山本くんとお姉さん 前編
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<1>
「……ん……?」

朝。目を覚ますと、鼻先に姉さんの顔があった。

「姉さん……おはよ……。あれ……?」
「おはよう、秋くん」
姉さんの顔がスライドする。途端、世界が明るく広がる。
見慣れたつまらない天井に、なんとなく安心感。
今日は日差しがキツそうだ。身体の右側が熱い。
ちがう、右手が熱い。
姉さんが僕の右手を握りしめていた。

「……あれ? いつからそこにいたの? いまなん時?」
「ちょうど今、起こしにきたところだよ」
あぁ、また姉さんに起こされてしまった。
ちゃんと自分で起きられるはずなのに、最近いつも目覚ましが勝手に止まっていたり壊れていたりで、
結局姉さんに起こされるのだ。

姉さんがスカートを翻して、ふわりと柔らかな空気が揺れる。
姉さんのにおい。お日様のにおい。
ごはんだから早く降りてきてねと言い残して、姉さんは部屋を出て行った。
手汗でベトベトになっていた右手を布団で拭ってから、僕もそれに倣う。

<2>
自己紹介がまだでした。僕、山本秋人って言います。
僕が中二に上がった頃から両親とも海外勤務になり、今はこの広い家で姉と二人です。
それでも頑張って暮らしています。

「今日こそ買い物に行かないといけないなぁ。秋くん手伝ってくれる?」
「いいよ。じゃあ放課後に……駅前で待ち合わせ?」
「わたし午後の講義ないから、迎えにいくよ」

こっちは僕の姉さんです。山本亜由美って言います。
僕より三つ上で、今は地元の女子大に通っています。とても優しい姉なんですよ。

「……秋くん? 急須とお話しているの?」
「ううん、なんでもないよ」
適当に誤魔化して、朝ごはんにありつく。
基本的に我が家では、家事の一切を姉さんが独占している。
『秋くんの栄養バランスを考えて料理してるから、お姉ちゃんが作ったモノ以外口にしちゃ駄目。
分かった?』
……ということで厨房には立ち入り禁止。もし姉さんがいなくなったら、僕は餓死してしまうんだろう。
それじゃ駄目人間だからせめて掃除でもしようとすると、僕の部屋の隅から隅まで、知らぬ間に
姉さんが片付けている。
洗濯だって僕の隙を見計らって済ませてしまう。
自分のことぐらい自分でできるのに、姉さんは少し過保護すぎるんだよ。

<3>
昼休みのベルが鳴った直後、生徒がとる行動パターンは三つに分類されると思う。
一つ目は僕のように、その場で弛緩するタイプ。
二つ目は一分一秒の無駄も許さず、談話の花を咲かせまくるタイプ。
そして三つ目は、一目散に何処かへと駆け出すタイプ。
どうやら今日は最後のグループに分類されたのであろうか、友人の孝輔や岡田君は教室を転がり出て行った。
おそらく食堂だろう。

「山本くん、今日は一人でお弁当?」
これは隣りの席の藤原さん。
「うん」
うちの高校は食堂が小さい。テーブルもぎゅうぎゅう詰め。
だから僕のような万年弁当族までお供をすると、公共の迷惑になること甚だしいのだ。

「じゃ、お昼いっしょにたべて、いい?」
「もちろん」
藤原さんとは去年からずっと一緒のクラスだったけれど、わりと親しくなったのは今学期の席替えからだ。
つつつと机が寄ってきて、藤原さんの小さな肩も寄ってくる。

弁当のフタを開けて中身を一瞥。
豪華だね〜、という藤原さんの声をよそに、僕は箸じゃなくて携帯を取り出す。

――いただきます。今日はアスパラの肉巻きがおいしそうだね――
メール、送信。これでよし。弁当の中身に触れておくのもポイントだ。

「……山本くん、何やってるの?」
何をやっているか、とか言われても説明しにくい。
「姉さん」
この一言で分かってもらえないかな。

<4>
この弁当は勿論、姉さんの手作りだ。
だから弟としては当然、姉に感謝の意を表明しなければならない。
ちゃんと姉さんのお弁当を前に『いただきます』をした証も兼ねて、メールを入れる義務。
姉さん曰く「よその泥棒猫の手垢のついた食べ物」
――たぶん添加物とか合成着色料を使った外食のことだと思うのだが――そういうのを食べなかったよ、
という証明。
姉さんが騒いでいたことを僕なりに要約すると、そういうことなのだと思う。
……本当のところは、僕もよくわかっていないのだが。

そもそも初めて携帯を持たされた時、姉さんは休み時間のつど定時連絡を入れることを提案した。
いや、強く要請した。
……あれは半強制だった気もする。
『わたし達は二人暮らしで、お昼は家に誰もいないでしょ? 秋くんに何かあった時、困るの』
『だから秋くんはいつも、お姉ちゃんに居場所を知らせなければいけないの。分かった?』
姉さんは優しすぎるのだ。僕のこと、心配しすぎだ。
そこで三ヶ月に渡る議論の末、「最低でも昼休みごとに連絡を入れる」という妥協案に落ち着いたのだ。

これを怠ると大変なことになる。
つまりその日一日は、姉さんが口を利いてくれなくなる。
具体的には、ごはんを食べる時もテレビを観ている時もくつろいている時も、
姉さんは無言で僕に背中を向けるのだ。
どっちを向いても無言の姉さんの背中。
たいへんだ。

内心で色々感慨に浸りつつも藤原さんと談笑しながら、弁当を綺麗さっぱり平らげる。
よく食べるんだね〜、という藤原さんの声をよそに、僕は箸入れじゃなくて携帯を取り出す。

――ごちそうさま。今日は卵焼きを甘口にしてくれたんだね――
メール、送信。これでよし。おかずの味に触れておくのもポイントだ。

「……山本くん、また何やってるの?」
また、とか言われても説明しにくい。
「姉さん」
この一言で分かってもらえないかな。


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