山本くんとお姉さん 後編
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<5>
「山本くん、いっしょに帰ろ?」
やや慌て気味に帰り支度をしていると、隣席から声がかかった。
「もう帰るんだよね? いっしょに帰ろ」
藤原さんはクラスの中でもかなりおとなしい方だ。いつも一歩ひいていて、地味な印象を与える。
そういう子ってたまに口を開いた時には、有無を言わせぬ迫力をもつ場合がある。
「いこ」
で、今がそうかは分からないけど、気がつくと僕は昇降口まで引きずられていた。
あぁ、ぐずぐずしている間に並んで校門を出てしまう。
多分もう来てる。ていうか、確実に待ってる。
女友達に家族を紹介するってのはなんか気恥ずかしい。早く断っておかないと。
「あの、今日用事があるからさ――」
「秋くん」
姉さんだ。横合いの木陰から唐突に声が掛かるので、多少ビクつく。
さて、どうしよう。

「……」
「……」

初夏だというのに、どこからともなく木枯らしが吹きぬけた。
グラウンドに捨てられていたゴミ袋が舞い上がり、バタバタと派手な音を立てる。

巻き上がった砂煙が、容赦なく僕の視界を覆った。
いたたたっ!
思わぬ大自然の目潰しに、涙が止まらない。目をあけられない。
ごしょごしょ瞼をこする。

「……」
「……」
「山本くん、この女性は……」
「あ、ごめんっ、僕の姉。姉さん、彼女は――」」
見えない目をこすりながら、とりあえず藤原さんの声がする方に向って声をかける。
「藤原……里香さん……だよね?」
「……はい。貴女が、お姉さん……」
ありゃ? もしかして、知り合い? 
それとも藤原さんのこと、話題に出したことあったか?

「……」
「……」
「あの、はじめまして」
「はじめまして、秋人の姉です」
「……」
「……」
「……山本くん。私、行くね?」
「あ、今日は本当に悪ィね。」
ようやく視力が回復した時には、去り行く藤原さんの背中を見送っていた。
なんだか意味不明に罪悪感が募る。なにかいけないことをした気も。

……と思った刹那、藤原さんは鞄を後ろ手にしてくるっと振り向いた。
よかった、笑顔だ。
「山本くん、”また”明日」

<6>
五月の湯船は、ちょっとぬるいぐらいが気持ちいい。
すりガラスの向こう側では、姉さんが乾燥機を回しながら洗濯物を畳んでいる。
今日の買い物で酷使した筋肉を、風呂水でうんと解きほぐしてやる。
僕と一緒に買い物をする時、姉さんはやたらと色んな物を買ってくれる。
プリンが欲しい?とかアイスが欲しい?とか、僕の答えも待たず次々とカゴに入れていく姉さんだ。
栄養バランスはどうなったのだろう。結局増えた荷物は僕が持つので、あまり嬉しくない。

『秋くん、リンスの詰め替えそこにある?』
「あるよー」

ガラス戸ごしの返事。
それにしても僕が風呂入っている時に限って洗濯を始めるのは、姉さんの悪い癖だ。
たまに戸口に手がかかるから、おちおち髪の毛も洗えやしない。
きっとアレだ。家事の一切を取り仕切りたいから、
僕が風呂で手を出せないうちに済ませてしまおうという算段なのだろう。
ちょっとぐらい手伝わせてくれたっていいのに……。

『秋くん、スポンジこっちにあるんだけど?』
「つかわないよー」

あぁそうだ。ついでに今日こそパンツを買い込まなければいけなかったのに、忘れていた。
最近僕のパンツが妙に減っている。
干した時に風で飛ばされたのだと思うけど……まさか下着ドロの標的だろうか?
いやドロだって僕のパンツに興味ないだろうが、姉さんの下着の被害については恥ずかしくて聞いていない。
でも二人暮らしなんだし、本当に僕が気をつけなければ。
他に家事が出来ない分こういう時こそ姉さんを守れなければ、父さん母さんに申し訳が立たない。
僕の大切な姉さんに、不埒な行為を企む輩がいるとしたら容赦はしないッ!
……湯気にあてられて妙に熱くなった。

『秋くん、この長袖まだ着る?』
「しまっていいよー」
『このシャツのことだよ? ちょっと、ここ、いい?』
かりかりと音をたてて、ガラス向こうの白い指がくねる。
「よくないよー」

目が回り始める直前に、ようやく姉さんは脱衣所から撤退してくれた。
下着タンスの中に、かえのパンツは数枚しかなかった。

<???>
暗闇の中で目をこらす。

秋くんだ。
秋くんの寝顔だ。
うふっ。うふふふふ。えへへへへへへへへへへへへへへへ。

携帯チェックはもう済ませた。メール・着信履歴、共に異常なし。
目覚ましは止めた。これで明日朝の秋くんの時間もわたしのモノ。
――午前一時……まだたっぷりある夜の時間を、こうやって正座しながら過ごしていられる。
おおっと、いけない。
いつの間にか緩みきっていた口もとをパジャマで拭う。
おつゆで折角の寝顔を汚すような粗相をしては、勿体無いよ。

あどけない寝顔……かぐわしい吐息が、わたしの頬を撫でる。
すぐそこに、弟のクチビルがあるんだ。秋くんにキスができる。
『ものの勢い』で0になってしまっても、許されるだけの唇の距離。
もー、ちょい。あとちょっと、あとちょっと。
でも秋君ったら物音にも女心にも鈍感なくせに、そういう気配(殺気?)にだけは敏感。
いつもあと少し、というところで図ったかのように目を覚ますんだもん。
今朝も無理だった。

まぁこの時間に失敗して起こしてしまうと、場を取り繕うのが面倒。
やっぱ勝負は朝よね。
可哀想な今のわたしに許されたスキンシップは、こうやって手を握り締めることぐらいよ……。
秋くんの手。秋くんの手。無意識のうちに、自分の太腿に擦り付けている。
……このまま、手をつないだまま、わたしの『わたし』に誘うことができれば。
パジャマごしだっていい。
秋くんの手がピクリと動いただけで、今朝はちょっとイきかかった。
あぁ、駄目だ。こりゃ寝る前に下着かえないと……。

この可愛い寝顔、他の誰にも見せない。誰にも渡さない。
そういえば今日の収穫……『藤原里香』――度々携帯チェックにひっかかっていた人名、特定できた。
顔も覚えた。あの目つきも絶対忘れない。やっぱり危惧したとおりの雌猫だった。
初めは敵か味方か探るような、おどおどした目つき。
それが獲物を狩る獣の目に変わっていく時の、あの生々しさ。醜さ。
しかも別れ際ときたらどうだ。あの女、哂っていた。嘲笑だ。
懐柔も威嚇も失敗に終わった後の腹いせだろう。『所詮は実姉』と言わんばかりの表情の歪み。
いいわ、明日もずっと校門で秋くんを待っていてやる。
理由なんか後で考えればいい。そうしよう。

……ちょっともう午前三時とはどういうことよふざけてんのこの時計。
流石にもう寝ないと、秋くんより早く起きられないよ。
おやすみ、秋くん……。

お姉ちゃんの夢、見ていてくれるかな……?


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