リボンの剣士 第27話
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一睡もできなかった。
目覚まし時計が、朝になったことを騒がしく教えている。
このベルの音を聞くのも久しぶりだった。
あたしは、目覚ましを止めて、染みが付いたシーツと枕を見下ろしながら、
うつ伏せの姿勢から起き上がる。
学校……行きたくないけど、行かなくちゃ……。

家を出た直後、このままいくといつものように途中で人志と会うことになる、って気付いた。
だからあたしは、全力で走った。人志に会わないように、先に学校に行った。
走ったからって、何かが振り落とせるわけじゃない。息が上がっただけ。
会えない。人志に顔を見せられない。
昨夜、人志から電話が掛かってきた。
あたしは出なかった。お母さんが引きずり出そうとして、
必至にベッドにかじりついていたのを覚えている。
結局お母さんが応対したけど、人志はあたしに、こう伝えてと残したらしい。
『怒ってもいないし、恨んでもいない』
お母さんからそう聞いたけど、本当かどうかは分からない。
もしかしたら、人志はあたしに文句をぶちまけたけど、
お母さんがわざと内容を変えたんじゃないか――。
……疑われたら怒るくせに、今度はあたしが人志を疑っている。
自分が嫌になる。
人志を守れるくらいあたしは強い――完全に自惚れていた。
本当は、臆病で、自分勝手で、どうしようもないくらいバカで……。

学校に着いたのはいいけど、武道場へ行こうという気にならない。
あそこは剣道をやるところで、あたしも、人志のために剣を振っていたけど――。
手に持っている竹刀が、くたびれたかのように圧し掛かっている。
昨日までは当たり前のように持っていたけど、今は煩わしい。
人志を傷付けるなら、これはもう……いらない。

結局あたしは朝錬には行かず、教室に入った。
電気の消えた、誰もいない教室。まだ朝早いから、廊下側は薄暗い。
風もなく、あたしが動かなければ音もない。
カーテンを閉めると、さらに薄暗くなった。
席に座ってじっとしてれば、音、風は止まって、光もあまり届かない空間が出来上がる。
どうしてか、あたしには、この空間がとても心地良かった。

先生が褒めてくれた。
なぜなら、今日は授業を真面目に聞いて、当てられてもすぐ正解を答えられたから。
でも、別に凄いことでもなんでもない。
ただ授業に入り込んで、ほかの事を忘れたかっただけだから。
人志の方には、絶対に顔を向けられない。

休み時間中、人志は何か言って来ることはなかった。
わかってる。もう、きっと絶交なんだ。口なんて一切聞いてくれないんだ。
それはしょうがないこと、そう思っているのに――。

昼休み、木場春奈が、人志の手を引っぱって教室を出ていく、その背中を見て、吐き気がした。
胃の中のものが、マグマになって込み上げてきて、噴火しそうなくらい。
……確かにあたしは、人志に酷いことをして、傷付けた。人志が好きになる女にはなれない。
だからといって、木場春奈。
そこにあんたが入っていいわけじゃない。
あんたは、あたしの後釜になる資格なんてない!

後をつけるなんて性に合わないけど、そうでもしないと、何かが、抑えきれないような気がした。
あたしが人志に合わせる顔がないとはいえ、女が――
特に、木場春奈が接近してるのを見逃すことはできない。
つくづく自分勝手だと思うけど。
木場は、手を引いている状態から、人志との距離を縮めて腕を絡ませる。
その早さ、鮮やかさは、毒蛇が獲物を捕らえて締め上げるようだった。
握り拳が熱くなる。血反吐を吐かせてやりたくなる。
触るな。
人志に触るな! 毒蛇女が!!

