの中で、さっき食べたりんごを吐き出したら洒落にならない。

「課題をこなすだけなら図書館でなくとも出来ますけど……。ご気分が優れないのなら、私の家の方に来ます?」
「……ん、いや」
確かに、足を動かすのもなんだか億劫になってきた。わざわざ図書館に行く気力もない。
でも姉さんに図書館に行くと言って出てきた以上……その通りに行動した方が、いいのだろう。
予定を変えたのに連絡しないと、また後でうるさいし。
後ろポケットには携帯が入っていない。連絡を入れたくてもできないし……。

姉さんが
僕を
無理矢理追い出したから
持って出てこれなかったんだ。

あるはずのスペースに、あるべきものがない。
その気色悪い空虚感が、僕の神経を逆撫でする。煽り上げる。

なんだよ……
なんなんだよッ、これはッ! これはなんなんだよッ!!

――姉さんが……

姉さんがッ、自分でッ……!

姉さんがッ、いつも居場所を教えろと、自分で押し付けた物のくせにッ……!!

 

初夏の風。
舞い踊る梓の黒髪、僕の頬を撫でる。


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