「離せ」
人志は、絡みついてきた木場さんの手を。振りほどいた。
火の付いた導火線が、途中で切られて不発に終わった気分だった。
つまり、人志は木場さんに靡いているわけじゃない。
それが救いだった。

二人が食堂に入っていったところで、引き返すことにした。
あたしも中に入って様子を見たいんだけど……、そこまでやったら、ストーカーになる。
大丈夫よね。人志があたしを嫌いになったからって、すぐ木場さんに乗り換える、
なんてことはしないわよね。
人志が、あたしを嫌いに……。
その部分を思うと、涙が出てくる。悲しくて、辛くて、苦しくなる。
あたしは……強くなんかない。
人志に嫌われることに耐えられない。他の女と仲良くしてるのに耐えられない。
本当のあたしは、弱い。

部長さんに、剣道部を辞めたいと言って、竹刀を返した。
部長さんは驚いていたけど、すぐ落ち着きを取り戻して、他の部員に何か言った後、
あたしのところに戻ってきた。
「……事情を話せ」
道場のすみで、互いに正座して向き合う。
あたしは、感情だけで人志に暴力を振るってしまったこと、そんなことをした自分に、
剣を持つ資格はないことを話した。
この人相手に、下手な隠し事は通用しない。すぐばれて、お説教されるのがオチだから。
あたしたちからそう離れてないところで、他の人たちは練習をしている。
でも、その間には気まずい空気が流れているのがわかった。

「以前から、お前の様子が変であることは気掛かりだった」
部長さんが、重々しく口を開く。
「伊星に手を上げたのは、いつのことだ?」
「昨日……です」
「昨日だと!? 昨日といえば、放課後、私は伊星に会ったのだが」
「えっ?」
今度はあたしが驚かされた。人志は、放課後まで、部長さんと会ってない。
あたしがずっと見てたから分かる。
ということは、人志と部長さんが会ったのは、あたしが帰った後……。
「しかも、私は伊星に、お前の様子がおかしいことを話した」
「……」
「もしや……」
「あたしが、手を上げた後……」
「そうか……」
部長さんの握り拳が、ぐっと硬く握り締められていた。

怖い。きっと人志は、あたしへの恨みを、部長さんに言っている。
今こうして沈黙ができたのも、それを明かすべきかどうか迷っているから。
隠して欲しくない。聞きたい。でも、ありにままを聞かされたら……あたしは、耐えられるの?
「伊星は」
いよいよ来る。神経が激しく波打った。
「お前を非難するようなことは、一つも言わなかったな」
「……」
まただ。お母さんのときと同じで、誤魔化されている。
「そんなこと……ないです」
「本当だ。こんなところで嘘は言わん」
部長さんの姿勢はわずかの乱れもなく、山でも背負っているような、どっしりとした正座。
一種の構えのように見える。
わかってるわよ。部長さんは嘘をつくような人じゃない。嘘をついているのは、あたしのほうだ。
「それに伊星は、お前の力になることを引き受けた」
「そ……それは……」
嘘ではないと思うには、さすがに都合が良過ぎない?
それとも、あたしの脳が、都合の良いところだけ拾ってるのかな。
「信じられないか? 私が直接、伊星から聞いたことだぞ」
「……」
「伊星を疑っているのか?」
「そんなこと!」
つい勢いで返したけど、実は全く疑っていないわけじゃない……。
「なら、信じればいい」
部長さんは、返した竹刀を、あたしの膝の前に置いた。
「大体、お前は剣道においても、横に回り込んだり、変則的に攻めるのは不得意だろうが。
真正面から向かって行くのが、一番得意なのではないか?」
「それは……」
そう言われても、どうなのかわからない。
あたしは、自分が何なのか、どういう性格なのか、はっきり見出せない。

「見ろ」
部長さんの顔が横を向く。あたしも追って見ると――。
……嘘。何で、どうして?
道場入り口のところに、人志がいる。こっちを見てる。
「お前を嫌っているなら、ここに来るなど有り得ないだろう」
そうよ。ありえないわよ。人志は、あたしのことなんて嫌になったんじゃないの?
「己の目で、心で、真正面から確かめてみろ。もとより、ここで逃げるなど、私が許さんが」
部長さんが立ち上がった。あたしも立つと、目の前に竹刀が突きつけられた。
「剣道部を辞めるかどうかは、また後で聞く」
「……わかりました」
竹刀を受け取り、鞄を持つ。
足を、人志のほうへ動かす。人志に向かって歩く。
顔を見るのだけは、怖くてできなかった。


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